世界遺産の楽しみ方

【世界遺産】アンコール遺跡を100倍楽しむための基礎知識5選

アンコール・ワットやアンコール・トムで有名なカンボジアの世界遺産、アンコール遺跡。
残された遺跡はもともと誰がどのような目的で造り、また当時の社会はどのようなものだったのか。世界遺産アンコール遺跡の歴史、宗教、王政など、これを読めば、有名なアンコール・ワット、アンコール・トムを含む世界遺産アンコール遺跡をより楽しむことができます!

1.【世界遺産】アンコール遺跡の概要

カンボジアに3つある世界遺産のうち、1992年に登録されたのがアンコール・ワットやアンコール・トムで有名な「アンコール」です。

この世界遺産はカンボジアのシェムリアップ州に広く散在しているアンコール王朝時代に築かれた遺跡群が登録の対象となっており、主要な遺跡だけでも60以上にも及びます。
そして、このクメール人が築いたアンコール王朝が現在のカンボジア王国の始まりとされており、カンボジアの国旗にもアンコール・ワットが描かれているなど、アンコール遺跡はカンボジア人(=クメール人)にとってのアイデンティティと言えるでしょう。

アンコール遺跡として残されている遺跡は、カンボジアにおいてアンコール王朝による統治がなされていた800年代初頭から1400年頃までのおよそ600年の間に築かれたものであり、アンコール王朝の政治や文化、宗教や庶民の暮らしぶりを今に伝える重要な遺跡となっています。

世界遺産のアンコール・ワットやアンコール・トムはもちろん、アンコール遺跡を知るためには、まずこの遺跡を築いたアンコール王朝とこの王朝が反映した時代を知ることが一番の近道です。
まずこのアンコール王朝を含めるカンボジアの歴史をざっとご紹介しましょう。

2.【世界遺産】アンコール遺跡とカンボジアの歴史

カンボジアの歴史区分と特色

現在のカンボジアやシェムリアップがある東南アジアでは紀元前からすでに人々の暮らしが始まっていたと考えられており、日本では中国大陸から稲作をはじめとする様々な技術や文化が持ち込まれたのと同じように、東南アジアでは隣接するインドや中国からの伝来によって文明が発達していきました。

そんな東南アジアの歴史を知る上で押さえておきたい特色を4つお話しします。

①インド洋と太平洋をつなぐ海洋上の航路であり、人々の交易により都市が発達

世界地図を広げるとお分かり頂ける通り、古くから文明の発達したインドや中国、そしてローマといった国々が交易をする上で、東南アジアは陸路においても航路においても太平洋とインド洋をつなぐ重要な要となる地域です。

日本でいうところの弥生時代、この地に成立していたとみられる扶南国(ふなんこく)にオケオという主要な港町があり、この遺跡から当時の交易物が発掘されています。

②金・香料や原料の産地としての魅力

このような古くからの交易ルートによって、人々が行き来することでそれぞれの文化や特産物が取引されていたのはもちろんですが、東南アジア自体も金や香料といった原料が豊富に産出される地域でした。

③インドや中国の文化を早くから受容し、それを地域の社会や文化になじませてきた

特にインドと中国に挟まれた東南アジアにおいては、両国の文化や技術が持ち込まれ、それらを自分たちの地域社会になじむ形で取り込むことで独自の社会が築かれていました。

また、ヒンドゥー教や仏教も当然にカンボジアを含む東南アジアに伝来され、アンコール遺跡を築いたアンコール王朝においてヒンドゥー教は、その信仰世界を王政に結び付けて統治がされていたなど、重要な役割を果たしていました。

④各地域で固有の文化や価値観が生まれる基盤となった。

最後に、日本同様、東南アジアやアンコール王朝においても社会経済の基盤となっていたのは稲作でした。モンスーン気候で豊かな自然に恵まれていたことから、稲作により食糧確保が安定してくると、この地では古くから外との交易に頼ることなく自給自足の生活が可能だったのです。

これにより、それぞれの集落で独自の慣習や価値観が生まれることにもなりました。

次に、アンコール王朝を含むカンボジアの歴史をざっといくつかの時代に区分して概要をご紹介します。

新石器時代~青銅器時代(紀元前1500~500)

鉱山で銅が採掘され、青銅を製造する技術が中国から東南アジアへと広がりました。
ただ、この頃の銅の生産はそれまで稲作を行っていた集落が稲作の閑散期に行っており、まだはっきりとした貧富の差は生まれていなかったとみられています。
集落の規模も引き続き小さいままで、ほとんどの集落遺跡が数ヘクタール、また埋葬された人の周りには銅製のバンドルや土器などが納めれていましたが、これは村落の豊かさによって多少の違いがあったようです。

鉄器時代(紀元前500~150)

鉄の精製により、人々の生活レベルは飛躍的に向上し、鉄は装飾品や戦の道具だけでなく、農作の道具としても用いられるようになり農業の生産性が向上しました。これにより集落の規模も拡大し、50ヘクタール、数百人規模まで膨れ上がったと考えられています。

また、規模が大きくなったことで社会的な地位の上下が複雑になり、埋葬品を見ても位の違いによって埋葬物が異なるようになりました。
なお、集落の巨大化が進んだものの、異なる集落でも埋葬の方法は粘土で作られた棺に埋葬されるなどの共通点が見られるようになったことから、慣習は地域を超えて広がっていたとのでしょう。

この頃から他の集落との戦や海路での貿易も行われるようになったと考えられています。

扶南国(Funan/ふなんこく)(~550)

2世紀から6世紀にかけて、メコン川流域に当時栄えていた地域で扶南という国、もしくは集合体の存在が分かっています。
Kang Tai(康泰)とZhu Ying(朱應)が中国の三国時代に呉より派遣された報告によると、扶南国では木造の家々が立ち並び、埋葬用の装飾品が作られ、稲作はもちろん、金や銀、真珠といった宝石類には税が課されていたそうです。
さらに、法的な制度も整備されていて法を犯した者には罰が与えられていたなど、社会国家としての形成が見られ始めたのがこの頃と考えて良いでしょう。扶南国は226年から649年まで、中国へ少なくとも25回以上使者を派遣しており、金銀銅のほか珍しい特産品を献上していたことも分かっています。

真臘国(Chenla/しんろうこく)(550~802)

扶南国では徐々に力を付けた権力者が現れ、それぞれが覇権を争うようになりました。そして6世紀後半、クメール人と思われるBhavavarman1世(ヴァヴァヴァルマン1世)の統治する国の都市、Bhavapuraが資料に登場します。もともと真臘国は扶南国の一部であったと考えられており、そこから徐々に頭角を現したクメール人が勢力を拡大していったのです。

この時代は前アンコール時代とも呼ばれており、このBhavavarman1世(ヴァヴァヴァルマン1世)の弟の息子、Isanavarman1世(イシャナヴァルマン1世)も、この時代に続いた覇権争いから頭角を現し、再び地域を統一し、Ishanapuraという都市(現在のサンボー・プレイ・クック)を築いたとされています。

アンコール遺跡を築いたクメール人たちが歴史上、名前を残し始めたこの前アンコール時代でした。この時代の社会の特色をいくつかご紹介しておきます。

①インド文化から伝来したサンスクリット語を用いた石碑が作られるようになった

もともとこの地に住むクメール人たちが用いていたクメール語が存在していましたが、特にヒンドゥー教における神への奉納など神聖な記録にはサンスクリット語が用いられていました。

②中央集権がありつつも、一定の地方独立政権も存続

ある程度中央で実権を握る政権が誕生した一方で、王は地方にある程度の権限を持たせて地方の統治に当たらせました。
仕組みとしては、王が土地の区分や所有権を割り当て、各地に寺院や農作地などを作らせます。このころすでに寺院の祭司や農作業員、地方管理者などの役割と職位が定められており、それぞれの身分の者が与えられた役割を通じて地域社会が成立していたのです。

その中でも、寺院管理者には寺院のための一定の土地が割り当てられたり、祭祀や寺院運営のために米などの租税が免除されるなど、ある程度の優遇がなされていました。
寺院を含めて地方を管轄していた管理者は、稲作を通じて独立した経済基盤を作ることができ、一定の農作物や生産品を中央政権へ寄進するとともに、労働力を軍隊としても中央政権に献上していました。

ですが、このような一定の独立政権が地方に許されていたことで、力をつける者が現れ、真臘国も覇権争いで分裂の時代に突入していくことになります。

アンコール王朝(802~1431年頃)

コー・ケー遺跡

独立志向の強い地域政権が誕生すると領地を拡大すべく、国内で分裂が始まり覇権争いの時代へ突入しました。
長年にわたる争いの後、これを統一に導いたのがJayavarmanⅡ世(ジャヤヴァルマン2世)でした。はJayavarmanⅡ世は当時のジャワ人(東南アジア海域)の支配からカンボジアを解放し、現在のプノン・クレーン丘陵で王位を宣誓、ここにカンボジア王国の前身となるアンコール王朝が誕生しました。
ここから約600年に渡ってアンコール王朝がカンボジア一帯を統治するのですが、特に繁栄を極めたのが、アンコール・ワットを築いたSuryavarmanⅡ(スールヤヴァルマン2世)とアンコール・トム(ベイヨン寺院)を築いたJayavarmanⅦ(ジャヤヴァルマン7世)でした。

SuryavarmanⅡ(スールヤヴァルマン2世)とアンコール・ワット

日の出前のアンコール・ワット

自らの叔父にあたるDharanindravarmanⅠ(ダラニンドラヴァルマン1世)との覇権争いの末、勝利したSuryavarmanⅡ世(スールヤヴァルマン2世)はバラモン司祭のDivakarapandita(ディヴァーカラパンディダ)により正式に王位の座を称されました。そして、新しい都城と宮殿の建築に取り掛かり、この中心的な寺院として建築されたのがあのアンコール・ワットです。

その広さは南北に1300メートル東西に1500メートルで寺院の周りを200メートルの環濠が囲む壮大なものであり、アンコール・ワットはアンコール遺跡の中で最も高い伽藍を誇っていることからも、この遺跡が当時の建築技術を終結して造られたことが分かります。またこれだけの大きな伽藍の創建には30年余りに渡って莫大な労働力が投入され、これだけの労働力の確保はもちろん、それを支えるだけの安定した食糧基盤があったこと、そしてそれだけの人員を投入できたSuryavarmanⅡ世の強力な権力とアンコール王朝の強大さが伺えます。

アンコール・ワットの回廊壁画

このアンコール・ワットが歴代のクメール王朝が築いてきたような、SuryavarmanⅡ世による治世の中心寺院としてか、はたまたSuryavarmanⅡ世の墳墓として造られたのか、明確な結論は出ていません。
ですが、中央にそびえ立つ5つの尖塔はヒンドゥー教にも見られる世界の中心にそびえる聖山、須弥山(しゅみせん)を、周りを囲む環濠はその周りに広がる大海を具現化したものであり、アンコール・ワットがビシュヌ神を祀ったものであることは確かなことから、いずれにしてもSuryavarmanⅡ世の神聖さと絶大な力を誇示する者であることは間違いないでしょう。

SuryavarmanⅡ世は積極的に領地の拡大を進めるため、隣国への侵攻を続け、当時東の隣国だったチャンパ国(今のベトナムの一部)を手中に収め、さらに中国との国交を始めるました。また、西隣の現在のタイの中部にまで攻め込むなど、その勢力はインドシナ半島全域に及んでいたと言われています。

Jayavarman7世(ジャヤヴァルマン7世)とバイヨン寺院

アンコール・トム(バイヨン寺院)

SuryavarmanⅡ世(スールヤヴァルマン2世)亡き後、支配していたチャンパ国が反乱を起こし、一時アンコール・ワットはチャンパ国の手中に落ちてしまいました。

このように中国との国交開始からくすぶっていた隣国のチャンパ国との戦いに打ち勝ち、再びカンボジアにアンコール王朝を築き上げたのが、アンコール・トムの中心寺院、バイヨン寺院を創建したJayavarman7世(ジャヤヴァルマン7世)です。このJayavarman7世の頃、アンコール王朝が最も繁栄した時代であり、その領地は北はラオス南部、東はタイの中部にまで及んでいたと考えられています。
そのJayavarman7世が造り上げたアンコール・トムのバイヨン寺院は、まさにアンコール王朝の建築、彫刻における最高傑作と言えるでしょう。

バイヨン寺院の四面尊顔塔

JayavarmanⅦ世についてまずお話すべきなのが、アンコール王朝始まって以来の仏教徒王であったこと。バイヨン寺院のあの有名な四面尊顔塔に描かれた大きなお顔は、観世音菩薩像の姿であり、この寺院の中央祠堂地下から座仏像が発見されたことからも、バイヨン寺院が仏教寺院であることが分かっています。

このバイヨン寺院のもう1つの特徴として、アンコール・ワットと同様、寺院を取り巻くように壁面に彫刻が描かれていますが、その中にはJayavarmanⅦ世とチャンパ国との戦いのほか、庶民の生活も描かれていることが挙げられます。
これまでの王と異なり、JayavarmanⅦ世はチャンパ国から再びアンコール王朝を取り戻したいわば苦労人です。この苦い経験から、JayavarmanⅦ世はアンコール・トムの都城の造営に当たって、単に神聖な世界観の表現だけでなく、外部の敵からの防御機能を備えたより機能的な都城の設計をしています。

JayavarmanⅦ世は仏教徒でしたが、仏教とヒンドゥー教は全く異なる宗教ではありません。JayavarmanⅦ世はそんなヒンドゥー教と仏教を織り交ぜることで、アンコール・トムをそれまでのアンコール王朝の都城からさらに発展させ、新しい神の世界をこの世に造ることで絶対的な力だけでなく、長く続く繁栄を平和を祈ったのではないでしょうか。

このJayavarmanⅦ世は仏教徒ということもあり、その王政には慈悲が込められていました。王国には高度なヘルスケアシステムが備わっており、旅人が休息をとることができる宿所の他、なんと102もの病院が建設、運営されていたと記録されています。

アンコール王朝の滅亡

この後14世紀に現在のタイでアユタヤ王朝が発足すると、15世紀前半、タイよりシャム軍が侵攻し、アンコール王朝は陥落することになり、ここに600年続いたアンコール王朝は幕を下ろしたのです。

これが一般的に考えられている通説ですが、近年の研究調査でアンコール王朝の滅亡にはアユタヤ朝による侵攻以外にも、その勢力を衰退させたいくつかの要因があったのではないかと考えられています。
アンコール王朝の滅亡の謎に関しては、こちらの記事で詳しくご紹介しています!

3.【世界遺産】アンコール遺跡と宗教

先ほどお話ししたように、東南アジアでは古くからインドよりヒンドゥー教と仏教が伝来していましたが、特にアンコール王朝をはじめとしてこの地に住む人々が最初に信仰したのはヒンドゥー教でした。

なぜ仏教ではなかったのか?理由ははっきり分かりませんが、もともと豊かな自然の恵みに寄り添って生活をしていた人々にとっては、自然神に対する考え方に親近感を持っており、そのような信仰との相性が良かった、また稲作やモンスーン気候において「水」は人々の命を支える重要な存在であり、河川崇拝が特徴のヒンドゥー教は相容れる存在だったとも考えられます。

アンコール王朝とヒンドゥー教

アンコール遺跡を訪れた方はお分かりかと思いますが、アンコール遺跡はほとんどがヒンドゥー教寺院や菩提寺院であるため、ヒンドゥー教の神の彫刻やリンガ(男根)、入海攪拌といったヒンドゥー教上の神話場面を描いた石像が数多く残されています。

これだけを見るとアンコール遺跡は巨大な宗教寺院遺跡と思われるかもしれませんが、当時、これらの寺院は都市の中心部に造られ、当然そこには多くの庶民が生活をしていました。

ですが、これらの寺院が石造だったのに対し、庶民が住む家や施設の多くは木造だったこともあり、家々や施設は歴史の長い時の中で腐食が進み無くなってしまい、現在ではその跡形さえ見ることができません。

話がそれてしまいましたが、アンコール王朝で歴代の王が自身の都の中央に大掛かりな寺院を建設したのには当然理由があります。
それは、巨大な国を統治する身分として、自分を人格化し、神々と通じて人々を支配する現人神という存在を世に知らしめるためです。

特にアンコール王朝においては絶対神としてシヴァ神信仰が主流となっていましたが、歴代の王は自分とシヴァ神との関係を強調することで人々の信仰を集め、統治をおこなっていました。
先ほどの歴史でも少しお話ししましたが、前アンコール時代からアンコール王朝にかけて、中央政権の実権がより強固になったとはいえ、やはり地方に中央政権のコントロールを行き渡らせることには限界があります。そこで、人々が当時信仰していた神と国王を同一視させることで、この弱点を補完していたのではないでしょうか。
このことからも、ヒンドゥー教はアンコール王朝の存続上欠かせない存在であり、その信仰を中央政権から遠く離れた地方にまで浸透させるために、寺院を地方に建設することはとても重要でした。

このような神と王を同等のものとして一緒に祀り上げるいわば「祭政一致」がアンコール王朝統治の1つのキーワードと言えるでしょう。

アンコール王朝の地理的なヒミツ

600年も続いたアンコール王朝で、その都城は幾度か場所を変えていますが、おおむね現在のシェムリアップ州の中にとどまっています。

実はこの地理にも、ヒンドゥー教と関わる理由があるのです。

地図を見るとお分かり頂けるかと思いますが、シェムリアップにはトンレサップ湖という大きな湖と、そこからシェムリアップに向かってシェムリアップ川が流れていて、その北側にはプノン・クーレン丘陵がそびえたっています。

そうです、ここにもヒンドゥー教に見られる須弥山(プノン・クーレン丘陵)とそこから大海(トンレサップ湖)に流れる水(シェムリアップ川)が存在しているのです。
当時の人々からすれば、信仰の世界が実現する場所と言えますよね。

アンコール王朝は、その地理までも踏まえて王朝の都を設計していたのです。

4【世界遺産】アンコール遺跡とアンコール王朝

アンコール・トム、バイヨン寺院の回廊壁画

王位継承の特徴

先ほどご紹介した通り、ヒンドゥー教を通じた「現人神」であるアンコール王朝の王は、日本の歴史上の天皇をイメージすると少し分かりやすいかもしれません。ですが、日本の天皇とアンコール王朝の王では決定的に異なる特徴が1つあります。それは、日本の天皇が代々血縁を前提とした継承で続いているのに対し、アンコール王朝の歴代の王は、むしろ血縁による継承が少ないこと。

アンコール朝を築いたJayavarmanⅡ世から最終的に15世紀に王朝が滅ぶまで、実に26の王が即位を行いましたが、このうち血縁関係による承継は10もありません。王が滅ぶと、次の王座をめぐる争奪戦が繰り広げられ、最終的に勝ち残った者が晴れて王として即位する仕組みが圧倒的に多かったのです。

このように純粋な覇権争いに勝利することでしか王の座を得られないとすれば、歴代の王たちはそうした過酷な争いに勝利した強者ぞろいだったのでしょう。

ですが、晴れて王位についたとしてもここで1つの問題が発生します。それは、血縁関係によらない新しい王の即位を正当化するための説明が難しいこと。庶民にしてみれば、新しい王は当然偉大で、王になるにふさわしい正当な血筋を持った者であるとの期待を持っていますし、王にしてみても、これから広大な国土を統治するにあたって、自分が由緒ある出の者でなければ民衆が従いません。

そこで、王宮にて政権を取りまとめる官民たちは、半ば強引に王の系譜を作り上げたのです。このため、アンコール王朝の歴代の王の中には、はっきりとした出身が分かっていない王もいます。

広大な遺跡に残る多くの王都

さらに、新しく王になった者は、自分こそが神々と通じてその意思を民に伝え、現世を統一する絶対王であることを示すため、その即位する場所にもこだわります。当然、これまで国王が都城として使っていた場所を「再利用」することはできません。なぜなら、そうすると自分が歴代の国王に劣ってしまうと示してしまうことになるからです。このため、神と「意思疎通」する場としてふさわしい場所を選び、そこに新しく都城と建設し、中央に大掛かりな寺院を建設したのです。

現在アンコール遺跡に残されている遺跡も、実はこのようにして歴代の王たちが場所を変え、都を変えてそこに一から築き上げた寺院や、自分の父母を祀った菩提寺院の跡なのです。

5【世界遺産】アンコール遺跡を支える「水」と「米」

約600年もの間、今のカンボジアを中心として広大な王国を築いたアンコール王朝。その長きにわたる王朝を築く土台として欠かせなかったのが、安定した食糧を確保することでした。

これは日本史においても同じですが、国力の安定の基盤となったのは「米」を生産する稲作でした。

特にモンスーン気候で乾季(11月~4月)と雨季(5月~10月)がはっきりしている東南アジア地域においては、それに合わせた稲作が行われてきました。

アンコール遺跡には「バライ」と呼ばれる貯水池の跡がいくつか残されており、最も大きな西バライは現在も活用されています。このバライの建設により、雨季に水を貯め、乾季にその水を利用して稲作を行うことで、年中安定して稲作を行うことが可能になり、一気に国力が増幅しました。

アンコール王朝を支えた「バライ」の謎

果たして、アンコール王朝はこのバライと高度に発達した灌漑技術で水をコントロールし、安定的なコメの生産を実現していたのでしょうか。実は、「バライ」が灌漑のために造営されたと明確に記した碑文が見つかっていないため、「バライ」の建設目的に関しては意見が分かれています。

①王が中心となって大規模な灌漑技術を使い、水源をコントロールすることで、年に何回か米の稲作を行うことができた。

②大規模な灌漑技術は無く、地域によって異なる気候をうまく利用して地域ごとの稲作をコントロールしていた。

灌漑技術を持ち合わせていなかったと主張している学者たちは、「バライ」はあくまでもクメール王朝における信仰世界を具現化したもの、つまり、神々の須弥山の周りに広がる大海を表しているのではないか、と考えているのです。

これまで、ヒンドゥー教の信仰とアンコール王朝の王政や、歴代の王たちが築き上げた寺院を考えると、この説にもある程度の説得力があるように思います。

アンコール王朝は最終的に現在のタイのアユタヤ軍(シャム軍)の侵攻により陥落してしまいますが、この陥落の背景として、長年にわたる対外的な争いで国が疲弊していた、という説のほか、国力の基盤である稲作が機能しなくなったことも一説として考えられており、「バライ」がアンコール王朝においてどのような役割を担っていたのかは、アンコール王朝の滅亡とも絡む重要なポイントです。

 

いかがでしたでしょうか。

少しでもアンコール遺跡を築いたアンコール王朝の姿と、そこで歴代の王たちによって行われてきた政治や社会が身近な存在として伝わりましたら幸いです。

 

(参考:「The Civilization of ANGKOR」Charles Higham、「アンコール・ワットへの道」石澤 良昭 JTBパブリッシング、「アンコール・ワット」石澤 良昭 講談社現代新書)

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