日本に天台宗を伝えた伝教大師・最澄。同時代を生きた弘法大師・空海に比べると、天台宗以外に最澄についてあまり馴染みがない方が多いかもしれません。今回は、今に伝わる様々な歴史資料を読みながら、最澄の人となりを探ります。

渡来人の血筋を引く秀才の誕生~「叡山大師伝」より~
最澄が生まれたのは8世紀後半の766年(767年との説もあり)、近江国(今の滋賀県大津市)でのこと。
「叡山大師伝」(えいざんだいしでん)によると、最澄の父、三津首百枝(みつのおびとももえ)は深く仏教を信仰していたのですが、子宝に恵まれず、ある時祈願のために比叡山に入りました。
そこで祈願する場所を探していると、不思議な名香の香りが立ち込める場所を見つけ、ここに草庵を建てることに。
ここで7日間の祈願を行うことを決めて祈願をしていると、4日目の夜明け前に夢で吉兆を感じ、それによってついに子どもを授かることができたのだそう。最澄の誕生です。
このお話はやや伝説化されたような印象を受けますが、この時に最澄の父が祈願した草庵は「神宮禅院」という名前として記録されています。
最澄も受戒してすぐに比叡山に入ることになりますが、その時に父親が建てた草庵の存在も知っていたのかもしれませんね。
最澄の幼いころの名前は広野(ひろの)といいますが、最澄の生涯を記録した「叡山大師伝」(えいざんだいしでん)では、先祖は中国・後漢時代の皇帝の子孫と伝えられており、つまり最澄は中国・朝鮮半島にルーツを持つ渡来人(とらいじん)の一族ということになります。
皇帝の子孫というだけでも由緒正しい出自なのですが、中国や朝鮮半島から日本にやってきた渡来人は技術や知識を持った有能な人たちだったと言われており、このことからも最澄が才に溢れた人物だったのだろうということが想像できますよね。

広野は13歳(「叡山大師伝」では12歳と記録)の時に近江の国分寺の、近江国大国師伝灯法師という僧として高い位にあった行表(ぎょうひょう)に師事しました。
この時、広野はすでに「陰陽・医方・工巧(おんみょう・いほう・くぎょう)」にも精通したと記録されており、陰陽は今でいう暦や天文学、医方は薬学や医学、工巧は建築や技術、数学といったところでしょうか。
いずれにしてもこれらの領域についても精通していたということから、最澄が幼いころからいかに人並外れた才覚を持っていたかが分かります。
行表に師事してから、15歳で得度(とくど・仏の道に入り、弟子入りすること)して、名前を最澄に改め、20歳の時に東大寺で具足戒(ぐそくかい)を受けて正式な僧侶となりました。
比叡山で自らの誓いを宣言~「願文(がんもん)」~

「願文(がんもん)」で立てた誓いとは?
785年、20歳にして東大寺で受戒した最澄でしたが、そのわずか数か月後に比叡山に入り修行に身を置きました。
時は785年、ちょうどその前年には桓武天皇により都が奈良の平城京から京都の長岡京に移されるという、大きな変革が行われた時期でもあります。
桓武天皇が都を遷都した理由の一つが、日本史でも登場する道鏡(どうきょう)の政治関与など奈良仏教の腐敗から距離を置くためだったのではと言われていますが、これらの出来事は最澄にどのように映ったのでしょうか。
最澄の比叡山入りは、こうした世間の動きと一線を引くため、という以外にも、仏教を学んだ国分寺が焼失してしまったため、という理由が考えられています。
ただ、僧侶たちが修行の場を山に見出すことは当時の一つの流れでもあり、最澄の比叡山入りもこうしたトレンドの一つと考えれば不自然なことではありません。
ですが、最澄は確固たる決意を持って比叡山に入ったものと考えられており、「願文」という最澄の記した文章の中にある5つの決意をご紹介します。
①我れ未だ(いまだ)六根相似(ろっこんそうじ)の位を得ざるより以還(このかた)出仮(しゅっけ)せじ
②未だ(いまだ)理を照らす心を得ざるより以還(このかた)才藝(さいげい)あらじ
③未だ(いまだ)淨戒(じょうかい)を具足することを得ざるより以還(このかた)檀主(だんしゅ)の法會に預からじ
④未だ(いまだ)般若(はんにゃ)の心を得ざるより以還(このかた)、世間の人事(にんじ)・緣務につかじ、相似の位を除く
⑤三際(さんさい)の中間(ちゅうげん)に、修する所の功德は、独り己(おの)が身に受けず。普く(あまねく)有識(うしき)に回施(えせ)して、悉く(ことごとく)皆、無上菩提(むじょうぼだい)を得せしめん
これを非常に簡単に言い換えると、
この内容だけでも、自分に非常に厳しい制約を課しているように見えますね。
ちなみに、比叡山に入った3年後の788年に最澄が建てた一乗止観院が、延暦寺の根本中堂の始まりと言われています。
「願文」1つ目の「六根相似」というのは、仏教においての身分のようなものと考えられていて、
- 理即
- 名字即
- 観行即(かんぎょうそく)
- 相似即
- 分真即(ぶんしんそく)
- 究竟即(くきょうそく)
という段階がある中の「相似即」に該当するのでは、との説があります。
ちなみに理即が人が本来備えている仏の心であり、そこから下に行くほど高度なものになり、究竟即は仏の悟りの境地です。
これを踏まえると、最澄の1つ目の決意は相応の知識と修行が求められるレベル、ということになりますが、最澄は「自分は程度の低い人間(下根といいます。)だから、その位のレベルで初めて世に出て行けるのだ」と、自身を卑下(ひげ)しているかのような姿勢を取っているのです。
具足戒を受けた以上、一人前の僧として振舞ってよい立場にあるものの、ご紹介した「願文」を見ると、自らに非常に高い縛りを設けているような印象を受けませんか。
ここから、最澄の愚直なまでに仏教を追究する芯の強さであったり、理想のためには努力や苦労を厭わないまっすぐな人柄が見えてくるのですが、皆さんはいかがでしょうか。
比叡山での修行からいよいよ表舞台へ
20歳で比叡山に入ってからの最澄の具体的な足取りは分かっていません。
最初は独りでひたすら修行に励んでいたであろう最澄の存在は、優れた資質も相まって次第に世に知れ渡ることになるのは時間の問題だったと思われます。
「願文」でも、修行によって一定の成果が身に着くまでは表舞台に立たないことを宣言した最澄は、12年後の797年、32歳の時に、「内供奉十禅師」(ないぐぶじゅうぜんじ)に任命されました。
これは宮中で天皇のために祈祷などを行う官僧のことで、天皇お抱えの僧侶になったということです。
3年前の794年は、桓武天皇による平安京への遷都が行われた年。
長岡京は、長岡京遷都を担っていた藤原種継(ふじわら たねつぐ)の暗殺や、日照りによる飢饉(ききん)や河川の氾濫など、トラブル続きでした。
平安京への遷都は、このような不吉な出来事が続いたことで桓武天皇の弟だった早良親王が不和の末、桓武天皇によって島流しにあう途中で無念の死を遂げたことによる怨念への恐れもあったことと想像できます。
もともと奈良仏教の腐敗に見切りをつけていた桓武天皇でしたが、こういった出来事の前では無力を痛感せざるを得なかったことでしょう。
無力を痛感する中、弱気になっていた桓武天皇が最後に頼ったのはやはり仏教ではなかったか。
そんな桓武天皇が、平安京の鬼門である北東の比叡山に寺を構え、天台宗という新たな教義を身につけた最澄という存在を耳にしたのはそんな時期だったのでしょう。
実は桓武天皇の母は百済出身の血筋を引いており、桓武天皇にも最澄と同じく渡来人の血が流れていたことは、どこか運命のようなものを感じます。
入唐も、わずか1年足らずで帰国

自ら唐の天台山へ
内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)となり、桓武天皇とのつながりもできた最澄。
そこに遣唐使船の話が持ち上がるのですが、それはつまり天台宗の本場、中国の天台山で教えを授かるまたとない機会です。
このチャンスを最澄は決して逃すまいと、桓武天皇に比叡山から留学生(るがくしょう:長期滞在)と還学生(げんがくしょう:短期滞在)それぞれ1名の派遣を上奏します。
その結果、最澄自らが還学生として唐に渡るわけですが、実は当初は最澄以外の僧の派遣を申し出ていました。
それが最終的になぜ最澄自身が行くことになったのか、いきさつは分かりませんが、決めたら一途な最澄ですので、最後は自分が行きたい気持ちを抑えられずに手を挙げたのかもしれません。
そして最澄が遣唐使船と同時に出航した別の船には後の弘法大師・空海が乗っていました。
このあたりからも、二人が互いに引き寄せられる運命にあったのでしょうか。不思議な因縁を感じます。
ちなみに、当時の遣唐使船というのは船の難破も多く、まさに命がけのこと。
最澄と空海の乗った船は無事に唐の地にたどり着き、他の2船は難破してしまったことも、仏のご加護とお導きがあってのことだったのでしょうか。
唐に入ってしばらく体調を崩していた最澄ですが、その後、台州の龍興寺にて道邃(どうずい:天台宗第七祖)に、天台山で行満(ぎょうまん)から天台宗の最も重要なエッセンスである一心三観(いっしんさんがん)を伝授されました。
密教との偶然の出会い
唐での目的を遂げた最澄はあっさり日本への帰路につくのですが、日本への船を待つ間の時間を使って越州の龍興寺で順暁(じゅんぎょう)という密教の高僧から灌頂(かんじょう)を受けています。
これは当初の予定にはおそらく無かった、スケジュール上の偶然によるものだと思いますが、ここで密教にふれて灌頂も受けたことがその後の最澄の人生に大きく影響することになるのです。
最澄が唐に滞在していた期間は1年にも満たないのですが、短期間の滞在を目的とした還学生としての滞在の中でも短いように思います。
それは、欠けていた天台宗の教えを学び、晴れて日本で完全な形で天台宗の教えを広げられること、そして自分を待ちわびる桓武天皇にその教えを伝えたい、という一心だったのかもしれません。
先ほどご紹介した桓武天皇との関係を考えると、天台宗だけでなく桓武天皇への期待に応えたい、とする最澄の一途な人間性が垣間見えてきます。
ですが、それだけ一途な最澄が、船の調達まで時間があったとはいえ、わざわざ越州まで行ってしかも密教の灌頂を受けたのはどこか矛盾を感じてしまいます。
後に密教を天台宗に取り入れたことから想像するに、利用できそうなものは積極的に取り入れようとする図太さと好奇心の強さも併せ持っていたのかもしれません。
七歳年下の空海への弟子入り
日本で最初の灌頂を行った最澄の複雑な胸中
805年、唐から帰国した最澄は、早速その成果を桓武天皇に報告します。
これまでひたすら天台宗の修行に勤めてきた最澄からすれば、唐で道邃(どうずい)、行満(ぎょうまん)という天台宗の高僧たちから伝授されたことで、いよいよ日本でも本格的に天台宗の布教が可能になることをアピールしたかったことでしょう。
もちろん天台宗についての成果に桓武天皇も応える一方、桓武天皇や当時の日本が最澄に期待していたものは天台宗よりも、むしろ帰国の直前に偶然灌頂を受けた密教だったのです。
密教は当時の唐でも非常に人気の教義となっており、体調を崩して衰弱していた桓武天皇にとってはその神秘的な教義や祈祷が、自身の病を治癒してくれるかもしれない、と大きな期待を寄せていたのかもしれません。
桓武天皇の要請をうけ、同じ年に最澄は高雄山寺で日本で初めて、密教の灌頂を行いました。
この灌頂もむなしく、桓武天皇は翌806年に崩御。強力な理解者であり、後ろ盾を失った最澄にとってそのショックは計り知れないものだったと思います。
ところで、天台宗一筋の最澄が密教の灌頂も行ったことについて、「どっちつかずで、矛盾してない?」と思われたかもしれません。
最澄は密教についてどのように考えていたのでしょうか。この点については別記事でご紹介予定です。
頭を下げて年下の空海から学ぶ
自身も密教の灌頂を受けたとは言え、真言密教の第七祖の恵果(けいか)から直々にその教えと「伝法灌頂」(でんぽうかんじょう:指導者である阿闍梨(あじゃり)の地位を授ける)を受け、真言第八祖になった空海に比べると、最澄の密教のレベルは雲泥の差だったことでしょう。
最澄自身もそのことを痛感していたため、空海に弟子入りして「結縁灌頂」(けちえんかんじょう)を受けるとともに、空海が唐から持ち帰った密教の経典を次々に拝借して、密教を必死で学びました。
ちなみに、最澄が空海から受けた結縁灌頂というのは、密教を学ぶ入門のようなもの。密教の指導者たる阿闍梨とは位が全く異なります。
二人の関係は最後には破綻してしまうのですが、それは別の記事で詳しくご紹介します。
自分に密教の修行が圧倒的に足りていないことを分かっていた最澄ですが、それを潔く認めて空海に灌頂や経本の貸与を頼み込む潔い姿勢が印象的ですよね。
「願文」からは、仏教の前でひたすら自分を卑下する最澄が浮かび上がってきましたが、この姿勢は空海との関係においても変わらず一貫しています。
最澄は密教を学ぶため、空海から密教に関する経本を拝借するために手紙を書いているのですが、手紙では自らを「弟子最澄」と記しているのです。
すなわち、仏教の修得のためには自分のプライドなどちっぽけなもので、そのためならいくらでも身も心も捧げる-。
そうした竹を割ったような一面と合わせて、一度突き進むと徹底的に追求する頑固さのようなものが密教への固執にも見てとれます。
愛弟子・泰範への未練と「久隔帖(きゅうかくじょう)」

最澄にとっては、空海との決別よりも、密教を学ぶために空海の下に送り込んだ最愛の弟子、泰範(たいはん)が、あろうことか空海の下で真言宗に帰依してしまったことでしょう。
実は最澄と泰範との間のやり取りの書簡が残されているのですが、その一つが最澄の直筆で唯一現存する、国宝にも指定されている「久隔帖」です。
久しく清音を隔(へだ)つ。
馳恋極まり無し。
出だしの文章からその名で呼ばれている「久隔帖」。
その内容は久しく会えていないが変わりはないか、弟子の泰範に宛てた文面は当時のお決まりのあいさつ文から始まり、空海から借用した書類に関する問い合わせの取次ぎをお願いする事務的なものになっています。
この「久隔帖」がしたためられたのは、空海が40歳、最澄が47歳の時だったのですが、すでにこの前年から、泰範に最澄の元から離れる思惑が浮上しています。
そして、そのような泰範の心変わりを察した最澄は、次第に泰範へ天台法華宗、ひいては比叡山へ戻ってくるようなりふり構わず強い慰留を投げかけるようになります。
最澄は、「久隔帖」をしたためた前年の812年に体調を崩し、遺言状のようなものを書いているのですが、そこには、
老僧最澄遺言す。
山寺の惣別当は泰範師。 文書司を兼(か)ぬ。
伝法の座主は円澄師。
と記載されており、泰範に延暦寺を任せる旨が記載されています。
自分の後継者に、と思っていた人物が違う宗派に流れてしまった-。最澄のショックは相当なものだったでしょう。
そしてその数年後の816年には次のような書簡を泰範に向けて出しています。
老僧最澄、生年五十、生涯久しからず。
(略)
独り一乗を荷い、俗間に流連す。 但、恨むらくは、闍梨と別居することのみ。
(略)闍梨の功は、片時も忘れず。又、高雄の灌頂には、志同じくして道を求め、倶に仏恵を期す。
(略)
然れども法華一乗と真言一乗と、何ぞ優劣有らん。
(略)
若し深き縁有らば、倶に生死に往して、同じく群生を負わん。
(略)
私は独りで天台宗の布教に勤め、俗世間で迷い戸惑いながら過ごしております。ただ恨めしいのは、あなたと遠く離れて過ごしていることだけ。
あなたの功績は一時たりとも忘れたことはありません。高雄山寺でともに(空海より)灌頂を受けた同志ではありませんか。
天台法華宗と真言宗は同じ一乗で、どちらが優れているという関係ではないです。
もしご縁がまだあるならば、今後も苦楽をともにしようではないか。
数年たってもまだ泰範をあきらめきれずにいるのがよく分かりますよね。
この時最澄は50歳近くになっていたことから、老いから来る弱さもあったのかもしれません。
また、最澄にとって泰範は単なる弟子という存在を超えて、共に天台宗に身を捧げた特別な存在だったのでしょう。
そんな存在を失った最澄の深い悲しみは計り知れないものの、自分の気持ちを何のためらいもなく文字にする最澄の純粋さは、1200年以上時を下った我々が見ても痛々しいぐらいに伝わってきませんか。
真正面から挑んだ大乗戒(菩薩戒)の制定~「山家学生式(さんげがくしょうしき)」~

山家学生式(さんげがくしょうしき)ってどんな内容?
空海と決別した最澄は、その後も天台法華宗の布教にまい進しますが、その集大成ともいえる取組みが大乗戒(菩薩戒)の制定です。
当時、仏僧が一人前になるためには東大寺において具足戒を受ける必要があったのですが、これは朝廷から公式の宗派として認められた天台法華宗も例外ではありません。
天台法華宗の修行に専念することが重要であると考えた最澄は、具足戒を受けるために比叡山から東大寺に出向くことに疑問を感じ、比叡山独自で完結する、具足戒に相当する制度の立ち上げを決意します。
ですが、その制度を国からも認めてもらわなければ何の意味もありません。
そこで、国に天台法華宗の大乗戒制度を認めてもらうために上奏する書類を準備したのですが、これらはまとめて「山家学生式(さんげがくしょうしき)」と呼ばれています。
国宝(こくほう)とは何物(なにもの)ぞ
宝(たから)とは道心(どうしん)なり
道心(どうしん)ある人(ひと)を名づけて国宝(こくほう)と為す
これは山家学生式(さんげがくしょうしき)の有名な出だしの文章です。
国の宝とは何だろうか。
それは、道を修めようとする人の心である。
このような心を持った人こそが、国の宝なのである。
翻訳するとこのような感じでしょうか。
非常にシンプルであるものの、筆者はこの文章を読んでどこか確固たる力強さを感じました。
それは生涯をかけて一心不乱に、愚直に、一途に、「一乗」の思想を心に天台宗という教えを極めんとした最澄がたどり着いた境地で紡いだ言葉だからかもしれません。
出だしはこのような思想から始まるものの、「山家学生式」というのは非常に実務的な内容になっています。
- 得度の年には仏子戒を授け、大戒を受けるには比叡山で12年の修行に励まなければならない
- 止観業の習得には法華経をはじめとする護国の衆経を毎日読まなければならない
- 遮那業の習得には遮那経など護国の真言を毎日唱えなければならない
- 能力も行動力もある者は、山に残り国宝となる。能力はあるが行動力がない者は国師とする。能力はないが行動力がある者は国用とする。
大乗戒を授かるには比叡山にて12年の修行に励む必要がある、というのは非常に厳しいルールですよね。
12年というのは最澄が「願文」を作成して比叡山にこもった年月でもあり、これは偶然か、意図したものかは分かりません。
具足戒に相当する新たな制度を認めてもらうわけですから、このような厳しいルールを設けたのは当然と言えば当然なのですが、ここにも最澄のまっすぐな人柄が見える気がします。
大乗戒(菩薩戒)が認められるまでの道のり
「山家学生式」というのは、最澄が上奏した「六条式」「八条式」「四条式」をまとめたものをいうのですが、なぜこの3つに分かれているかというと、一度の上奏では大乗戒が認められなかったためです。
上奏が認められないたびに最澄は追加の八条式、そして四条式を提出するわけですが、もどかしいのは、上奏が認められないのは純粋に大乗戒のルールが不十分だから、と最澄が思い込んでその都度、大乗戒の制度をより具体的に補強していること。
先ほどお話ししたように、上奏が認められなかった裏には南都六宗の激しい抵抗があったと思われ、彼らをうまくやり込めることが成功への近道だと思うのですが、最澄にはそのような思惑が見られない。
見ていて痛々しいほどの純粋さが最澄の人柄であり、だからこそ最澄の力になりたい、と彼を慕って人が集まるのでしょう。
大乗戒の勅許(ちょっきょ:天皇から正式な許可が下りること)を受けるまで、朝廷と最澄の間で奔走したのが弟子の光定(こうじょう)という僧でした。
何度も上奏を経て、ついに嵯峨天皇から大乗戒の勅許が下りたのは822年6月11日。
最澄が入滅してわずか7日後のことでした。
この知らせをどれほど最澄は待ちわびていたことか。生きている間にそれを耳にすることはかなわなかったのです。
最澄の思想「照千(于)一隅」とは?

先ほどご紹介した「山家学生式」の中に、「照千(于)一隅」という言葉が出てくるのですが、この意味を巡っては研究者の中でも意見が分かれています。
そもそも「千」という部分が「千」なのか「于」なのか、という点も決着がついていません。
簡単に言ってしまえば、次の2つの読み方ができるということになります。
- 照于一隅:一つの隅を照らす
- 照千一隅:一つの隅から千の光(つまり、あらゆる場所に)を照らす
それぞれに主張はあるのですが、「于」は前置詞の働きをするため、「于」の場合は文字通りの読み方になります。
一方、「千」という字の場合、照千・一隅となり、前置詞が無いので漢文として不自然な文法になってしまうのですが、天台宗に関連する経本の中に「照千里」「守一隅」という言葉が出てくることから、これが元になっているのではないか、という考えです。
現在の天台宗のウェブサイトでは「一隅を照らす」と解釈されており、「一隅」、つまり自分が置かれたほんの小さな環境や場所で自分の役割を精いっぱい果たすことこそが国宝である、と説いています。
もし「照千一隅」であれば、「一隅」というのはすなわち比叡山延暦寺を指すと考えられます。つまり、比叡山延暦寺から天台法華宗の教えを広めることで、その教えが世界に広がり、世界を明るく照らす光になるだろう、ということですね。
最澄の生涯を振り返ってきましたが、皆さんはどちらの読み方だと思いますか。
今回は歴史資料で最澄の足取りを追いつつ、その人柄に迫ってみました。
1200年以上前の時代を生き、どこか遠い存在のように感じた最澄が少しでも近く感じることができましたら幸いです。
まっすぐで仏教に対して一途であり、純粋であるがゆえに時には衝突も起こってしまう、それでも泥臭く前を進んでいく-。
筆者は、伝教大師という偉大な高僧というだけでなく、一人の人間としての最澄の生きざまにも魅力を感じました。
(参考:「雲と風と 伝教大師 最澄の生涯」永井路子、「山家の大師 最澄」大久保良峻、「伝教大師 最澄」大久保良峻)






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