世界遺産の楽しみ方

【世界遺産】萩・松下村塾を100倍楽しむためのマメ知識4選

最近ではその思想が本で紹介されるなど、改めて人柄や生き様が人気の吉田松陰。その吉田松陰が教えをふるった松下村塾からは、明治維新を先導した重要人物が数多く輩出されました。
・松下村塾と吉田松陰の生涯
・吉田松陰が松下村塾で教えたこととは
・なぜ小さな松下村塾から多くの偉人たちが生まれたのか

今回は世界遺産、松下村塾を徹底解説します!

1.【世界遺産】松下村塾とは?

松下村塾は現在の山口県の萩市にあった、数多くの門下生を輩出した私塾です。今残されている建物は当時からほとんど変わっていないと言われているので、実際に訪れてみると、かつて明治維新の頃、エネルギーに満ち溢れたたくさんの志士がここで日本の将来を時には激しく語り合っていたのだと思うと心にぐっとくるものがあります。

世界遺産にも登録されているこの松下村塾といえば、吉田松陰がたくさんの塾生に教えを伝えた塾というイメージをお持ちかと思いますが、もともとこの松下村塾を開いたのは吉田松陰の叔父、玉木文之進でした。

吉田松陰の本名は杉 寅次郎。杉家は両親ともに勤勉で学問を好む家柄であり、叔父の玉木文之進は萩藩の明倫館(武士の子どもが通う寺子屋)の先生だったのです。
吉田松陰も幼いころは兄の梅太郎と一緒に松下村塾で学問を学びました。

「松下村塾」という名前の由来は、「松本村」というこの場所の地名の「本」を「下」という字に変えて中国風の呼び名にしたことと言われています。

やがて文之進は萩以外での任務を言い渡され、松下村塾の運営が困難になります。そのため、久保塾という私塾を開いていた吉田松陰(杉家)の親戚にあたる久保五郎左衛門が、この松下村塾の名前を引き継ぎ、さらに学徳のあった吉田松陰に元に次第にその教えを乞う人たちが集まってきたことで、名実ともに吉田松陰による学びの場となったのです。

ですが、実は吉田松陰が松下村塾で教えていたのはほんのわずかな期間だけ。その期間は部屋に幽閉されていた時期を含めても約2年半ほどと言われています。

そんな短期間ですが、松下村塾で学んだ塾生は100名を超え、その中から高杉晋作や伊藤博文といった、その後明治維新を担う人が数多く誕生しました。

これだけでも松下村塾がいかにすごい存在だったかお分かりいただけるかと思います。
そして、これほど多くの偉人たちの、かつては「師匠」であった吉田松陰。
明治維新という日本史の中でも1,2を争う激動の時代を生き抜いた吉田松陰の波乱万丈な人生を少しご紹介しましょう。

2.【世界遺産】松下村塾で教えをふるった吉田松陰の生涯

貧しい中で学問を吸収した幼少期

1830年8月4日、杉家の次男として生まれた吉田松陰。幼少期の名前は「虎次郎」や「大次郎」と名乗っていました。

杉家は禄高たった二十六石という、言ってみれば最下級の武士の家庭。武士としての収入ではやっていけないほど貧しく、時間があるときにはせっせと農業にいそしむ、「半士半農」の家庭でした。それでも両親は大次郎を含む7人の子どもを懸命に育て、また読書や学問を好む勤勉な人で、大次郎もこの影響を大いに受けました。

父や叔父の教えもあり、みるみるうちに学問を吸収した大次郎は、11歳で当時萩藩主であった毛利敬親の前で「武教全書」を立派に講じて褒められたり、15歳の頃には書物を授かるほど学問に長けた子どもに成長します。

日本全国修学の日々から、日本の将来に危機感を抱く

その学才が認められ、萩藩より日本各地への修学が認められた吉田松陰は、その後、九州・江戸・東北を旅し、その後を左右する影響を受けることになります。

海外(ヨーロッパ)力を目の当たりにした九州

まず向かったのが九州の平戸や長崎でした。当時は鎖国状態にあった日本で、唯一海外に港を開いていたのが長崎だったのです。

ここで松陰は鉄砲や大砲といったヨーロッパの技術を目の当たりにして、ヨーロッパが日本よりもはるかに先を行っていることを実感しました。
これは同時に、吉田松陰に危機感をも抱かせることになります。

黒船来航が目前に迫っていたこの時代、隣国の清はアヘン戦争によりヨーロッパの大国、イギリスの植民地を余儀なくされていました。
ヨーロッパの影が日本に近づいているー。

吉田松陰は間違いなくそれを肌で感じていたことでしょう。そして、日本がヨーロッパと対等に渡り合うほど強くなるためには、まず相手を知る必要がある、と考えました。
ヨーロッパについて知りたい。松陰は江戸に行くことを決意します。

佐久間象山との出会い

江戸に渡った松陰は、そこで多くの学者と議論を交わしますが、得られるものはほとんどないばかりか、「ヨーロッパからの技術や考えなど、儒学に及ぶものでは無く、学ぶ必要は無い。」と考える学者に失望しました。

そんな中、異才を放っていたのが佐久間象山です。彼はヨーロッパの情報を積極的に取り入れるためには翻訳された書物ではなく原本を読むことが重要であると唱え、オランダ語を熱心に勉強したり、大砲の製造方法も研究していたのです。

佐久間象山との出会いで、吉田松陰は、先を行っている諸海外に渡って、いろいろな情報を見聞きする決意をします。

ですが鎖国時代、もちろん海外への渡航など許されておらず、万が一バレてしまえば死刑になることも。それでも日本の将来を憂い、本気で真剣に考えるがゆえに、吉田松陰は命を懸けて海外へ渡る計画を立てたのです。

失敗した海外渡航

その後、黒船の来航に合わせて幾度となく海外への渡航を図った吉田松陰。ですが、彼の計画はことごとく失敗に終わります。

成功目前であえなく実現しなかったのが、浦賀に続いて開港した下田にて黒船が停泊中に、黒船に乗船しての渡航を計画した時でした。
詳しくはこちらの記事でもご紹介してますので、ぜひご参照ください。

この下田での渡航失敗により、いずれその計画が明るみに出ると悟った松陰は自ら下田の番所に出頭。身柄を拘束され、下田→伝馬町の牢獄に投獄されたのち、何とか死刑は免れて、生まれ故郷の萩の野山獄に幽閉される身となりました。

この時、吉田松陰はまだまだ闘志みなぎる25歳でした。

松下村塾で「教育者」となる

萩の野山獄に幽閉された吉田松陰。周囲の風当たりは実際どうだったのか、はっきりしたことは分かりませんが、家族や親せきは彼の思いを理解し、手厚いサポートを行いました。

もともと仲の良かった家族だったことや、自分を理解して懸命にサポートしてくれる人が身近にいたことは、吉田松陰にとってこの上ない幸せだったことでしょう。

すでに卓越した学者であるだけでなく、その誠実でまっすぐ、日本の国の将来を必死に考えて行動を起こしてきた吉田松陰のもとには、各地からその教えを乞うべく多くの人が慕って来るようになりました。

幽閉されていた野山獄では年齢に関係なく、希望を失った囚人に学問の大切さを教え、学んだことをこれから生きる上で役立てるよう熱心に説き、多くの囚人を改心させるなど、年齢や境遇を超えて人を愛した教育者だったのです。

やがてその真面目な行いが評価され、吉田松陰は実家での幽閉期間を経て、1857年、正式に松下村塾を開くことになります。ですが、この期間は長くは続かず、1年という短い期間でした。

下田での渡航計画の失敗から幽閉の身になり、吉田松陰は自分の手で日本の国を変えることを諦める一方、自分と同じく日本を思い、そのために日本を突き動かしてくれる”同志”を「教育」によって育む道を選んだのです。そして、その場所が松下村塾でした。

吉田松陰の最期

1858年、井伊直弼が大老になると、幕府は強硬に日米修好通商条約をアメリカと締結し、さらにオランダ、ロシアとも同様の契約を結び、不平等な形で開港を進めました。
(この条約では、日本国内で起こった出来事も裁判権は相手国が持つため、とても日本には不利な内容でした。)

これにいよいよ焦り、怒った吉田松陰は松下村塾の塾生とともにより過激な計画を行動に移そうとします。そして、これが危険分子とみなされ、松陰は再び野山獄へ投獄。
その後、江戸への引き渡しの言い渡しが来た時点で、吉田松陰は自らの死が近づいていることを悟ります。

そして、1859年、かつて投獄された江戸の伝馬町牢屋敷にて斬首の刑となり、30歳という短い人生を閉じました。

3.【世界遺産】松下村塾で吉田松陰は何を教えたのか?

わずか30歳という短い人生を駆け抜けた吉田松陰。彼が松下村塾で教えをふるっていたのは、幽閉の期間を入れても3年足らずです。

その短い期間で、吉田松陰は松下村塾で何を教えたかったのでしょうか。

先ほど少しお話した通り、自らの手で日本のお役に立つことを断念した吉田松陰は、「教育」によって日本の今後を引っ張っていく立派な人の育成に身を捧げたのです。
吉田松陰はいわゆる尊王攘夷の考えに基づき、ヨーロッパに対して毅然とした対応を取らず、また技術力や経済力を進んで吸収しようとしない幕府に幾度となく進言を行いました。
結果的に、松下村塾の塾生はそんな彼の思想に影響を受けるわけですが、吉田松陰は自分の考えを押し付けるような教育をしていたわけではありません。

いくつか吉田松陰が大切にした思想をご紹介しましょう。

なぜ人は学問を学ぶのか

現代でも、「なんで勉強しなきゃいけないの?」と思っている人はたくさんいるでしょう。

そんな人に対して、吉田松陰はこのように答えるのです。

「人が学問を学ぶのは、人が人である理由を知るためです。人が他の動物とは違う存在であり、自分の価値を知ること。そのために、人は学ぶのです。」

これまで人間は素晴らしい技術を発明してきましたが、一方で戦争など悲惨な出来事も繰り返し行われてきました。いくら素晴らしい技術を発明しても、それが悪い方向に行けば戦争という悲惨な結果になる。すべてはそれを扱う人間の価値が問われていることで、立派な人間を生み出すためには、学問と教育が何よりも重要である。

そんなことを吉田松陰は伝え続けました。

孟子

吉田松陰が特に大切にしていた思想が孟子です。

孟子の思想は、「性善説」。人は生まれながらにして「善」の性質を持っており、これを伸ばすことが何よりも重要である。そして、人々を仁徳によって導く政治こそが、本当に強い国家を作る。

吉田松陰はこの孟子の思想を大切にしながらも、それを日本人の気質や性質に合わせる形でその教えを説きました。

吉田松陰が誰に対してもまっすぐで誠実であったことは、この孟子の思想によるところが大きいでしょう。だからこそ、そんな吉田松陰の人柄に魅了された多くの塾生が集まり、吉田松陰と師弟を超えた強いきずなでつながることができたのだと思います。

このほか、獄中教育として「日本外史」「論語」「武教全書」といった教えを施した吉田松陰。
まずは己を知る、という意味での歴史の重要性。儒教の教えと「仁」の教えを根本とする思想教育。さらに、国を強くする実践学問としての兵学。

この教育からも、吉田松陰が兵力や国力といった力だけでなく、「人間」の教育に力を入れていたことがお分かりいただけるかと思います。

4.【世界遺産】松下村塾から多くの偉人が輩出された理由とは?

わずか3年弱という短い期間で、しかも運営もギリギリだった松下村塾から後の明治維新を先導する数多くの偉人が生まれたことは、驚くというより他ありません。

具体的に松下村塾出身の偉人をご紹介しておきますと、

高杉晋作(奇兵隊総督、贈正四位)
久坂玄瑞(蛤御門の変にて戦死、贈正四位)
山田市之允(内務司法大臣、伯爵、日本大学創設者)
山県有朋(元帥、公爵)
伊藤博文(総理大臣、公爵)
品川弥二郎(内務農商務大臣、子爵)
入江杉蔵(蛤御門の変にて戦死、贈正四位)
吉田栄太郎(池田屋事件に傷死、贈従四位)

吉田松陰と同じく、自ら行動を起こして散ってしまった人も含まれていますが、このような行動の一つ一つが日本を動かし、明治維新以降に続く日本を作ってきたことは間違いありません。

それではなぜ、松下村塾からこのような歴史に残る人たちが多く輩出されたのでしょうか。
筆者はその理由を下記の2つにあると考えています。

・吉田松陰が体現した「誠」の精神
・一人一人が考えて実践する「実学」の精神

松下村塾は、上記2つが良く表れているユニークな私塾でもありました。その例をご紹介しましょう。

誰にでも開かれた私塾

松下村塾は基本的に学びたいという気持ちがあれば、拒むことなく誰でも受け入れました。そのため、そこで学ぶ人の年齢も10代~40代以上と、幅広かったのです。

さらに、松下村塾では学費も徴収しませんでした。ただでさえ貧しい杉家が、学費を徴収せずに松下村塾を何とか運営できたのは、杉家とその親戚の懸命なサポートがあったからです。

時には下宿生も受け入れた松下村塾では、吉田松陰と数名の塾生が同じ屋根の下で寝泊まりしながら学んでいたといいます。もちろん、下宿生の食費も取らず、松陰が自らの少ない食べ物を分け与えていたそうです。

吉田松陰と塾生の関係

吉田松陰は、塾生のことを「門弟」と呼ぶことを嫌い、「諸友」と呼んでいました。つまり、師弟の関係ではなく、同じ志を持つ友人という関係だったのです。

このことからも松陰の人柄が良く分かりますが、松下村塾は「子弟共学」の場であったと言えます。そこでは松陰が一方的に教えをふるうのではなく、それぞれの「諸友」と議論を交わしながら、自らも学びの場とする精神が根付いていたのです。

自由な学習スケジュール

寺子屋だと、子どもたちが机の前に座って黙々と座学に励むイメージがあるかと思いますが、松下村塾では決まった学習スケジュールというものはありませんでした。

幅広い年齢、境遇の塾生がいたので、もちろんそれぞれの塾生が松下村塾に来る頻度や時間もバラバラです。

さらに、松下村塾では一人一人の学びたい内容に合わせて学習を行っていたので、塾生によっても使っていた教科書や書物は違っていました。

それぞれの塾生が学びたい内容に沿って学問を教えた吉田松陰。のちに、松下村塾の出身者はこのようなことを言っています。
「松陰先生が布団で寝ている姿を見たことがない。」

「教育者」としてそのすべてを松下村塾での教育に捧げた吉田松陰。その知識、見聞だけでなく人柄を慕って多くの人が彼の元にやってきたことが良く分かります。
吉田松陰は、一人一人の塾生の長所と短所を良く理解していました。そのうえで、彼らに必要なことを教えたのです。
「一人の人間と向き合う」。まさに人間の育成に勤めた吉田松陰ならではでしょう。

実学重視のカリキュラム

吉田松陰はいつも、「学問を学んで知識を吸収するだけでは、学者にしかなれない。それだけではいけない。実際の社会でそれをどのように活かしていくのかが重要だ。」と話していたと言います。

例えば、歴史の講義でも、昔の出来事を単に学ぶのではなく、その時の当事者の境遇や立場を理解させたうえで、
「君たちなら、今どのようにして動くか」
と問うたと言います。

さらに松下村塾の小さな小屋に籠るのではなく、社会見学のように今起こっていることをこの目で確かめるよう、いろいろな場所に行って見聞を深めることを奨励しました。

 

いかがでしたでしょうか。
激動の時代を全力で駆け抜けた吉田松陰が、短い期間ながらも「人間の育成」に全力を注いだ場所である松下村塾。
「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録された松下村塾は、他の構成遺産とは明らかに異なる性質のものであることは良くお分かりいただけたかと思います。

明治維新を突き動かした日本。その精神が育まれた場所として、松下村塾の存在は唯一無二と言えると思います。

とても小さな小屋ですが、そこで明治維新の前夜に多くの志士が真剣に学び、議論し、日本の将来を考えていたのか。そんな光景をイメージしながら、ぜひ松下村塾を訪れてみてください!

 

(参考:「吉田松陰」田中 俊資 松陰神社社務所、「吉田松陰と松下村塾のすべて」奈良本辰也 中経出版)

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