世界遺産の楽しみ方

「清水の舞台から飛び降りる」は本当にあった!?【世界遺産】京都・清水寺を100倍楽しむためのマメ知識5選

京都の世界遺産の1つ、「清水の舞台」でも有名な清水寺。京都において最も有名で人気のある観光スポットの1つでもある清水寺の歴史は古く、昔から広く庶民に愛されたお寺でもあります。
世界遺産の清水寺がいつ、どのように創建されたのか、なぜ「清水の舞台」は造られたのか、など、意外と知られていないそのヒミツと魅力に迫ります!

【世界遺産】京都・清水寺の創建と坂上田村麻呂

清水寺の創建

世界遺産、清水寺の歴史は古く、その創建は778年とされています。
平安京への遷都が794年ですから、平安京よりも前にすでにその存在があったと思うと少しびっくりですよね。

清水寺を創建したとされるのが、延鎮(えんちん)という高僧です。
この僧は760年、孝謙天皇(こうけんてんのう)の勅願により報恩大師という高僧が奈良に子島寺(こじまでら)を創建するのですが、このお寺で報恩大師(ほうおんだいし)の高弟として修行に励んでいた人物です。

ある日、この延鎮が不思議な夢(霊夢)を見ました。それは京都・大阪を流れる淀川に一筋の金色に光る水の道が続いているというもの。

この夢に導かれて延鎮が淀川を流れる一筋の金色の水をたどっていくと、ついには京都東山の音羽の瀧へと至ります。
するとそこに行叡(ぎょえい)なる仙人がいて、ずっと延鎮を待っていたとのこと。

「観音力を封じた霊木を授けるから、これに観音像を刻み、我が草庵を汝(なんじ)の住まいとし、この草庵に観音像を祀り、寺を開け」

行叡は延鎮にこの言葉だけ託し、この地を彼に引き渡すと言ってどこへともなく去って行ったのです。

行叡の言いつけ通り木で観音像を作り、草庵(現在の奥の院)に観音像をお祀りしたのが清水寺の始まりとされています。

清水寺と坂上田村麻呂

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)。

この名前をご存じの方は多いのではないでしょうか。日本史では征夷代将軍として任命されたことでもよく紹介されていますが、この坂上田村麻呂が清水寺と深い関係にあることはあまり知られていないようです。

なぜ坂上田村麻呂が清水寺と関係しているのか。ここにもある出来事が言い伝えられています。

延鎮が草庵に観音様をお祀りして修行に励むこと2年、780年の時、坂上田村麻呂の妻、三善高子(みよしのたかこ)は子どもを身ごもっていたのですが、どういうわけか妊娠してから12、13か月が経っても一向に子どもが生まれてくる気配がありません。

妻の安産祈願のため、坂上田村麻呂は鹿狩りに出ていたところ、修行を積んでいた延鎮と出会います。
田村麻呂の話を聞いた延鎮は、子どもが生まれようとしているのに命の殺生は良くない、と鹿狩りを止めるように諫め、さらに観音様に一心に祈願することを勧めました。

延鎮に言われた通り、坂上田村麻呂は鹿狩りを止めて殺めてしまった鹿を丁重に葬り、観音様を一心に信じたところ、15か月目にして無事に子どもが生まれたのです。坂上田村麻呂はその後、798年に自らの屋敷を寄進し、延鎮が観音様をお祀りしている草庵に堂舎を創建しました。

ちなみに清水寺を訪れたことがある方はイメージされやすいと思いますが、「清水の舞台」がある清水寺は実は崖の上に立っているお寺であり、その足場は平たんな場所ではありません。
坂上田村麻呂が堂舎を寄進した時、丁重に葬った鹿がその恩に報いるため、どこからともなく鹿の大群を引き連れて東山の山中を駆け回ってあっという間に山の斜面を平らにしていったという伝説が残されています。

このエピソードから清水寺は女人の観音信仰のお寺として有名になり、境内には安産祈願のための泰産寺(子安塔)もあります。

阿弖流為(アテルイ)の悲劇

先ほどご紹介した通り、坂上田村麻呂は征夷大将軍として活躍した人物です。では「征夷大将軍」とはどのような任務を負う役職でしょうか。

「征夷」というのは「蝦夷」(えみし)を討伐するという意味なのですが、「蝦夷」というのは当時政治の中心があった奈良・京都から遠く離れた「みちのく」である東北(奥州)を支配していた一族を指す言葉です。

当時は都から遠く離れている、ということで奥州に対する偏見や差別もあったと言われていますが、朝廷にとってはこの地も平定して初めて安定した政治支配が実現するとして、この地の平定のために「征夷大将軍」に任命されたのが坂上田村麻呂だったのです。

坂上田村麻呂は最初は奥州の平定に苦戦するものの、最終的にはこの地を治めていた阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)を説得し、この地を朝廷の支配下に置くことに両者を納得させます。
そして、この二人を連れて京都に帰還し、天皇の前で服従を誓わせたのですが、これが悲劇を生む結果となってしまいます。

坂上田村麻呂としては服従を誓わせた後、アテルイとモレの二人を奥州に帰し、両者の下で和平的な共存を考えていたのですが、都の重臣たちはこれに猛反発。
いつ朝廷を裏切るか分からないということで、アテルイとモレは河内杜山で首をはねられてしまいました。

清水寺を訪れると、写真のようなアテルイとモレの名前が彫刻された石碑が置かれているのですが、これはこのエピソードによるせめてもの二人への鎮魂の祈りを捧げたものと言えるでしょう。

【世界遺産】京都・清水寺が歩んだ苦難の歴史

歴史ある寺院の中で、今日に至るまで何事もなく安泰に生き延びてきた寺院というのはほぼ皆無でしょう。多くの寺院がその長い歴史の中で度重なる災害や苦難の連続に打ち勝ってきたのであり、清水寺も例外ではありませんでした。

平安時代から庶民の厚い信仰を受けていた清水寺の周りにはたくさんの民家が立ち並んでいたのですが、これは逆に民家から火が出ると清水寺にも簡単に燃え移ってしまう危険性と隣り合わせでもあります。
実際に、清水寺は平安から鎌倉にかけて8回もの火事に見舞われたと言われています。

その後も争いや失火による火災にたびたび見舞われた清水寺。ここでは火災に限らず、世界遺産・清水寺がたどってきた苦難の歴史の一部をご紹介します。

延暦寺との抗争

先ほど、平安時代において清水寺は朝廷より「鎮護国家之道場」として正式にお寺としての運営を認められたことをご紹介しましたが、その後、清水寺は奈良の世界遺産・興福寺の末寺となり法相宗の寺院としてその運営を行っていくことになります。

この興福寺の末寺という存在と清水寺が位置する地理的な事情により、清水寺は延暦寺との間でたびたび抗争が勃発しました。
どういうことでしょうか。詳しくお話ししましょう。

もともと世界遺産・延暦寺を開いた最澄は、南都六宗の権力争いなどの腐敗に幻滅し、新しい教義の場を求めて比叡山に延暦寺を興しました。このこともあり、南都六宗の一角である興福寺の末寺であった清水寺に良い印象を持っていなかったのです。

実際に桓武天皇が平安京に遷都したこと、そして平安京でもお寺の乱立を認めずに厳しく取り締まったことは、奈良の平城京において仏教が政治と強く結びつきすぎて、いろいろな問題が勃発した苦い経験から来ています。

桓武天皇は、比較的考えが近い最澄を厚く保護したわけですが、これには延暦寺が平安京にとって鬼門となる北東に位置していたこともあります。

一方の興福寺も、清水寺を通じてあわよくば京の都への足掛かりや、情報収集を行う目的を持っていた事でしょう。

加えて、清水寺が平安京から東海道に及ぶ交通の要所にあったこともあり、比叡山・京の都・奈良を結ぶ上で清水寺は地理的な重要な意味合いを持っていました。

この両者のにらみ合いから抗争に発展することも珍しくなく、清水寺は時には城郭という堅固な防御機能を築くこともあったと言われています。

応仁の乱

他の京都の多くの寺社同様、清水寺も応仁の乱の戦火によって荒廃してしまい、時代が時代だけに、もはや権力者の善政による立て直しも困難な危機に陥りました。

この清水寺のピンチを救ったのが、願阿弥という一向宗(時宗)の僧でした。彼は全国を行脚して勧進、つまり寄付を募り、見事に清水寺の再興に貢献したのです。

もともと歩いたり踊りながら念仏を唱えて各地を回る時宗は、一大ボランティア集団としての社会的役割も担っており、願阿弥もその時宗の僧であったことから、民衆はもちろん、幕府や朝廷からの信頼も厚いものがありました。

ですが、応仁の乱で荒廃したお寺は数知れず。なぜ願阿弥はその中から清水寺の復興に尽力しようと思ったのでしょうか。

これは1つの仮説でしかありませんが、清水寺が観音信仰の聖地であり、特に貧民や賤民を含む民衆にとっての拠り所になっていたことが大きいでしょう。

清水寺は広く庶民からの信仰を集め、その周りに民家も多く立ち並んでいたことはご紹介しましたが、清水寺に参詣する人に食糧などを乞うため、自然と清水坂には多くの民衆が住み着くようになっていました。加えて、京都と東海道を結ぶ交通の要所でもあった清水寺。

また、応仁の乱は守護大名による私的な争いにより勃発したもので、この戦火で最も苦しめられたのは貧しい民衆であったことは間違いないでしょう。
特に民衆に寄り添ってきた時宗の願阿弥が清水寺に尽力しようと決意した理由もそのような部分にあったのではないでしょうか。

願阿弥は北陸、東海、山陰はもちろん、南は九州の薩摩まで周って勧進を行いました。
この時、勧進によってどこの誰から寄付を集めたかを記した勧進帳が残されているのですが、興味深いのがその筆頭に足利将軍義政の妻、日野富子の名前が記されていること。

応仁の乱の中心人物でもある日野富子からの勧進は、せめてもの罪滅ぼしだったのでしょうか。。

話を願阿弥に戻しましょう。
願阿弥は興福寺から正式な勧進僧としての認定を受け、その後「本願職」という呼称が定着するきっかけとなりました。

この本願職は、今では清水寺の伽藍再建や財政運営を統括する役職の呼称になっており、願阿弥が居住していた場所が成就院となっています。

江戸時代:寛永の火災

江戸時代に入っても清水寺の不幸は続きます。寛永6年の1629年、今度は成就院からの失火で清水寺が全焼してしまいました。

応仁の乱からの復興を手掛けた願阿弥の居住舎からの失火で再び焼失の憂き目に会うというのは何という皮肉でしょうか。

この時の火災からの復興を手助けしたのは、時の江戸幕府三代将軍、徳川家光。
清水寺に限らず、家光が復興援助をしたお寺というのは数多くありますが、世界遺産・清水寺もその一つというわけです。

ちなみに、この時の復興に尽力したのが家光の他にもう一人。家光の妹の東福門院(和子)です。
この東福門院は徳川家から天皇家に嫁いだ人物で、両者の橋渡し的な役割を担っていたと言われています。

清水寺の復興に東福門院が手を貸したのは、天皇家と徳川家の良好な関係を築く目的もあったのでは、とも考えられています。

現在の清水寺は、この時に再興されたものです。

この後も、明治維新の波乱の渦で悲しい最期を遂げた成就院の住職、月照・信海兄弟や、その後の廃仏毀釈運動など清水寺には様々な試練が起こりましたが、このお話はまた別の機会に。

【世界遺産】清水寺の舞台はなぜ造られた?

清水の舞台が造られたのはいつ?

世界遺産清水寺と言えば一番有名なのは何といっても「清水の舞台」でしょう。

清水寺はその1200年以上に及ぶ歴史において、これまでお話ししてきたように10回以上全壊全焼と言える被害を受けているため、寺公式の記録がなく、舞台がいつ造られたかも定かではなく、ましてや何のために造られたのかもはっきりしていません。

清水の舞台がいつ造られたのか?平安時代以降、清水寺は多くの書物の中に登場するので、歴史上作られた書物の中にヒントがありそうです。

まず、平安時代の有名な作品である「源氏物語」と「枕草子」の中にも清水寺は出てきます。
枕草子では僧の日常や説法、お参り風景、観音縁日(18日)のにぎやかな様子など、かなり詳細な様子が描かれているものの、舞台に関する記載は一切ありません。

「清水の舞台」がはっきりと書物の中に出てくるのが「成通卿口伝日記」という、とある貴族が残した日記です。

「成通卿口伝日記」というのは、蹴鞠名人の青年公家、藤原成通(1097~1160)が書き記した日記なのですが、この中で成通は、清水寺の舞台の高欄に上がって蹴鞠を行った様子を自ら日記に書き残しています。

そしてこの内容は1254年に編集された「古今著聞集」でも同じように紹介されていることから見て、「清水の舞台」は平安時代後期には存在していたものと考えてよいでしょう。

ちなみに、「義経記」では義経と弁慶が決闘を行ったのは五条大橋ではなく、清水寺の舞台として記されています。
この他「今昔物語集」「宇治拾遺物語」「法然上人行状絵図」でも清水寺の舞台が登場しており、広く民衆の拠り所だった清水寺の人気の高さがうかがえますね。

清水の舞台はなぜ造られたのか?

ではなぜ「清水の舞台」はが造られたのでしょうか。いくつかの説をご紹介しましょう。

①手狭な境内を広げるため

これまでご紹介してきた通り、清水寺は京都だけでなく広く日本中にも知れ渡っていた有名なお寺です。当然参詣、参籠で数多くの人々が訪れたことでしょう。
特に毎月18日の縁日の日には人手も賑やかだったでしょうし、今とは違い多くの公家や貴族たちも参拝で訪れることも多かったでしょう。

そうなると、貴族や公家たち参拝客をもてなす僧がその案内をするため、境内は手狭だったのではないでしょうか。

清水寺を実際に訪れてみると、確かにあの舞台があるからまだ広く感じますが、あのスペースが無ければやや狭い感じも否めません。

ですが広げるにも場所がなく、また当初から内陣から先の礼堂辺りは崖から乗り出した部分に造られていたため、それをさらに南に拡張することになったのではないか、というわけです。(背後には地主神社があったため、広げられない)

②「芸」を披露する舞台として作られた?

「舞台」と一般的に言うとき、その壇上に演者が登場して何かしらの芸を披露することが普通ですよね。清水寺の舞台も、まさにこれと同じ目的で作られたのではないでしょうか。

広く庶民に親しまれた清水寺は、多くの人々の参詣場所となっていました。人々が参詣による信仰の証として、「一芸」を披露するスペースが設けられたと考えるのもあながち見当違いとも言えないのではないでしょうか。

こちらも実際に清水寺を参拝すると感じることですが、参拝のルートとしてはご本尊に向かって左側、西から東に向かって舞台に出る作りになっています。まさにステージに登壇するかのようではないですか!?

実はすごい!清水の舞台のヒミツ

清水寺の舞台は広さ190平方メートル、正面18メートル×側面10メートルに檜(ヒノキ)が敷き詰められています。
(これが「檜舞台」の語源になったとも言われています。)

また、北側(本尊側)が南側に比べて高くなっているのですが、これは舞台の方は屋根がついていないので雨で溜まった水を流れ落とす役ためです。

清水寺の舞台の高さは土台石から13メートル。
舞台は懸造りになっていて、西車寄せ下(丸柱小)3本、礼堂廊下の下(角柱)12本、東西両楽舎下(角柱)12本、東廊下の下(角柱)3本、礼堂下(丸柱)30本、舞台を支える柱18本、計78本の柱がこの舞台を支えているわけです。

実は舞台下の18本は6本×3列で釘やかすがいといった金属は一切使われていないことはご存じでしょうか。

また、柱に使われているのは樹齢400年以上の欅(ケヤキ)の木です。この欅の木は長い間丈夫に持つことでも知られています。少なくとも樹齢と同じ年月はほとんど劣化せず、そこから同じ月日をかけて徐々に衰えていくそうです。
木の力というのはすごいですよね。

現在SDGsが叫ばれていますが、清水寺を今後も維持していくためには樹齢数百年の欅の木を欠かすことができません。この未来のため、2000年の33年に一度の清水寺のご本尊御開帳の際に、記念事業として欅と檜の植樹がなされています。

【世界遺産】「清水寺の舞台から飛び降りる」は実際にあった!

「清水の舞台から飛び降りる」ということわざがありますが、実はこれはたとえ話ではなく実際に過去には何度もあった事というのはご存じでしょうか。

正確に言えば清水の舞台から「飛び落ちる」ということになるのですが、初期は12世紀後半、末法思想が世に広がり始めた時に浄土信仰が流行った時代がありました。この時、観音様がお住まいになる補陀落山(ふだらくさん)とみられていた清水寺から飛び落ちることで、往生を果たそうとしたのです。

その後も、清水の舞台からの飛び降りは後を絶ちませんでしたが、その目的はどちらかというと現世利益へとシフトしていきます。何か願いを込めて飛び落ち、無事生き残ることができればその願いは成就される、というわけです。

「成就院日記」には詳細な飛び落ちの記録が約170年にわたって綴られている(16世紀終盤から明治維新ごろまで)のですが、その間、235件の飛び落ち(2回飛び落ちた人がいるので人数は234人)があり、内訳は男性161人、女性63人、年齢では二十代が最も多く、若い者は10代前半の者もいたというかなり細かい記録が残されています。

身分としては下人や卑人がほとんどで、公家や武士はいないことを考えると、貧しい民衆の間で特に広まった信仰だったと考えられます。

このような観音信仰に加え、清水の舞台で歌舞伎が上演されると、「宙乗り」も披露されるなど、舞台から飛び落ちる演出が、この飛び降りにさらに火をつけることになるのですが、やがて柵が設けられ、明治維新とともに完全に「飛び降り」は禁止されるようになりました。

【世界遺産】清水寺と物語の世界

先ほど、世界遺産・清水寺は多くの書物の中にも登場してきたことをご紹介しました。ここでは清水寺と物語についてお話しましょう。

まず、清水寺が登場する書物として、先ほどご紹介した「義経記」の他にも例えば、「しんとく丸」という書物では主人公の申し子が祈願する場所として、「ものぐさ太郎」という作品では男女が出会いを求める場として清水寺が描かれています。

さらに、清水寺そのものを題材とした物語として「観音本地」という書物が残されています。

この「観音本地」という物語の内容を簡単にご紹介すると以下の通り。

-主人公は貧しい身分(今でいう奴隷)の男性で、家を追い出された後、町の館に住み込んで雑用から掃除からすべてにこき使われる。
-そんなみじめな境遇にも負けず、一生懸命働いていると、ある日不思議な女性に出会い、妻になる。
-この女性の不思議な力で、主人公の生活は豊かになるが、やがてその美貌に天皇までもが惹かれ、妻を奪おうと無理難題を押し付けられる。
-天皇からの無理難題にも女性の不思議な力によって見事にクリア。根負けした天皇はその地位も日本の国の支配も主人公に譲ってしまう。
-その後、女性は自分が観音の化身であることを告げ、主人公のもとを去り、主人公も清水山にお寺を作り、自ら千手観音として「顕現」する。

貧しい主人公が一生懸命働いていると、不思議な力を持った女性が現れ、一気に幸せになっていく逆転劇というわけですが、このようなストーリーは他の書物の中にも描かれています。

ですが、清水寺を題材とした「観音本地」が他の似たような物語と違っている点は、

-主人公が貧しい民よりもさらに身分が低い「非人」という立場であること
-最終的にある地域、国の領地を委ねられるのではなく、日本全土の支配を委ねられること

の2点。

なぜこのような違いが現れたのか、理由ははっきりしませんが、これまでご紹介してきた通り、清水寺が京都にとどまらず、日本全国に知れ渡る観音信仰のお寺であること、そして、一般民衆だけでなく乞食や奴隷といった「非人」の拠り所でもあったことが考えられます。

実際、戦国時代のころに描かれたとされる「清水寺参詣曼荼羅」という絵巻物があるのですが、そこには清水寺が多くの参拝客で賑わっている様子が活き活きと描かれています。

そこは高貴、下賤関係なくあらゆる人が集まる場所であり、まじめな信仰による参拝だけでなく、乞食や下賤による物乞い、男女の出会いを期待した人々、さらには「辻取」と呼ばれた犯罪も日常的に行われていたと言われています。

あらゆる人間模様が出会い、交差する場所でもあった清水寺。そんな「人間臭い」場所は今でも少しは感じることができるでしょう。
人に寄り添い、何とも言えない温かみを持つ存在としての世界遺産、清水寺。ぜひ一度訪れてみてください!

 

(参考:「物語の中の京都」濱中 修 新典社新書、「京都 清水寺展」 音羽山清水寺 編集、発行、「古寺巡礼 清水寺」森 清範 淡交社、「清水寺の謎 加藤眞吾 祥伝社黄金文庫」)

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