世界遺産の楽しみ方

【世界遺産】長崎・原城跡と島原・天草一揆(島原の乱)を知るためのマメ知識5選

長崎県と熊本県にまたがる世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の1つ、原城跡。日本史でも必ず掲載される島原・天草一揆(島原の乱)において、幕府軍とキリシタンの天草四郎時貞を総大将とする一揆軍が最後に壮絶な戦いを繰り広げた舞台です。
今回は、この出来事がなぜ起こったのか、潜伏キリシタンによる信仰との関連も含めてご紹介します!

【世界遺産】「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」と原城跡

世界遺産の概要

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は2018年、日本で18番目の世界文化遺産として登録されました。

皆さんは「潜伏キリシタン」という言葉がどのような意味かご存じでしょうか。平たく言ってしまえば、「社会の中でこっそりとキリシタン信仰を続けていたキリスト信者」と言えるでしょう。

なぜ「こっそり」と信仰しなければならなかったのか。それは、当時の日本政権(世界遺産に登録されている構成資産は17世紀~19世紀中頃のものであるため、主には江戸幕府)によってキリスト教は「異教」として厳しい取り締まりの対象であり、布教が認められていなかったからです。
このような状況下で、キリシタンであることがばれた人たちは厳しい弾圧のもと、容赦ない拷問などによって改宗(「転ぶ」)を迫られました。

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、このように、厳しく他に類を見ない状況下でも自身の信仰を捨てずに持ち続けた潜伏キリシタンたちが残した独特な遺産であり、それが世界遺産として認められたものになります。

「厳しく他に類を見ない状況」というのは、禁教令による厳しい弾圧ということだけではなく、そのような状況において日本国内から宣教師たちがほぼ一掃されて不在になってしまい、教えを授ける存在がいない中で信仰を続けたことで、次第にその信仰形態がキリスト教を軸としながらも独特な形態に変化していったことも示しています。

今の日本では当たり前に守られている「宗教と信仰の自由」ですが、これはわずか200年前にはまだ当たり前ではなかったのです。今、「多様性」が声高に叫ばれている中で、信仰の自由もまさにそのテーマの1つと言えます。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、悲しい歴史に裏付けられた世界遺産であり、今の私たちが知るべき世界遺産でもあるのです。

原城跡が世界遺産に登録された理由

先ほど、この世界遺産の構成遺産は17世紀から19世紀中ごろまでに及ぶ、とお話ししましたが、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の特徴として、この二百数十年に及ぶ時代を、潜伏キリシタンの「始まり」から最終的に信仰を宣言する「信徒発見」まで4つの時代区分に分けていることにあります。

具体的な時代区分は以下の通りです。

①「始まり」(17世紀初頭~中頃):キリシタンが「潜伏」することのきっかけを含む「潜伏キリシタン」のはじまりの時期
②「形成」(17世紀中頃~19世紀初頭):キリシタンが仏教や神道信仰を装いながら密かにキリスト教信仰を続けることを模索した時期
③「維持・拡大」(18世紀末~19世紀中頃):潜伏キリシタンたちが、信仰を続けていくために主に長崎の外海の島々へ移住した時期
④「変容、終わり」(19世紀後半):潜伏キリシタンたちが潜伏を止め、自らキリシタンであることを宣言(信徒発見)した時期

今回ご紹介する「原城跡」は、上記の時代区分の内①に該当する唯一の構成遺産です。

詳細は順を追ってお話ししますが、原城跡が世界遺産として登録された理由は、この構成遺産が潜伏キリシタンの始まりを示すものであり、そのきっかけとして島原・天草一揆があったということを頭の片隅に留めておいてください。

ちなみに④「変容、終わり」の代表的な出来事として、潜伏キリシタンたちが潜伏を止めて大浦天主堂で自分たちがキリシタンであることを告白した「信徒発見」(1865年)があります。
「信徒発見」は長い苦難の時も変わらず信仰を持ち続けたキリシタンたちの存在が世界に示された出来事なので、キリスト教や世界史上も「美談」として語られることが少なくありません。

ですが、1865年と言えばまさに明治維新の前夜とも言える時で、引き続きキリシタン禁制の状況にあったこと、そして明治維新後の明治政府も継続してキリシタン禁制を行っており、決してこれ以降キリシタンたちの信仰が認められたわけではありません。

むしろ明治政府によっても厳しい弾圧が行われ、これ以降もキリシタンたちは苦難の歴史が待ち受けていたことは知っておいてください。

【世界遺産】原城を舞台とする島原・天草一揆はなぜ起こったのか?

経済説と宗教説

「一揆」は、日本史においてたびたび勃発した、抑圧される側(主に百姓たち)が支配する側(大名や藩主)に対して起こした「組織立った」反乱を意味します。

島原・天草一揆も同じように、島原、天草地方の村社会に住む百姓たちが当時支配していた島原藩主、松倉勝家(まつくらかついえ)と唐津藩主、寺沢堅高(てらざわかたたか)に対して一揆を起こし、これが幕府をも巻き込む数か月にわたる大事件へと発展していきました。

ですが、この一揆に関しては百姓たちが一揆を起こすに至った一番の理由がどこにあるのか、その原因に関して主に2つの説が唱えられています。

1つ目は、これまでの一揆と同じように藩主の苛政(かせい:年貢等を厳しく取り立てるなどの圧政を行い、民や百姓たちが苦しめられること)による百姓たちの困窮とする、経済説です。

事実として島原・天草一揆が起こった1637年頃は悪天候による米や作物の不作が続いていたことが分かっており、百姓たちは年貢を納めることが厳しくなっていたにも関わらず、藩主である松倉氏は徳政令などの減免を行うどころかより一層の取り立て強化を行い、時には水牢などの拷問を行ったとされています。

このような苛政に堪え切れなくなった百姓たちが立ち上がったというわけです。

2つ目は、この一揆がキリシタンによる信仰の自由を求めたものである、という説です。

この島原・天草一揆では一揆側の総大将として若干16歳のキリシタン、天草四郎時貞を立てたことはあまりにも有名ですよね。

一方で、実は一揆を起こした百姓たちの中には「立ち帰りキリシタン」と呼ばれる者が多く含まれていました。「立ち帰りキリシタン」とは、かつてはキリシタンで、キリシタン禁制による厳しい弾圧に堪え切れずに一度は改宗をしたものの、再びキリシタンに戻った人達のことです。

もちろん、熱心なキリシタンたちも多くいたことは間違いないと思いますが、立ち帰りキリシタンたちの存在は、この一揆が「純粋な信仰の自由を求めた宗教戦争」であるとも言えないことを表しています。

筆者としては島原・天草一揆の性質としては信仰の自由を求めた宗教一揆、という側面がやや強い印象を持っていますが(その理由もいくつか後ほどご紹介します。)、経済か宗教か、と完全に二元論で語れるほどにこの一揆は単純なものではなかった、ということが一番大事なことだと思っています。

島原・天草一揆と日本におけるキリシタンの歴史的背景

先ほどご紹介した通り、島原・天草一揆が藩主の苛政に堪えかねた百姓たちの反乱であれば、この一揆は起こるべくして起こったものと言えますし、そこに歴史的な背景というものは特には見当たりません。

ですが、宗教戦争とまでは行かないものの、総大将が若干16歳の少年でしかもキリシタンである、という点だけ見ても少しこの一揆が普通の一揆ではないニオイを感じませんか。

ここではキリシタンを切り口にして、島原・天草一揆へと繋がっていく歴史的な背景を見ていきたいと思います。

戦国時代(1549年~1603年)

1549年にキリスト教を初めて日本に伝えたのはイエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルです。日本史の教科書で誰でも一度はその写真を見たことがあるのではないでしょうか。

それ以来、織田信長がキリスト教を容認したため、日本にもキリシタン大名が多く誕生しました。有名なところでは高山右近や小西行長などです。

ところが豊臣秀吉が天下を手中に収めかけていた1587年、秀吉は「バテレン(伴天連)追放令」を出し、宣教師たちを日本から追放することでキリスト教を排除する政策を取ります。

秀吉がこのような政策を取った理由はいくつか考えられますが、

・キリスト教を通じたスペイン・ポルトガルによる実効支配を恐れた
・加賀の一向一揆など、信仰による一揆の恐ろしさを知っていたため、キリシタンによる一揆を恐れた
・キリスト信仰を通じて自分の支配力が落ちることを恐れた
・キリシタンによる寺社取り壊しが相次いだ

などが挙げられます。

ですが、この政策は中途半端なもので、当時イエズス会などを通じて行われていた南蛮貿易によって経済的利益を享受していた秀吉は、この南蛮貿易は引き続き継続することとしました。
このため、日本の京都や都市部などから宣教師たちはいなくなったものの、彼らは国を出ずにキリシタン大名の元に身を寄せ、大名たちも彼らを厚く保護したのです。

先ほどキリシタン大名として名前を挙げた小西行長は、豊臣秀吉の側近の大名でもあり、秀吉の九州平定時に手柄を立てたことから、肥後国南部の領地を賜りました。
その後、天草も含めて小西行長の支配領地となり、ここに日本でも有数の一大キリシタン拠点が誕生します。

島原・天草一揆がキリシタンによる一揆である、という背景としてこのように、支配者も含めてもともとこの地には多くのキリシタンたちが住んでいた場所だったという歴史的背景があるのです。

江戸時代初期(1603年~1612年)

江戸幕府が誕生し、徳川家の時代に入ってからも江戸幕府は秀吉の政策を引継ぎ、キリシタン禁制は続けられました。ですが、その内実も引き続き一部緩いものがあり、キリシタンの取り締まりも藩主によって濃淡があったと言えます。

特に後の島原藩の領主であった有馬晴信や、長崎港を開港した大村純忠はいずれもキリシタン大名であったことから、島原・天草・長崎の大多数はキリシタンであり、日本でもこの地域はまるで異国かのようにキリシタンの土地となっていました。

そんな状況が一変したのが1610年前後に起こった「岡本大八事件」です。
この事件、事の起こりは有馬晴信とポルトガル船とのいざこざによる衝突に始まるのですが、それが当時ポルトガル船の目付け役をしていた岡本大八との確執に発展し、最終的には有馬晴信は流罪に、岡本大八は火あぶりの刑に処せられました。

この処分で終われば良かったものの、家康はこの二人がキリシタンであった事に目を付け、これをきっかけにキリシタン禁教令を出し、ここからキリシタンへの弾圧は厳しさを増していくことになったのです。

島原・天草一揆まで(1612年~1637年)

徳川幕府による禁教令が発令されてから、宣教師(バテレン)達は基本的にはマカオやマニラへの国外追放となり、日本の大名からもキリシタン大名はいなくなります。

この頃からキリシタン弾圧が激しさを増していくのですが、この頃の弾圧の特徴としては弾圧の対象となったのは信徒というより宣教師たちだったということです。

特に壮絶な出来事として有名なのが、1622年に行われた元和の大殉教です。この時、長崎の西坂で55名のキリシタン関係者が火あぶりもしくは斬首により処刑されています。
処刑された者の中には、宣教師や修道士だけでなくこれらをかくまった信徒も含まれ、その一家が容赦なく処刑されました。4歳の子どもも含まれていたそうです。

この徹底的な取り締まりによって日本からほぼ宣教師たちが一掃されてしまうわけですが、それでもまだ百姓や一般庶民の中のキリシタンたちは厳しい弾圧を免れていた面もありました。

その理由として考えられるのは、やはりまだ幕府を中心としたキリシタンの取り締まり体制が確立されておらず、キリシタンの取り締まりはある程度諸藩に委ねられていた事があると思います。

そんな中、元々キリシタンたちが多く住んでいた島原藩の状況はというと、初代藩主の松倉 重政(まつくら しげまさ)は当初は南蛮貿易で利益を得ていたこともあり、ある程度キリシタンの活動を黙認する姿勢を取っていました。
が、徳川幕府による禁教令から徐々にその弾圧を強め、幕府にその対応の甘さを指摘されてからは一転、残忍な拷問とともに徹底的にキリシタンを取り締まるようになります。これが1620年から30年にかけてのことです。

これと合わせて、領民から過酷な搾取を行うなどの苛政を行い、これらの政策は二代目を継いだ子の松倉勝家にも引き継がれました。そしてこのような状況の中、島原・天草一揆が火山爆発のように突如として吹き上がったのです。

島原・天草一揆の全容①:戦いの幕開け

一揆が勃発!一揆勢は島原城・富岡城を包囲

1637年10月25日、有馬村の代官であった林兵左衛門が村人に殺されたことで一揆ののろしが上がりました。

代官であった林兵左衛門が殺された理由としては、有馬村の村民たちがキリスト教の絵を掲げて祈りを捧げていたところ、林兵左衛門が踏み込んできてこれを引き破ったことに対する報復であったり、必要な年貢を納めなかった村人の妊娠していた妻が水牢の拷問を受け、お腹の子どもと共に死んでしまったことに対する復讐だったと言われています。

いずれにしても、有馬村を起点として一揆の掛け声が上がり、その流れは村を巻き込んで島原城へと押し寄せていきました。

ここに一揆の残虐性と、この一揆がキリシタン一揆であると言われる所以があるのですが、一揆の大きな勢力は次々と村を襲い、そのたびに村民に対してキリシタンとなって一揆に加わることを強要し、それに従わない者たちはことごとく殺されたのです。
また、一揆に同調しない百姓や民衆だけでなく、道中にある寺社は容赦なく破壊され、そこにいた僧侶たちも無残にも首を切られました。

こうして、村民や民衆たちは一揆に加勢する(つまり、キリシタンになる)か、そうでなければ藩主側に付くかの二択を迫られることになり、一揆側に付かない者たちは藩主の居城に逃げ込みました。

百姓一揆であれば、その攻撃の対象は大名や藩主であるのに対し、この島原・天草一揆では藩主だけでなく、キリシタンに立ち帰り、もしくは改宗しない人々までもが攻撃の対象となったのです。この点にこの一揆が宗教戦争の一面を有していると言えるでしょう。

島原で一揆が巻き起こったのと合わせるようにして、天草でも村民たちが一揆を起こし、島原と同様に藩主の寺沢氏の居城、富岡城へと押し寄せました。

なぜ藩主勢は苦戦を強いられたのか?

一揆のイメージで言うと、戦いのプロである武将と素人の百姓の戦いなので短期間で制圧されそうな気がしますが、島原・天草一揆で藩主側がここまで押し込まれたのはなぜでしょうか。

考えられる理由は2つあります。

1つ目は、戦いの手段は刀から鉄砲に移っていたため、普段から狩猟などで銃を使い慣れている百姓たちにも一日の長があったこと。
2つ目は、藩主の松倉氏が参勤交代で江戸に上っていたため、藩主側の勢力が半減していたこと。

それ以外にも、島原の一揆に応じて天草側でも一揆が発生したことから、すでに天草四郎を総大将とする一揆の組織が構築され、機動的な動きができる統制がコントロールされていたことも考えられます。

藩主側は近隣諸国と江戸幕府に援軍を要請!

当初は勢いに乗り、藩主勢力を圧倒して島原城、富岡城まで押し寄せた一揆軍。ここから一気に城を攻め落としたいところですが、堅固な守りということもあり容易に城を攻め落とせずにいました。

その間、松倉・寺沢氏の両藩主勢力は近隣諸国と江戸幕府に向けて援軍の要請を出します。ここで近隣の藩主たちがすぐに援軍を出していればまだ短期戦で済んだかもしれませんが、実は援軍は江戸幕府からも近隣藩からもすぐには到着しなかったのです。

江戸幕府から九州までは、片道でも10日~20日ほどかかる距離。幕府軍の援軍がすぐに加勢できなかったことは容易に分かりますが、近隣の藩主たちはなぜ助けをよこさなかったのでしょうか。
実は、江戸幕府が定めた武家諸法度では藩主が藩を超えて独断で軍を派遣することは禁止されており、事前に江戸幕府にお伺いを立てる必要があったのです。

1637年と言えば江戸幕府が成立してまだ30年ほど。しかも九州は江戸から遠く離れており、その藩主はいわゆる「外様大名」と呼ばれた、江戸将軍とあまり信頼関係の無い大名たちでした。それでも九州の諸大名たちは、徳川将軍へのアピールのつもりなのか、武家諸法度を律儀に守っていたのです。これを知った当時の三代将軍家光は、一揆勢に押されている状況でありながらも秘かに喜んだと言われています。

 

容易に島原城、富岡城を攻め落とすことができないと分かった一揆勢は合流して、原城に立てこもり、いずれ来る幕府の援軍を迎え撃つ準備を進める作戦に切り替えました。

舞台は原城へ。そして、すべての決着がこの地で付されることになるのです。

島原・天草一揆の全容②:原城での島原・天草一揆の攻防

そもそも原城ってどんな城?

天草四郎時貞を総大将とする一揆軍は原城に集結し、ここに籠城して幕府軍もろとも迎え撃つことになるのですが、そもそもこの原城というのはどんな城だったのでしょうか。

実は原城は一言で言えば「築城の途中で放置された作りかけの城」でした。というのも、この城は江戸幕府が成立する前から有馬晴信によって1599年には建設が着手されており、かなり整備が進んでいたのです。
ですが、その後藩主が変わり松倉勝家の統治になってから、松倉氏はこの城ではなく別の場所に島原城を建設することにしたのです。

「せっかく造りかけたんだから2つとも建ててしまえばいいんじゃないの?」

そう思われるかもしれません。ですが、これも江戸幕府により敷かれた「一国一城令」によって諸大名は基本的に居城以外に城を持つことは禁止されていたのです。

江戸幕府は島原・天草一揆において、この「一国一城令」で救われた部分があるかもしれません。もし原城が完璧な城として建設されていれば、この一揆もさらに長期化していたかもしれないからです。
一揆軍は造りかけだったこの原城を大急ぎで整備して、幕府軍を迎え撃つ体制を短期間で構築したのです。

一揆軍、幕府援軍の第1軍を撃破

江戸幕府は島原・天草一揆の知らせを受け、すぐに板倉重昌を援軍として派遣しました。ですが、この板倉氏を総大将とする幕府・九州諸大名の軍勢も原城に立てこもる一揆軍の攻略に苦心し、幾度か総攻撃をかけても鉄壁の守りと統制の効いた反撃で大きな痛手を負うハメになりました。

すぐに決着が着くとタカをくくっていた江戸幕府は事態を重く見て、第二軍として松平信綱を派遣します。
松平家と言えば徳川家の親戚であり、松平信綱は当時の三代将軍家光の側近中の側近です。いかに幕府がこの一揆を重く受け止めたかが分かりますね。

松平氏の援軍の一報は当然、現地で指揮を執る板倉氏の耳にも入っていた事でしょう。これに焦ったのか、板倉氏は無謀にも再度の総攻撃を仕掛け、何とか松平氏が到着するまでに決着をつけようとしましたが、これが裏目に出てしまいます。

板倉氏は前線に立って城に攻め入る際に一揆軍の銃弾に当たり、戦死してしまったのです。

松平軍、築山作りと兵糧攻めでじりじり攻める

板倉氏に代わり、軍の総指揮を執った松平信綱。若い頃から切れ者として評判だったこの人物が取った作戦は、築山作りによる攻撃と兵糧攻めです。

「築山」というのは人工的に作った山のこと。松平氏は、人工的に大掛かりな山を作り、そこから原城内の様子を探りつつ、攻撃を仕掛ける起点にしたのです。
もちろん、このような築山を作るのには相当の人手と時間がかかった事でしょう。

これと合わせて、松平氏は兵糧攻めでジリジリと一揆軍を追い詰める作戦に打ってでました。
この2つの戦略の効果はてきめん、兵糧が次第に底をついてきた一揆軍の士気は下がり、また築山から城内の様子を探りながら攻撃を仕掛けることで、徐々に原城の守りにも隙が出始めたのです。

島原・天草一揆の全容③:原城での神経戦と壮絶な終焉

矢文による交渉

一揆軍が原城に籠城してから、幕府・諸藩軍との間で様々な神経戦が行われました。

そのうちの一つが、矢文による交渉です。以下にそのやり取りの一部をご紹介しますが、これを見てもこの一揆の目的がキリシタンによる信仰の自由を求めたものとみることができます。

【一揆軍の主張】
① 籠城の目的は国を持つことでも支配権を持つことでもなく、幕府や藩主の松倉氏に不満を持ったものではない
② キリシタンの信仰が迫害されたことに苦しめられ、後生の救いを失わないために信仰の容認を求めて蜂起したものである
③ 現世のことに関しては将軍や大名に忠義を尽くす覚悟であるが、来世のことに対しては「天使」すなわち天草四郎の下知に従う

この一揆軍の矢文からは、キリシタンとしての信仰を幕府に認めさせることが一番の目的であり、それ以外の他意は無いことも名言されています。

【幕府軍からの要求】
① 去年以来原城から投降してきた「落人」は助命されたうえ、金銀が与えられ、当年の年貢を免除されて皆喜んでいる
② キリシタンは処刑する一方、異教徒であったのに現在無理やりキリシタンになっている者は助命するのが家光の意向
③ 大将の天草四郎もまだ若いため、城から出るなら助命する
④ 巻き添えでキリシタンになった者も、後悔しているなら投降の上改宗すれば助命される
⑤ もともと異教徒であった者たちを解放すれば、代わりに熊本藩に捕らえられている天草四郎の母・姉・妹・小平を城内に派遣する

この幕府軍の要求から分かることは、以下の通りです。
・キリシタンに対しての容赦は一切なく、例外なく改宗を求めている
・総大将である天草四郎に対してもその年齢に対して情けがかけられている

【一揆軍の回答】
・「落人」に対して特段の対応は取っておらず、放置、つまりその者の自由に任せている
・無理やりキリシタンに改宗した者はいない
・我々はデウス様のお計らい次第、必ずパライソ(天国)で再開する約束で結ばれている

一揆軍の回答からは、強い信仰により軍は一致団結していることをアピールしている様子がうかがえます。

壮絶な最期

1638年2月28日、幕府・諸藩軍はついに総攻撃に打って出ます。

もちろん原城の堅固な守りは簡単には崩れず、幕府・諸藩軍側にも多くの戦死者、負傷者が出ましたが、それでも軍は攻撃の手を緩めませんでした。
そしてついに原城は陥落し、一揆軍の大将、天草四郎時貞はその首を討ちとられて戦死。ここに島原・天草一揆は終焉します。

この一揆の後味が悪いところは、この最後の総力戦で一揆軍は全員が討ち死にしたこと。たった一人、総大将である天草四郎の側近で最後には幕府軍に寝返った山田右衛門作を除いて、女性・子どもの区別なく全員です。

原城は「信仰の自由」を夢見て散っていった一揆軍の戦死者たちで埋め尽くされ、多くの血が流れた場所なのです。

【世界遺産】原城跡と島原・天草一揆が日本に与えた衝撃

一揆軍のせん滅によって終結した島原・天草一揆。この江戸時代始まっての大事件は、その後の日本、江戸幕府にどのような影響を与えたのでしょうか。
もちろんこの事件はその後の江戸幕府の方針を決定づけるほどに大きな影響を与えています。

その影響の1つ目が、キリシタンの更なる徹底した取り締まりです。この事件の後、江戸幕府は「宗門改役」というキリシタン禁制を指揮する新たな役職を設置します。
そして1659年から1671年にかけて、諸藩に対して五人組、檀那寺、宗門改役の設置を指示し、全国の諸藩が仕組みとしてキリシタンを表面上ゼロにする体制を作ったのです。

2つ目の影響は、「鎖国」の完成です。1639年に江戸幕府はポルトガル船の入港を完全に禁止し、ここに江戸幕府の鎖国体制がスタートすることになります。
ポルトガル船の排除はもちろん、南蛮貿易による宣教師の入国を排除する目的によるもの。

このようにして島原・天草一揆をきっかけとして、17世紀後半にかけて表面上、日本からキリシタンが排除されていくことになりました。「表面上」の排除、これによってキリシタンたちは信仰を続けるうえで「潜伏」せざるを得なくなったということです。

 

いかがでしたでしょうか。
島原・天草一揆から始まるキリシタン禁制の時代は間違いなく日本のキリシタンにとって苦難の時代であったと言えます。一方で、この事件ではキリシタン百姓による寺社の襲撃が行われたことも事実で、物事の表と裏を見なければ歴史上で何が起こったのか、そして目の前で起こっていることを正しく「知る」ことにはつながりません。

島原・天草一揆は、「信仰」という人間のあり方、魂の根源に繋がるものが一つのテーマとなった事件であり、「信仰の違い」によって多くの血が流れ、命が奪われた出来事でもありました。「多様性」が叫ばれている現在において、私たちがこの歴史上の出来事から感じること、学ぶこと、考えることは特に多いのではないでしょうか。

 

(参考:「潜伏キリシタン」大橋 幸泰 講談社学術文庫、「島原の乱」神田千里 講談社学術文庫、「天草四郎と島原の乱」 鶴田 倉造 熊本出版文化会館、「島原・天草の乱」煎本 増夫 新人物往来社)

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