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【世界遺産】高野山・奥之院を100倍味わう徹底ガイド(朝のお勤め、七不思議から見どころまで)

「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成遺産として世界遺産に登録されている高野山。高野山で二大聖地のひとつと言われるのが奥之院です。
最奥の弘法大師・空海の御廟へと続く約2キロの道沿いには20万を超えるとも言われる慰霊碑や供養塔が建てられ、その神聖な雰囲気はここでしか味わえません。
今回は奥之院をより深く味わうため、朝のお勤め、見どころや七不思議など徹底解説します!

【世界遺産】高野山・奥之院の概要

高野山てどんなところ?

世界遺産に登録されている高野山は、言わずと知れた弘法大師・空海によって開かれた真言密教の道場として有名です。

弘法大師・空海がなぜこの場所を真言密教の道場としたのか、そこには伝説とも言うべきエピソードが残されていますが、ここではその詳細は割愛します。

私たちが「高野山」と呼んでいる場所は、周りを1,000メートル級の山々に囲まれた中にぽっかりと出来た平地のくぼ地のようなところです。
その姿が蓮の花を広げたような姿であることや、弘法大師・空海が生まれる前の古い時代からこの場所は地元の人からも神聖で畏れ多い場所として崇められていたことからも、弘法大師・空海がこの地に特別な何かを感じたことは想像できます。

真言密教の道場、というと仏教の僧侶たちが大勢いる壮大なお寺というイメージを持たれるかもしれませんが、確かに100を超えるお寺がある一方で、今では「高野町」という町になっていて、そこでは僧侶ではなく普通に生活を送っている人も大勢います。

町ですので、小学校や中学校はもちろん、消防署や警察署まであります。

奥之院と入定信仰

高野山・大門に掲げられた聯(れん)

今回ご紹介する奥之院はその名の通り、高野山の奥にある弘法大師・空海の御廟を中心としたエリアを言います。

日本で広まった数ある仏教宗派の中でも、この真言密教にしかない信仰があります。それが弘法大師・空海が今も御廟にて、私たちの救済のために瞑想され、祈りを捧げておられるという入定信仰です。

「入定」というのは『禅「定」に「入」る』という意味であり、「禅定」というのは迷いが無くなり一定の境地に達した状態を言います。

聖域でもある高野山の入口に堂々と立つ大門には、以下の言葉が記された札(聯:れん)が掲げられています。

不闕日日之影向 検知處々之遺跡 (日々の影向を闕(かか)さずして、所々の遺跡を検知す)

この文を易しい日本語に訳してみると、
「弘法大師様は毎日欠かさずお姿を現して、自らが修行して回った地や、各地で行った社会事業の様子を見て回っておられる。」
ということになります。

これはつまり、今でも弘法大師・空海は生きている人々を見守り、祈りを捧げられているという入定信仰を表したものと言えます。

入定信仰はなぜ生まれた?

この弘法大師・空海の入定信仰は古くから日本に広まったと考えられていますが、このような信仰が定着した理由はいくつか考えられます。

1つ目が、弘法大師・空海自身が残した遺言によることです。

それによると、空海は弟子たちと別れて入定される際、「これより先は弥勒菩薩のもとで、衆生救済のために祈り続けよう」という言葉を遺したと言われています。

この空海の言葉がそのまま入定信仰につながるのです。

2つ目は、実際に生きておられる弘法大師・空海を目撃した、というエピソードです。

これは、都から奥の院に参られた使い(勅使)が、その時に生きている空海の姿を目にした、というもの。
すでにこの頃に入定信仰が少なからず広がっていたということでしょうか。

最後は、高野聖(こうやひじり)の存在です。

弘法大師・空海の入定後も、真言密教の教えを広げるために全国各地に真言宗の僧たちが教えを説いて回りました。彼らを「高野聖」と呼んでいるのですが、高野聖が日本全国で教えを説いて回る中で自然と弘法大師・空海にまつわる伝説や入定信仰が広がり、定着していったと考えられます。

なぜ弘法大師・空海にだけ入定信仰があるのか?

それでは、なぜ数ある仏教宗派のなかでも真言密教にだけ入定信仰があるのでしょうか。

先ほどご紹介した、弘法大師・空海が遺した言葉によるところが大きいと思いますが、筆者はそれ以外にも真言密教ならではの理由があると思っています。

それは、真言密教が現世利益を説く教えであり、「即身仏」という考えがあること。

皆さんがよくご存じの浄土宗や浄土真宗というのは、シンプルに言えば「南無阿弥陀仏」と仏様に一心に救いを求めることで、極楽浄土に行くことができるという教えですが、これはあくまでも「死後」の話であり、今生きている現世の話ではありません。

これは、仏様に救いを求めるということは、裏を返せば人間は自力で悟りの境地に達することはできない、ということでもあります。

一方の真言宗では、「即身仏」という考えがあるように、人間は生きている現世においても厳しい修行を積むことで悟りを開くことが可能である、つまり生きたまま仏様になることができる、という考えを持っています。

弘法大師・空海が言い遺した「弥勒菩薩のもとで祈り続ける」というのはまさに生きたまま仏様(「菩薩」のもとで、なので厳密には悟りを開いたわけではないですが、仏様になる事を約束された存在)と共に祈りを捧げる、という意味で「即身仏」に近い考えと言えるのではないでしょうか。

弥勒菩薩は、遠い将来において現世に降り立ち、人々を救いに導く衆生救済の存在。

弘法大師・空海が「弥勒菩薩のもとで」と言ったのは、つまり仏陀の教えが無くなる末法の世の後、56億7千万年後にこの世に下生して人々を救うことの前提であり、その時が来るまで人間を超えた仏様に近い存在として奥之院の御廟にて瞑想を続けられている、ということです。

高野山・奥之院でぜひ見学したい朝のお勤め:生身供 (しょうじんぐ)

御廟橋

先ほどご紹介した弘法大師・空海の入定信仰に関連して毎日奥之院で行われているのが、「生身供 (しょうじんぐ)」と呼ばれている行いです。

これは、弘法大師・空海が今も御廟にて人々のために祈りを捧げておられるため、毎日のお食事をお運びすること。
毎日朝の6時と10時30分の2回行われています。

生身供は、御廟へと続く御廟橋の手前に建てられた御供所からスタートします。この御供所が、まさに弘法大師・空海のお世話を日々行うために建てられた建物です。

まず御供所に併設されている嘗試地蔵(あじみじぞう)に、お供えする食事の毒見の祈願をした後、お食事を籠の中に入れて前後2人で籠を担ぎ、先導役として1名がその先を歩きます。

ちなみに、毎日お供えされるお料理は基本的には一汁三菜の精進料理になります。

御廟橋前で一例をした後、橋を渡ってその先にある御廟の中に入り、お食事をお供えするとともに読経が行われます。読経が終わると再び御供所に戻り、これで一連の生身供は終了です。

筆者が6時に見学した際は、一連の儀式が終わり御供所に僧侶たちが戻られたのが7時15分ほどだったかと思います。

御廟から先は写真撮影等禁止ですが、Youtubeなどで御廟橋の手前までの様子を撮影した動画がアップされていますので、そちらも探していてください。

朝早いですが、人も少なく清々しい神聖な雰囲気を味わうことができる6時のお勤めを見学されることをおススメします!

高野山・奥之院の見どころ

 

奥之院を歩く前に知っておきたい基本情報

高野山・奥之院の見どころを詳しくご紹介する前に、奥の院を訪れる時に知っておきたい基本情報を先にご紹介します。

①供養塔を詳しく知りたい場合はガイド冊子を購入しよう

後ほどご紹介しますが、奥之院は「日本の総菩提所」と呼ばれているほど、宗派や敵味方、身分や国を超えてあらゆる人たちの供養塔が建てられています。
例えば織田信長や豊臣秀吉、上杉謙信や石田三成などそうそうたる戦国武将の供養塔から、現在のパナソニックと創設者である松下幸之助といった有名企業、第二次世界大戦の戦死者や阪神淡路大震災の被災者など。

上記のような有名な供養塔には案内板が設置されているのでまだ分かりやすいですが、参道から少し奥に入ったところにひっそりと案内板が立っていたりと、注意深く歩いていても見落としてしまうことも多いです。

供養塔をじっくりとお参りしたい方は、事前に一の橋の手前にある観光案内所で奥之院のパンフレットを購入しましょう。
見開き数ページの折りたたまれたガイド冊子で、1部100円で購入できます。

ガイド冊子の中にはこの後紹介する石塔の由来や、供養塔の地図案内が記載されていますので、これを見ながらお参りすれば通り過ぎてしまうこともないでしょう。

②奥之院の参道は2つある

奥之院へと至る参道は、一の橋から入る表参道と中の橋駐車場から入る裏参道の2つがあります。いずれの参道から入っても御廟橋で折り返すことができるので、お参りの際は一の橋から、お帰りは裏参道を歩いてみるのが良いのではないでしょうか。

一の橋と中の橋駐車場は1キロ弱と、それなりに距離はあるのですが、いずれも高野山内を走っているバスの「奥之院行き」の停車場があるので、バスでのアクセスが可能です。

中の橋駐車場には大きな駐車場の他、お土産屋やお食事処もいくつかあるので時間がある方はお店も一緒に回ってみると良いかもしれません。

③石塔が意味するものは?

奥之院には大きさも形もそれぞれに違う石塔がたくさん立ち並んでおり、中にはユニークな石碑もちらほら見ることができます。

今回はその中でも、高野山で一般的に見られる五輪塔をご紹介しましょう。

上の写真の石塔を五輪塔と呼んでいるのですが、その由来としてはこの石塔の上の部分が五つの形から成り立っていることによるものです。

仏教の教えでは、宇宙は空・風・火・水・地の五つの要素から構成されていると言われており、五輪塔の五つの形はこの要素を表したものです。
さらに石にはそれぞれの要素を表す梵字が刻まれているのですが、このように宇宙を構成するあらゆるものを示すことから、大日如来を象徴したものと言われています。

別の記事でもご紹介していますが、昔の人々が高野山へとお参りするために歩いた表参道である町石道には、今も五輪塔の形をした「町石」が約110メートルごとに建てられています。

この町石道は慈尊院から高野山の根本大塔に至る道ですが、そこから奥之院へと続く道にも町石が立てられており、根本大塔を起点(一町石)として2つの道に町石が立てられています。

奥之院へと続く道には、根本大塔から全部で36の町石が立てられており、御廟橋前が34町石になります。

この町石は、弘法大師・空海の御廟を1つにカウントして根本大塔から計37つ、逆側の慈尊院側には180の町石が立てられているのですが、慈尊院から根本大塔までが胎蔵界、根本大塔から奥之院までが金剛界を表していると言われています。

37という数字は後ほどもう1回出てきますので、覚えておいてください。

供養塔だけではなく、この町石にもぜひ注目してみてください。

有名な供養塔一覧

それでは奥之院に建てられている数ある供養塔の中で有名な供養塔をいくつかご紹介します。

戦国武将、姫の供養塔

こちらは織田信長の墓所です。覇王とまで呼ばれた戦国一のカリスマ武将ですが、その墓所はひっそりとしていますね。

ちなみに、織田信長と高野山には因縁の関係がありました。

それは、荒木村重という武将が織田信長を裏切って高野山に逃れてきたのですが、この武将の引き渡しを迫った織田軍に対して高野山がこれを拒否したことに始まります。

高野山としては、引き渡すと必ず殺されることが分かっていた武将をおいおい差し出すわけにはいかず、これに織田信長が激怒。織田信長は全国の高野聖を捕らえて大掛かりな処刑を実行しました。

高野山側も僧侶たちが武装し、織田軍の包囲網に対して抵抗を見せていましたが、そんな中で1582年、本能寺の変で織田信長が討たれるとともに、この戦いも終わりを迎えたのです。

こちらは豊臣家の墓所であり、豊臣秀吉の墓所も含まれています。一族の墓所ということで、少し高台の広いスペースに設けられています。

この豊臣秀吉も、信長亡き後は一度は高野山への討ち入りを開始します。

信長の延暦寺焼き討ちは有名ですが、天下統一を目指す武将にとって、仏教宗派というのは団結力、その信徒数ともに油断ならない存在だったのでしょう。

ここに高野山はピンチに陥るわけですが、それを救ったのが応其(おうご)上人という高野山の僧侶です。彼は、上手く立ち回って秀吉と交渉し、秀吉が高野山に刃を向けるのを止めさせたのですから、凄腕の交渉人だったと言えます。

さらに秀吉は応其上人に全幅の信頼を寄せ、高野山に母君である大政所の菩提所(青巌寺:せいがんじ)を建てたのですが、これが今の金剛峯寺です。

こちらの供養塔、正面に深い切り込みがあるのが特徴なのですが、どの武将のものかご存じでしょうか。

明智光秀なんですね。正面にまるで傷のように深く入り込んだヒビが何とも言えず印象的です。先ほど織田信長の墓所をご紹介しましたが、信長と、信長を討ったとされる明智光秀が同じ場所で弔われているのです。

こちらの立派な供養塔、どの武将のものかと思いきや、実は武将ではなく姫、江姫の供養塔なんです。

大河ドラマにもなり一躍有名になった、戦国を駆け抜けた江姫ですが、奥之院で最も大きな供養塔でもあります。

こちらも参道から外れてややひっそりと建てられた上杉謙信の御廟です。他の供養塔とはまた雰囲気が違い、どこか孤高の崇高さが感じられる御廟ですよね。

他宗派の供養塔

奥之院には浄土真宗の開祖である親鸞上人の供養塔もあるんです。そして、親鸞上人の師匠でもある法然上人の供養塔もあり、まさに宗派を超えた菩提所と言えますね。

有名企業の供養塔

こちらは現・Panasonic社の供養塔なのですが、その隣には創始者である松下幸之助の供養塔も並び立っています。

この正面の独特な石碑はどこかで見覚えがあるのではないでしょうか。

そうです、ヤクルト社ですね。

災害・紛争に関する供養塔

こちらの石碑は第二次世界大戦で命を落とした、沖縄戦の戦死者を供養するために建てられたものです。

このほかにも第二次世界大戦での戦死者を弔う供養塔は、ここ奥之院で数多く目にします。それは、同時にいかに戦争が残虐で虚しいものなのかを語り掛けているようでもあります。

こちらは阪神淡路大震災の被災者を供養するために建てられた慰霊碑です。

奥之院ではこのほか、東日本大震災や関東大震災の慰霊碑が建てられており、災害で亡くなられた多くの方へ祈りが捧げられています。

動物の供養塔

こちらは動物供養塔。

どのような動物を供養しているのかというと、まだ医療が今ほど発達していない時代に、治験や薬の開発などで実験台にされた動物たちです。

人間としてこの供養塔を見るととても哀しく、いたたまれない気持ちになります。今ではもう動物実験というのは禁止されているようですが、人の命を救うためとはいえ、それにより動物の命を犠牲にするのは人間のエゴでしかありません。

この場所に立つと、私たちは「人間」ではなく他の動物や植物と同じ「生き物」であることを心に留めておく、戒めの気持ちを感じずにはいられません。

 

さて、ご覧いただいたように奥之院には身分や敵味方を問わず、あらゆる人や動物たちの供養塔が建てられています。

今風に言えば、奥之院の供養塔はダイバーシティそのものと言えるわけですが、ここがそのような場所になった理由として、筆者はやはり真言宗の教えがあると思っています。

先ほどご紹介したように、真言宗のご本尊は大日如来ですが、これは法身であり、この宇宙の真理であり、存在するありとあらゆるものとも言えるのです。
つまり、今目の前に存在しているすべてのものは大日如来の教えの現れでしかない。

筆者は煩悩や欲にまみれて目が曇ってしまっているのかもしれませんが、真言密教の教えの前では人間であれ動物であれ、草木であれ、そこに違いは無く、そこには皆を平等に捉える心というのが存在しているのでしょう。

このような心を持つ真言密教だからこそ、奥之院にはかつての敵や味方、身分など関係なく分け隔てなく供養塔が建てられているのだと思います。

三つの橋のヒミツ

奥之院は、弘法大師・空海の御廟に至るまで一の橋、中の橋、御廟橋の三つの橋を通ることになりますが、この橋にもそれぞれ意味があります。

一の橋

まず表参道の入口に当たる一の橋ですが、こちら正式には「大渡橋」もしくは「大橋」と言います。参詣された人をここまで大師が送り迎えをされる、という伝承があるため、お参りする方はここで礼拝をしてから渡ります。

まさに浄域への入口であり、その先に続く参道と樹齢の古い老杉がその神聖な雰囲気を醸し出しています。

中の橋

二つ目の橋が中の橋。正式には手水橋(ちょうずばし)と言います。

平安時代、ここはみそぎの場であり、ここに流れる川は「金の河」と呼ばれていたそうです。「金」というのは「死」を表す隠語であることから、この橋がまさに三途の川であの世とこの世をつないでいるというわけです。

この中の橋から先は「あの世」。さらに異世界へと続いていきます。

御廟橋

そして、弘法大師・空海の御廟の前に架けられたのが御廟橋です。別名、無明の橋とも呼ばれ、この橋を渡ると仏の浄土に踏み入れることができ、罪や煩悩が洗い流されるためこの名前が付いたと言われています。

また、御廟橋は36枚の板から成り立っていますが、これは橋そのものを1つとカウントして合計37、つまり金剛界の三十七尊を表したものです。

先ほど町石についてご紹介した時に、根本大塔から奥之院までは合計三十七の町石が立てられているとお話ししましたが、これもまさに金剛界を意味しているのです。

この36枚の板石の裏側には梵字が刻まれており、清らかな玉川の水面の反射を利用して見ることができるようなので、ぜひ神聖な気持ちで確かめてみてください。

御廟橋より奥の見どころ

御廟橋を渡ってから正面に見えるのが燈籠堂、さらにその奥に弘法大師の御廟が建てられています。

御廟から燈籠堂に向かう参道の両側にも供養塔が建てられていますが、有名どころではあの春日局の供養塔や、日本最古の歌碑などが立っています。

燈籠堂に向かって左手には、歴代の天皇・皇族方の歯爪を祀る供養塔が建てられており、仙陵と呼ばれています。

燈籠堂では弘法大師・空海のために1,000年以上も消えることなく灯されている「消えずの火」が2つあります。1つは「白河灯」(しらかわとう)、もう1つを「祈親灯」(きしんとう)と呼んでいます。

「白河灯」はその名の通り、白河上皇によって献上された火であり、「祈親灯」も祈親上人が献じた火で、両人とも弘法大師の生まれ変わりと言われ、大師が今も御廟にて絶えず瞑想されていることの象徴でもあります。

「祈親灯」は一説によると、お照(てる)という貧しい女性が切った髪を売って火を献じたものとも言われており、「貧女の一燈」(ひんにょのいっとう)とも呼ばれています。

二つの「消えずの火」が灯された燈籠堂の内部の天井には燈籠がぎっしりと吊るされ、何とも言えない幽玄な雰囲気を醸し出しています。

ですが、せっかくここまで来たのですから、ぜひ燈籠堂の裏側も忘れずに回ってください。というのも、燈籠堂の裏手、つまり奥から直接御廟に向かってお参りるす場が設けられているためです。

高野山・奥之院の七不思議

最後に、ここ高野山・奥之院に伝わる不思議な伝説をご紹介します。

①高野にハブなし

その昔、高野山には参詣人を襲う大蛇がおり、弘法大師・空海はこれを大変悲しく思われたそうで、竹のホウキに大蛇を封じ込めたそうです。そして、再び竹のホウキを使う時代が来た時に、この封印を解くとお約束されたのだとか。

②杖ケ藪(つえがやぶ)

その昔、弘法大師・空海が高野山を歩く際に使っていた竹の杖が不要になり、道端に差したところ、逆さまに差したはずの竹から根や茎が伸び、葉が出てやがて竹藪になったそうです。

③覚鑁坂(かくばんざか)

覚鑁坂

奥之院の参道にある坂道に設けられた石段は覚鑁坂(かくばんざか)と呼ばれており、途中で転んでしまうと3年も寿命が持たないと言われている何とも恐ろしい言い伝えです。
ですが、その「死に(42)」を超えるためにこの石段は全部で43段あるそう。

④玉川の魚

玉川というのは御廟橋が架けられている川のこと。

その昔、玉川のほとりで小魚を捕って串に刺して焼いて食べようとしていた山男を大師様がお見つけになり、小魚を買い取って清流に流してやったそうです。

この山男も殺生の罪を知り、魚を捕ることをやめたそうです。それ以来、玉川の魚には斑点が見られるのですが、この斑点は串の跡と言われており、今でも山の人はこの魚を食べないそうです。

⑤汗かき地蔵

汗かき地蔵

中の橋を渡ってすぐの地蔵堂に、汗かき地蔵が祀られています。

世の中の人々に代わって、その苦しみをお地蔵様が一心に引き受けてくださっているため、たえず汗を流されているのだとか。

⑥姿見の井戸(すがたみのいど)

姿見の井戸

汗かき地蔵のそばには「姿見の井戸」(すがたみのいど)と呼ばれる小さな井戸があります。

この井戸をのぞき込んで自分の顔が映らない場合、3年以内に寿命が尽きると言われているのだとか。覗き込むのが少し怖いですね。。

ちなみに井戸はそれほど深くなく、ちゃんと底に溜まった水に顔が映るのでご安心ください。

⑦弥勒石(みろくいし)

御廟橋を渡った先には「弥勒石」(みろくいし)と呼ばれる石が、向かって左側の祠に納められています。

この石に触れると弥勒菩薩の御利益があると言われ、また罪の軽い者は簡単に石が持ち上がり、罪の思い者が石を持つと重くて持ち上がらないと言われています。

 

いかがでしたでしょうか。

世界遺産、高野山を旅された時はぜひ奥之院のじっくりとお参りし、弘法大師・空海をお近くに感じながらその雰囲気を味わってみてください!

 

(参考:「高野山」総本山 金剛峯寺, ㈱高野山出版社、「高野山ガイドブック」ウイング出版部、株式会社ウイング)

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