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【天空の世界遺産】プレア・ヴィヒア寺院を巡るタイとカンボジアの国境問題徹底解説(歴史の背景)

カンボジアにある天空の世界遺産、プレア・ヴィヒア寺院。訪れたことがある方は、寺院に駐留しているカンボジア軍の隊員の姿や寺院までの勾配の急な坂道に驚かれたかもしれません。
これらの光景は、タイとカンボジアの国境に位置するプレア・ヴィヒア寺院を巡る両国の争いの歴史から来るものです。

今回は、世界遺産プレア・ヴィヒア寺院と国境を巡るタイとカンボジアの争いの歴史を解説します。

【世界遺産】カンボジア:プレア・ヴィヒア寺院の概要

世界遺産、プレア・ヴィヒア寺院はクメール人(カンボジア人)の王朝であったアンコール王朝時代に築かれたヒンドゥー教の寺院で、その創建は9世紀ごろと見られています。

アンコール王朝と言えば、同じくカンボジアの世界遺産であるアンコール・ワットをはじめとするアンコール遺跡を築いた王朝ですが、802年にジャヤヴァルマン2世(JayavarmanⅡ)がアンコール王朝を興したことを踏まえると、アンコール王朝の誕生からほどなくしてこのプレア・ヴィヒア寺院も創建されたことになります。

まだ謎に包まれた部分も多いプレア・ヴィヒア寺院ですが、クメール人にとっては現在のラオスにあるワット・プー(世界遺産)の準じて重要な寺院だったと考えられています。
ワット・プーはシヴァ信仰の寺院としてアンコール王朝以前のクメール人による王国、真臘国時代にクメール人によって創建された、クメール人最初期の寺院であり、プレア・ヴィヒア寺院はジャヤヴァルマン2世の息子とされているインドラユーダ(Indrayudha)が、ワット・プー寺院からリンガの破片を持ち帰って祀った場所が起源とされているためです。

このため、プレア・ヴィヒア寺院はアンコール王朝の歴代の王たちによって大切に管理、維持されてきた特別な存在の寺院なのです。

詳しくはこちらの記事をご参照ください。

国境を定めるきっかけとなった事件(19世紀)

シャム国(タイ)とフランスの領地争い

それではプレア・ヴィヒア寺院とタイ、カンボジアの国境を巡る歴史を紐解いていきましょう。19世紀、タイ王国は「シャム国」と呼ばれていたため、以後はタイを「シャム国」と表記して歴史をご説明します。

19世紀中ごろ、現在のラオスはシャム国の属州となっており、ベトナム・カンボジアはフランスの植民地支配下に置かれていました。
当時はフランス以外にもイギリスが東南アジアへの進出を広げており、両国でも東南アジアでの支配権をめぐる熾烈な争いのさなか。フランスはラオスへの支配を広げるためにある策を講じました。もともとラオスはフランス領であるインドシナが宗主権を持っていたのだから、フランス領に組み込むべき、とシャム国に迫ったのです。

にわかに緊張が走ったシャム国とフランスの関係は、ラオスで勃発した小競り合いの末にフランスの将校が殺害されたことで一気に緊張感が高まる事態となり、「パクナム事件」というタイの歴史に深い影を落とす事件を引き起こします。

パクナム事件

1893年7月13日、フランスは軍艦2艘をバンコクのChao Phraya(チャオ プラヤー)川に進めます。軍艦による侵入を行ったフランス側の言い分は、ラオスでの事件を受けてバンコクに住むフランス人の防衛のためというものだったが、明らかにシャム国に対する軍力での威圧行為でした。

シャム国政府はこれに毅然とした対応を行い、フランス側の侵入の許可を認めない通知を出したものの、フランス側はこれを無視。さらに軍艦を進めたため、シャム国は威嚇射撃を実施しました。
するとフランス軍からも砲撃が発射され、わずか30分間でシャム国側は30人の死者を出す事態に。一方のフランス側も4名の死者を出すに至りましたが、フランスはこれに怯むことなくバンコクのフランス大使館まで到達します。
当時明らかに軍力に差があった状況下で、ついにシャム国政府はフランスの要求を泣く泣く飲む道を選びました。

皆さんは、東南アジアのその他の国がヨーロッパによる植民地支配を受けたのに対し、タイはその歴史上一度もヨーロッパ諸国の植民地支配を受けたことが無い国であることはご存じでしょうか。
パクナム事件により当時のシャム国がフランスの要求を受け入れた背景には、多少の犠牲を払ってでも独立を守り抜くシャム国の覚悟があったのかもしれません。

ですが、パクナム事件をきっかけにその後シャム国はフランスによる領地拡大の要求を受け入れざるを得ず、この事件の賠償として300万フランの支払いも行うなど、タイ人にとっては歴史に影を落とす事件となりました。

そして、この流れの中でフランスとシャム国はお互いの領地を明確にするため、国境の策定作業が行うことになったのですが、これがその後現在まで続く問題を生むきっかけとなるのです。

プレア・ヴィヒア寺院と国境問題のきっかけとは?

国境策定委員会の発足(1904年)

1904年、シャム国はラオスの支配権をフランスに明け渡し、メコン川の片側とカンボジア北部をフランスに明け渡しました。これにより現在のタイとカンボジアの領地の範囲が影響を受けることになりますが、今でこそ国境は定められているものの、それまで明確に国の領域を定めたものはありませんでした。
このため、1904年にシャム国はフランスによる地図作成とそれに伴う領地範囲の設定方法に同意して、領域が明確に線引きがなされることになります。フランスに地図作成を委ねたのは、当時のシャム国には十分な地図作成技術が無かったため。フランスの地図作成技術無くしては国境の策定が困難だったのです。

1906年、シャム国とフランスのメンバーからなる国境線策定委員会が発足し、あくまでも両国による公正な体制にはなっていたものの、パクナム事件の影響から圧倒的にフランス側の意向に沿った方法で国境の策定が進められました。

国境の策定方法

当初、国境の線引きとして「Great Lake(カンボジア、トンレサップ湖)の左側、Stung Roluos(ロリュオス川)側の河口からスタートする」と取り決めがなされたものの、そもそも乾季と雨季があるカンボジアではGreat Lakeの大きさも変わり、Stung Ruluousの河口も位置が変わるなど、国境線の策定は簡単には進みません。
このため、実際に実地に訪れて国境線を策定するという提案がなされます。

さらに1904年の取り決めではDangrek(ダンレク)山の分水嶺をカンボジアの北限の国境線とすると定められました。

なお、この時の策定においてプレア・ヴィヒア寺院に関する話は一切出ていません。このため、調査委員会のメンバーが実際にプレア・ヴィヒア寺院を訪れていたかは定かではなく、この点も後のタイ・カンボジア間の争いの争点の1つとなります。

結局分水嶺をベースとしながらも、いくつかフランス側の意図が組み込まれることとなり、例えば3つの西側の地域はフランス側(カンボジア)に組み込まれることになりました。

分水嶺とは?

分水嶺とは何でしょうか?

どんな川もそれを上流に辿っていけばその支流や湖など、水源にたどり着きます。ですので、平野に網の目のように広がっている複数の川も、それがどの支流や水源に属するかで区分することが可能なわけです。
このようにしてどの支流に属するかを把握したうえで、下流の行き着く先まで行くと自然と水源ごとの境界エリアができますが、これを分水嶺と呼んでいます。

分水嶺はすべての川を辿っていけば明瞭に判別できるので、多くの国でも採用されている国境線の決定方法ではあるものの、長期にわたる水の浸食作用等でそのエリアも変わっていくため、永久不変というわけではありません。

そう考えると、国境の策定って実は難しいものというのがよく分かります。

フランスによる地図の完成(1907年)~プレア・ヴィヒア寺院と国境問題の始まり~

出典:ICJ資料(https://www.icj-cij.org/en/case/45)に追記

1907年、フランスで国境線を記した地図が完成しましたが、なんとその種類は11種類にも及んでいました。11種類の異なる地図が発行されるなんて、今では考えられない事です。

そして、この地図ではプレア・ヴィヒア寺院はフランス(カンボジア)領に組み込まれる形で国境線が引かれていましたが、実はこれが現在に至るまでのタイとカンボジアの争いの火種になったのです。

どういうことか?

先ほど、国境線は分水嶺をベースに策定することになったとご説明しましたが、この通りに国境線を引いたとすると、プレア・ヴィヒア寺院は実はタイの領地に含まれます。それが、なぜかフランス側から提示された地図では国境線がプレア・ヴィヒア寺院を避けるように引かれ、フランス(カンボジア)の領地にプレア・ヴィヒア寺院が含まれるようになっていたのです。
プレア・ヴィヒア寺院がフランス(カンボジア)側に組み込まれた当時の経緯やフランスの意図は定かではありません。

プレア・ヴィヒア寺院が歴史の表舞台になった19世紀前半

プレア・ヴィヒア寺院に対するシャム国(タイ)の認識(1911年)

1911年、シャム国においてプレア・ヴィヒア寺院の所有を巡り、政府内でいくつかの文書のやり取りがなされていたことが分かっています。
1907年以降、プレア・ヴィヒア寺院周辺には人も住まず寺院は放置されたいたものの、フランス人がカンボジア人を連れてプレア・ヴィヒア寺院を訪れ、やがてその周辺を整備し始めます。この動きに当時のシャム国が気づいたわけです。

この時、実はシャム国政府内では「プレア・ヴィヒア寺院は我々の領地ではないか」との声が上がっていたものの、フランス側から提供された地図に基づきフランス領に属するとの認識がありました。
プレア・ヴィヒア寺院の所有を巡る声が上がった背景として、フランス側がプレア・ヴィヒア寺院一帯を軍の常駐基地にするのではないか、という懸念がシャム国内に少なからずあったためです。プレア・ヴィヒア寺院からは東西南の3方向に渡って遠方までの見晴らしがよいため、軍事的にも有利な場所だと考えられていました。

当時は今のように世界遺産にも登録されておらず、プレア・ヴィヒア寺院の存在は認知していたものの、シャム国・フランス共に遺跡の調査も十分にできておらず、その歴史的価値や背景はまだ現在のように明らかになっていません。プレア・ヴィヒア寺院への関心は別のところにあったのです。

結果的にフランス側はプレア・ヴィヒア寺院に軍の配置などは行わず、この時はこれ以上の問題には発展しませんでした。

シャム国、Damrong(ダムロン)王子のプレア・ヴィヒア寺院訪問(1930年)

1930年、シャム国のDamrong(ダムロン)王子がプレア・ヴィヒア寺院を訪れました。この訪問の目的は政治的なものではなく、ダムロン王子の純粋な歴史考古学上の探求心から来るものでした。
というのも、Damrong王子はこの時すでに政権から引退していたのですが、もともと政府の重役を歴任したDamrong王子はシャム国国内の様々な遺跡を訪れており、遺跡の保全などに強い興味を持っていたのです。

Damrong王子がプレア・ヴィヒア寺院を訪れた時、彼は寺院周辺にフランスの国旗が掲げられており、フランス軍の制服を着た高官が数名滞在していたことに驚きます。

フランスの高官たちは訪れたDamrong王子を厚遇し、プレア・ヴィヒア寺院を丁寧に案内して丁重に扱いました。ですが、Damrong王子はこの待遇を受けた後、不満を述べたと言われています。
それは、フランス軍があまりに我が物顔でプレア・ヴィヒア寺院を案内する、その高慢な態度を非難したものと言われていますが、これはつまりDamrong王子の中に「プレア・ヴィヒア寺院はシャム国のもの」という認識があったことになります。

あくまで国同士のやり取りのため、Damrong王子は後にこの時のフランス側の対応に対して丁寧なお礼の返事をしますが、この行為も後のタイ・カンボジア間の論争での争点の1つとなることに。

結果的にこれはフランス側の作戦であり、フランスにしてみればプレア・ヴィヒア寺院を実効支配していることの良い見せつけの機会となったのです。この辺り、フランスのしたたかな外交が一枚上手と言えるでしょう。

第2次世界大戦、そしてプレア・ヴィヒア寺院を巡る争いの勃発

第2次世界大戦で状況が一変

1940年代に入り第2次世界大戦が始まると、タイとフランスの状況も一変します。

ドイツが勢いを増し、フランスに侵攻するとフランスの東南アジアでの支配勢力が弱まります。このスキを突いたタイ軍はカンボジアに侵攻。同じく東南アジアに攻め込んでいた日本軍の仲裁の元、それまでフランスに取られていた領地の奪還に成功し、プレア・ヴィヒア寺院もタイ軍の所有地となりました。

ですが、第2次世界大戦が日本やドイツの降伏により終焉を迎えると、ワシントンで1946年にフランス-タイ間で締結された合意により再びタイはインドシナ領域をフランスに返還することになりましたが、プレア・ヴィヒア寺院の取扱いは明確になりませんでした。

カンボジアの独立、そして国際司法裁判へ

第2次世界大戦後、フランスはプレア・ヴィヒア寺院がフランス領に属することを示す歴史的な証拠を集めてタイに通知、プレア・ヴィヒア寺院からの撤退を要求しますが、タイはこれを無視し、引き続きプレア・ヴィヒア寺院を管理下に置く実効支配を続けました。

そして1953年、カンボジアがフランスから独立を果たした後はカンボジアとタイの間でプレア・ヴィヒア寺院を巡る主張がさらにヒートアップ。1954年にはカンボジアがタイに対し、プレア・ヴィヒア寺院への軍の駐屯を通知したものの、すでにタイ軍により寺院が占領されていたため、これは実現しませんでした。

これに業を煮やしたカンボジアはついに1959年、国際司法裁判所にプレア・ヴィヒア寺院の所有を巡る提訴を行いました。

 

いかがでしたでしょうか。プレア・ヴィヒア寺院を巡るタイとカンボジアの争いの歴史的背景をお分かり頂けたかと思います。次回はいよいよ国際司法裁判所での争点とその判決、世界遺産登録によるさらなる新たな問題の勃発をご紹介します!
今回の記事の内容を知っているとさらに楽しめますので、ぜひ今回の記事の内容を覚えておいてくださいね!

 

(参考:「Temple in the Clouds」John Burgess, River books)

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