【世界遺産】金閣寺はなぜ金色に建てられたのか?足利義満が三層の建築に込めた支配思想を探る

金閣と鏡湖池
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その名の通り、黄金に輝く楼閣を有する世界遺産・金閣寺。前身となる北山荘を造営した足利義満は、なぜこれほど豪華絢爛な外観の金閣(舎利殿)を建てたのか。なぜ金箔を敷き詰めて黄金にしたのか。義満が生きた南北朝時代と、義満が両朝統一を成し遂げるまでの道のりから、この謎に迫ります。

南北朝時代とはどんな時代だったのか?

南北朝時代の大きな流れ

本記事では足利義満がなぜ金閣を造営したのか、金色に輝く楼閣を建てた目的は何だったのかを探るべく、義満の生きた時代背景と合わせて考察を行っています。

義満の生きた南北朝時代というのは北朝と南朝の対立した時代、ということになるのですが、ことはそれほど単純ではなく、守護や有力武将たちもその時々の情勢に応じて組みする勢力を変えていました。

南北朝時代が始まってから、足利義満が両朝を統一し、金閣寺(北山荘)を造るまでの大きな流れは下記のとおりですが、その時々の対立構造を念頭に記事を読み進めて頂くとより記事の内容をお楽しみ頂けるかと思います。

  • 鎌倉幕府における北条氏の独裁政権により御家人内に不満が蓄積。そこに後醍醐天皇の討幕が加わり、御家人が分裂(御家人同士の対立)
  • 後醍醐天皇に組みして鎌倉幕府を攻略した足利尊氏だったが、その後の後醍醐天皇による建武の新政に反発(足利尊氏と後醍醐天皇の対立→南北朝時代の始まり)
  • 北朝側の足利尊氏と足利直義の間に亀裂が入り、尊氏が直義を討伐(北朝内の対立→北朝が廃され一時的に南北朝統一)
  • 尊氏が京都を奪還(再び南北朝の対立)
  • 義満が朝廷・公家社会に進出し、これを支配
  • 拡大する守護大名(土岐氏、山名氏)勢力の力を削ぎ、室町幕府の基盤を強化(幕府と守護大名の対立)
  • 義満による南北朝統一(和睦)

混乱の時代の中で、いかに生き抜いていくか、そのために利用すべき勢力はどちらか、忠義に生きる武将もいる中でそういったサバイバルが行われていた時代だったのです。

なぜ北朝と南朝の分裂が続いたのか?

室町幕府は北朝を立てましたが、南朝を武力で落とせば何十年も分裂は続かなかったのではないか?と思われるかもしれません。

ですが、事はそう単純ではありませんでした。

幕府と守護大名も一枚岩ではない

鎌倉幕府を開いた源頼朝、天下統一を果たした豊臣秀吉、江戸幕府を開いた徳川家康。

源頼朝は武家の棟梁として関東から支配を広げ、豊臣秀吉や徳川家康は各国の大名との権力争いを経て天下統一を果たすなど、その成立には確固たる権力基盤がありました。

一方の室町幕府というのは、鎌倉幕府内の腐敗から朝廷を巻き込んだ御家人の対立を生み、御家人の中でも有力御家人と言われた足利氏によって開かれたもので、その権力基盤が明確にあったわけではありません。

このように、幕府と守護大名は一枚岩というわけではなく、むしろその利害関係によってバランスが簡単に崩れてしまう脆い関係であり、それゆえ幕府の統率力が十分でないことが混乱を長引かせる要因にもなっていたと考えられます。

武家政権と新政権の対立構造

日本で初めて武家政権が誕生した鎌倉時代も、幕府内の体制の歪みから滅亡することになります。

南北朝時代のきっかけとなった、幕府に反旗を翻した後醍醐天皇の立ち上がりからみるに、国内の政治・支配体制として武家社会を目指すのか、天皇による新政を目指すのか、この対立構造はそれまでの幕府と御家人という関係や荘園・地頭制度などを根本から揺るがしかねない大きな問題だったと言えます。

これが北朝と南朝のいずれをも降伏から遠ざける要因にもなったと考えられます。

北朝側の幕府が南朝に降伏することは幕府体制の放棄を意味することになりますし、南朝側からすると武家政権に絶対的立場の朝廷(天皇)が屈することはあってはならないのですから。

正統性の欠如

幕府の将軍が任命される征夷大将軍は朝廷(天皇)から付与されるものです。

先ほどお話ししたように、守護大名に対する統率が十分でなかった室町幕府にとって、後ろ盾となる天皇や天皇から任命された将軍としての正統な地位はこれを補強するものだったと言えます。

一方、幕府が北朝を立て南朝と分裂したことで守護大名からしてみれば、都合が悪くなれば南朝に帰属するという選択肢が出来るため、このような状況が分裂を長引かせたともいえるでしょう。

さらに、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)という北朝内部での争いの際、ほんの一時ですが足利尊氏が南朝に降伏を申し入れたことで南北朝が一つになった時期がありました(正平一統:しょうへいいっとう)。

この時、南朝は京都に攻め込んで光明天皇への譲位の際に譲った三種の神器も奪い返したのです。

(もともと光明天皇への譲位を迫られた後醍醐天皇は、偽の神器を渡したという記録も残されているが、いずれにしても「三種の神器は南朝にあり」という形を作りたかった。)

その後再び尊氏・義詮親子が京都を取り返して後光厳天皇を擁立し、北朝を立てるのですが、三種の神器も正式な譲位の儀式も無いままの擁立でした。

この「正統性を欠く」北朝の成り立ちが後々まで尾を引くことになります。

義満に突き付けられた課題

南北朝が分裂したままでいつまでたっても解決されない。

その根本には、下記のような問題があったのです。

  • 幕府側も一枚岩ではなく南朝を攻め切るだけの盤石な体制が出来ていない
  • 力で南朝(朝廷)を抑えても朝廷・公家と武家との間のしこりは残り続けて同じ争いが繰り返される
  • 武家社会か、天皇による新政か、農民や市井の人々も含めてどちらかが圧倒的に支持を得ていたわけではない

足利義満はいかにして南北朝を統一したか

足利義満に影響を与えた人物

細川頼之(ほそかわ よりゆき)

足利義満は二代目の室町幕府将軍となった足利義詮の子どもして、1358年に誕生しました。

同年には義満から見て祖父に当たる初代将軍の尊氏が死去、その後を父親の義詮が継いだ年でもあります。

義満が生まれた年は先ほどご紹介した観応の擾乱から数年しか経っていない時期であり、南北朝の対立は深まるばかり。

義満が四歳の頃には南朝の楠木正儀、細川清氏らが京都に攻め込み、義満は抱きかかえられながら播磨の赤松氏の下に身を寄せたというエピソードも残されています。

そして義満が10歳の時、死期を悟った義詮は細川頼之を管領(将軍を補佐する幕府の最高職)に任命し、その後まもなく死去。

そして1368年に義満は征夷大将軍に任命されますが、一人前になるまで室町幕府の実権を握ったのは細川頼之でした。

頼之の手腕で室町幕府の経済基盤も強固なものになるとともに、頼之はそばで見ていた義満のその後の幕府支配に大きな影響を与えました。

二条良基(にじょう よしもと)

後ほどご紹介しますが、義満は積極的に朝廷内でもその地位を高めて実権を握ることになります。

ざっと義満の昇進を見ていくと、下記の通りです。

  • 1367年 左馬頭・正五位下 (義満10歳)
  • 1373年 参議 (義満16歳)
  • 1375年 初御参内、従三位 (義満18歳)
  • 1378年 権大納言、右近衛大将を兼ねる、従二位 (義満21歳)
  • 1380年 従一位 (義満23歳)
  • 1381年 内大臣 (義満24歳)
  • 1382年 左大臣 (義満25歳)
  • 1394年 太政大臣 (義満37歳)

特に右大将になった1378年からわずか5年で左大臣に、そして内大臣から左大臣の間には右大臣という役職がありますが、これを飛び越えています。

義満は朝廷内での存在感を示すため、形、つまり儀式も重要視しましたが、もともと武家の生まれだった義満に公家社会でのそのような知識はありません。

これを支えたのが二条良基です。

二条良基は北朝において天皇の摂政・関白を務めた由緒ある血筋の人物。

このような人物から手ほどきを受けた義満は、そのノウハウを吸収し、朝廷での権力もわがものにしていくのです。

朝廷・公家社会を支配

右近衛大将への任命

義満は元服した後、1378年の21歳の時に右近衛大将という地位に昇格していますが、これは朝廷における護衛隊のトップのような役職で、それゆえに朝廷への出仕が求められます。

この役職は、あの源頼朝も任命されたものですが、鎌倉幕府に身を置く頼朝にとってはその任務を全うすることは物理的に難しかったせいか、頼朝は短期間で辞任しました。

一方の義満はというと、右近衛大将への任命をきっかけに以下の行動を起こしています。

①邸宅を三条坊門から北小路室町に移転

将軍の邸宅というのはそのまま幕府の中心ということでもありますが、この移転には大きく2つの意味が込められていたと考えられています。

  • 内裏へ物理的に近くなる
  • より大きな敷地を有することで、幕府の中心だけでなく、公家としての邸宅として利用できる

この邸宅があった場所が室町と呼ばれていることから、室町時代という名前が付けられていますが、朝廷から距離を取った頼朝と比較すると、義満の行動は真逆ですよね。

二朝に分裂した時代、より朝廷に近い場所に身を置かざるを得なかった幕府が京都にあったのは必然であり、義満の積極的な朝廷への働きかけの表れでもあるのです。

②前代未聞の規模での拝賀を実施

拝賀(はいが)というのは、新しい役職に任命された者がその喜びやお礼の意を表明するために朝廷に参上する儀式のこと。

通常は自分の一族や家来を引き連れて行うのがそれまでの習わしでしたが、義満は幕府の武士の他に、「公卿」(くぎょう)を二十一名も従えたといいます。

公卿というのは三位以上の地位の者で言ってみれば朝廷の中でも上級役人ということです。

拝賀で従えた公卿の中には、その時の義満と同じ権代納言もいたということですので、人数も、引き連れいている人の中身もまさに前代未聞の大がかりなものだったのです。

そして、この拝賀で義満は将軍としてではなく朝廷の臣下として振舞っていることから、幕府の将軍という「力」を朝廷・公家の世界にも無理やり持ち込むことで、公家としての存在感を存分にアピールするすることが狙いだったと考えられています。

内大臣・左大臣でついに朝廷を掌握

このような義満のふるまいは、その位が上がるにつれてますます顕著になりました。

1381年に内大臣になった時には、義満が開いた宴の席に摂関家も従うように指示が出されたのです。

先ほどの右近衛大将の拝賀では摂関家はそもそも義満より位が高いため参列しなかったのですが、義満が内大臣になった時には上下関係も無く力づくでの参加が求められました。

これは、義満に逆らうともはや朝廷内に居場所が無い、ということが浸透していたことを意味します。

そして廷臣たちを従えた義満には、天皇ですらその意向を無下にすることが出来なくなりました。

もともと幕府の将軍たる地位の義満でしたが、朝廷・公家の「外」の制度である武家のトップとしてそれなりの扱いを受けることにとどまらず、その力を利用して朝廷・公家の政治システムの「中」でその力を認めさせたのです。

守護大名の力を削ぐ

こうして義満が朝廷での権力を絶対的なものにするまでの間、北朝と南朝の間の対立は続いていたわけですが、南北朝時代が始まった当初に比べると南朝の勢いも衰えが見え始めていました。

そこで義満が打った次の手が、無理に南朝を攻めるのではなく北朝内における幕府の体制強化でした。

これは守護大名の力を削ぐことで幕府を相対的に優位な立場にすることでもあります。

義満が行った戦略を二つご紹介します。

幕府直属の護衛隊(奉公衆)を組成

それまでの室町幕府というのは、各国を管理・支配する守護大名に支えられており、幕府の軍はそれに従う守護大名の軍から組成されていました。

ですが、これだと守護大名が大きくなりすぎたときに幕府の地位が脅かされるリスクが伴います。

そこで幕府は、守護大名に属さない幕府直属の軍隊を結成したのです。

どうやって幕府直属軍を作ったか。

この直属軍を担ったのは各地の大名の庶子(しょし)と呼ばれる、一族の長の正統な後継者以外の身内の者たちです。

武家の社会では惣領制(そうりょうせい)といって、一族の長を中心とした血縁関係が大事にされましたが、これだと直系の家系以外はいつまでたっても出世することができません。

そこに目をつけた幕府は、惣領以外の庶子を中心とした「番」というチームを作らせ、これに幕府の護衛を任せることで、チーム同士の競争を促すとともに、良い働きをした者には出世の機会を与えるようにしました。

このような幕府直属の軍は奉公衆と呼ばれますが、奉公衆はやがて、幕府の直轄地である「御料所」の代官にも任命されます。

そうして全国各地に奉公衆が配置されることで、守護大名が兵を挙げる時のくさびとしての存在にもなり、これが守護大名への牽制として機能しました。

守護大名の一族同士で内紛を煽り、勢力をそぎ落とす

義満の時代に特にその勢力を伸ばしていたのが、土岐氏と山名氏です。

義満はこれらの守護大名たちの力を削ぐべく、一族内での争いになるように仕向けたり、いちゃもんともいえる言いがかりをつけて討伐の名目を作り上げました。

例えば土岐氏に対しては、土岐頼康(とき よりやす)が死んだ後、惣領を養子だった康行が継いだものの、義満は土地の一部をその弟の満貞に与え、兄弟間の不仲に付け込んだ争いを誘発させます。

その後、義満の思惑通りに兄弟間で紛争が勃発。義満に頼ってきた満貞の訴えを理由に、義満は康行を討伐しました。

山名氏に対しても、詳細は割愛しますが、最終的に幕府に反乱を起こすように仕向け(明徳の乱)、これを幕府軍が鎮圧することで山名氏は没落。

山名氏を制圧した義満は、いよいよ南北朝統一へ向けた最後の一手を打つことになります。

南朝へ和睦の提案を申し入れ

1392年、義満が南朝に申し入れた和睦案は下記のとおり。

  • 以降、両統迭立(大覚寺、持明院両統から天皇を交互に立てる)とする
  • 諸国の国衙領は大覚寺統のものとする
  • 長講堂領は持明院統のものとする

これと引き換えに、義満は三種の神器を北朝の後光松天皇に授けることを求めました。

国衙領や長講堂領というのは天皇などの公領のこと。

南朝からすると、今後も南朝側から天皇が輩出されることになり、その正統性が保証されることが最も大きかったのではないでしょうか。

そもそも勢力も失いつつあった南朝にとって、この内容は魅力的に映ったことは間違いありません。

一方の義満がこだわったのが、三種の神器を獲得することで北朝の正統性を確固たるものにすること。

これまでお話ししてきたように、守護大名を束ねる幕府としてその正統性が明確にあるかどうかというのは大きな違いです。

ここに50年以上を経て南北朝は統一されるに至りました。

南北朝統一後、金閣寺造営まで

ついに念願の南北朝統一を果たした義満のその後も見ていきましょう。

まず1394年に太政大臣に昇りつめています。

それまで義満の朝廷内での位は左大臣でしたが、これは政権の実務をつかさどるトップの役職でした。

一方の太政大臣というのは、実務から離れた名誉職、今風に言えば会長のような存在でしょうか。もちろん左大臣よりも高い位となりますが、朝廷の実務から一線を退いたことになります。

時代の流れでいうと、武家が頭角を現し、朝廷内でその地位を認めさせた最初の人物が平清盛でした。

その後、武家社会により朝廷と幕府という体制の中で、源頼朝は征夷大将軍に任命されています。

そして室町時代に入り、平清盛も源頼朝も無しえなかった太政大臣と征夷大将軍のダブルトップを義満が取ることに。(ただし、太政大臣になる直前、征夷大将軍を息子の義持に委譲)

朝廷と幕府の関係を終えば、この流れもすんなりと理解できますし、太政大臣と征夷大将軍は「公武統一」を成し遂げた証、とも言えますよね。

ところが、太政大臣になったのもつかの間、わずか半年でその地位を手放し、1395年に義満は突如として出家し、「道義」と名乗るようになります。

そして1397年に北山荘の造営に着手し、1399年に金閣が完成。

これまで義満が生きた時代と、義満の南北朝統一、そして金閣造営までの歩みを見てきましたが、これを踏まえて義満が金閣をあのような姿に築き上げた理由を探ります。

【世界遺産】金閣寺はなぜ金色で三層なのか?そこに込められた義満の思想とは?

金閣(舎利殿)
金閣(筆者撮影)

これまでのお話を踏まえて、改めて世界遺産・金閣寺の舎利殿(金閣)を見てみましょう。

創建当時、内装や安置仏も含めて金閣がどのような姿だったのか、明確には分かっていません。

本記事でご紹介する内容はあくまでも現時点の金閣寺から考えた内容ではありますが、世界遺産に登録されていることで「真正性」(創建当時の設計・意匠などが踏襲されており、世界遺産としての価値が損なわれていないこと)が満たされていること、昭和の火災による修復の際には明治時代の解体修復作業の際の図面や古文書等の他、創建当時の姿の研究と合わせて復元がなされたことから、創建当時の姿と大きく変わるものではないとの仮定で記載しております。

なお、記載内容は資料に基づく筆者の見解になりますが、十分な専門知識を有しているわけではありません。

あくまでも本記事を通して皆様の興味や新たな疑問、問いのきっかけになれば幸いです。

三層に込められた意味

金閣(舎利殿)は下から寝殿造、書院造と禅宗様の造りになっています。

寝殿造は貴族の邸宅、書院造は武家屋敷の造りであることから、室町幕府の将軍でありながら朝廷・公家としても実質的な権限を握った義満の「公武統一」を表したもの、というお話は別記事でご紹介した通りです。

ここからもう少し踏み込んでみましょう。

なぜ寝殿造が一番下でその上に書院造、最上階に禅宗様の造りになっているのでしょうか。

武家社会が朝廷や貴族よりも上であることを示し、さらに義満が特に信仰していた禅宗様をその上に、という説もなるほどという気がします。

ですが、これまで見てきた通り、朝廷や公家社会でも実権を握ったとはいえ、内裏の近くに幕府を構え、熱心に拝賀を行った義満から、筆者は朝廷や公家社会に対するある種のリスペクトのようなものを感じ、そこに武家社会との優劣を明確に示す理由が義満にあったのか、少し腑に落ちません。

(一方で、義満が朝廷・公家社会での実権を力の誇示で認めさせたところからすると、武家社会の力がモノをいう時代だったことは否めません。)

筆者は、金閣の構成がまさに義満が南北朝統一を果たした手順を表しているように思えてなりません。

本記事でご紹介したように、まず朝廷・公家で実権を握り(=公家・寝殿造)、その後、守護大名の力を削いで幕府の地位を盤石なものにし(=武家・書院造)、最後には自ら出家する-(=禅宗)。

そして、この順序は義満の支配哲学そのもののように思います。

つまり、朝廷や公家という後ろ盾を持つことで正統性を有することが武家社会における存在基盤にもなり、この基盤があることで武家社会においても守護大名を統率する存在になり得る。そして、その高みを目指すために禅宗の精神が求められる。

南北朝統一をという成功体験を果たした義満は、そのような支配哲学を金閣に込めたのではないでしょうか。

そう考えると、金閣の三層はその上下関係が優劣を表しているのではなく、三つが揃って初めて一つの完成形となることを示しているように思うのです。

なぜ金閣には金箔が塗られているのか?

続いて、金閣に金箔が塗られている理由についても考えてみたいと思います。

南北朝統一を果たした義満が、その権威と強大な力を国内だけでなく、当時勘合貿易を行っていた明に対しても見せつけるため、というのも一つの理由でしょう。

ここで、金閣をよく見ると、金箔が塗られているのは二層目と三層目で一層目には金箔が塗られていません。

さらに、内部を確認することはできませんが、金閣寺で公開されている写真では三層目に関しては内部の壁にも金箔が塗られています。

つまり、

一層目:金箔無し
二層目:外壁のみ金箔
三層目:外壁+内壁にも金箔

ということで、金箔の塗られたかも層によってすべて異なっているということです。

金で施された寺社で思い浮かぶのが、同じ世界遺産である平泉の中尊寺金色堂。

中尊寺金色堂の内部が金で埋め尽くされているのは、この地に極楽浄土の世界を再現したかったという藤原清衡(ふじわら きよひら)の「願い」ともいえる浄土信仰のためと考えられています。

つまり、「金」は極楽浄土を表すシンボルでもあり、遥か56億7千万年後に弥勒菩薩が下生してこの世を救済してくださるまで、色あせることの無い不変の表れともいえるでしょう。

そう考えると、金閣の三層が内部も含めて金で覆われているのは、金閣寺が極楽浄土の世界を表現したもの、という説にもつながるものがあります。

断定はできませんが、三層が禅宗様であることを踏まえても金の装飾は仏教上の信仰に基づくものと考えて良いのではないでしょうか。

ここで逆算的に考えてみたいと思います。

三層の造りがすべて異なっていることを考えると、それぞれの金の装飾も異なっている必要があり、三層目が外部と内部の装飾とするならば、二層目は外部のみ、そして初層は装飾無しとして区別をつけたということは十分に考えられます。

さらに、それぞれの層に置かれた仏像にも注目してみましょう。

初層には釈迦如来、二層には観音像、そして三層に仏舎利が安置されています。

釈迦如来はお釈迦様が如来の姿になったもので、「過去」の仏様、観音像は観音菩薩で「現在」の菩薩、そして仏舎利は弥勒信仰として遠い「未来」における救済をつなぐもの。

そう考えると初層、二層、三層とも過去、現在、未来を表しており、そのすべてにおいて仏による救済が行われることを表していると考えられます。

ここでも三層の関係は優劣ではなく、並列関係であり過去・現在・未来のすべてを救済することで一つの完成形ともいえますよね。

さらに、遠い未来の浄土世界を目指すのだとすればその順序は過去→現在→未来であり、それに従って金箔の装飾も増えていく、というのはさすがに空想が過ぎるでしょうか。

建築様式(寝殿造・書院造・禅様)においても、仏教観(過去・現在・未来)においても金閣の三層は世界(現世と信仰)における完成された理想の形を示しており、それを義満は見下ろす立場にいる、筆者はそんな情景が浮かんできました。

初層に義満座像が置かれている謎

これまでご紹介してきた私なりの説ですが、金閣の初層には義満座像が安置されています。

この座像がいつ頃置かれたものなのか確認はできていませんし、創建当時から置かれていたのか、義満の死後に置かれたものなのかによっても意味合いが変わってくるように思います。

将軍、太政大臣、そして出家僧と様々な「顔」を持つ義満ですので、出家して金閣を創建した当時は単に公家としての義満を寝殿造に置いただけなのか、釈迦如来像と横並びで置かれているというお話は別記事でしましたが、三層の基盤に置くことで「世界の平和・秩序・均衡を支える存在」という意味が込められているのか。

皆さまはどう思われますか?

義満にとっての金閣とは何だったのか

最後に、なぜ義満は金閣を造営しようと思ったのか、についても考えてみたいと思います。

この記事で義満の歩んできた道をダイジェストでご紹介してきましたが、皆様は義満に対してどんなイメージをお持ちになりましたでしょうか。

朝廷や公家をも支配し、守護大名の勢力を削ぐために手段を選ばないなど時には冷徹非道とも言える行いも躊躇せず、強靭な意思のもと頂点まで昇りつめる姿は、生まれながら「上に立つ者」であり今でいうカリスマ性に満ちたものだと筆者は思います。

義満は最終的には征夷大将軍も太政大臣も辞して、出家して花の御所から金閣の北山荘に移りますが、北山荘に移った後も実権を握り続けました。

今の金閣寺がある場所は「洛北」と呼ばれる地域であり、「京の外」のエリアです。

征夷大将軍や太政大臣という「現世」の地位から離れ、また地理的にも京から離れたものの、実権は握り続けたということは、義満が新たな段階に移ったことの表れでしょう。

出家もしているため、朝廷・公家を支配した次の段階として、宗教や信仰世界でも新たな地位を築こうとしたのではないか、という説もあるようですが、皆様はどう思われますか?

本記事で詳しく紹介していませんが、明との勘合貿易では日本国王を名乗り、一方で能や田楽(狂)、さらには水墨画といった文化も愛した義満。

そんな何もかも規格外の人物が最後に築き上げた金閣にどんな思いが込められているのか、ぜひ皆さんのご意見も聞かせてください!

もし世界遺産・金閣寺についてご紹介したこちらの記事をまだお読みでない方は、こちらもご一読ください。

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(参考:「南北朝 日本史初の全国的大乱の幕開け」 林屋 辰三郎 朝日新書、「室町の覇者 足利義満 -朝廷と幕府はいかに統一されたか₋」 桃崎 有一郎 ちくま新書、「将軍の鯰」 吉野 光 作品社、「足利義満」 森 茂暁 角川選書)

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