前回ご紹介したアゼルバイジャンに続き、先日の旅サミットⅡでプレゼンター国を務められたリトアニア。
リトアニア、と聞いてどのくらい皆さんは頭の中にイメージが浮かぶでしょうか。
バルト三国の一つとしてエストニア、ラトビアとよくセットで紹介されるリトアニア。
ヨーロッパらしいおしゃれな首都、ヴィルニュスは世界遺産に登録されており、その美しい街並みを楽しめる一方で、リトアニアは意外なほど日本に身近な国なんです。
今回はリトアニアがとても身近に感じられるエピソードを4つご紹介したいと思います。
1.リトアニアと日本の接点①リトアニアの風景
(出典:http://www.1zoom.me/en/wallpaper/441355/z1952.2/)
リトアニアの国土は約65,000平方キロメートルで、この大きさは実は北海道よりも小さく、北海道の約80%の広さとなっています。
また、リトアニアは自然豊かな一方で日本のように山地がとても少ない国のため、写真のように街を少し抜けるとどこまでも遠くが見渡せる平原が広がっています。
また、バルト海にも面しているため多くの川が流れているのもリトアニアの特徴で、リトアニアの街を歩いていると10分も経たないうちに川にぶつかる、と言われているぐらい水も豊かな国なんです。
旅サミットⅡでは、駐日リトアニア大使館からエギディユス・メイルーナス リトアニア大使と大使夫人のガリナ・メイルーニエネ氏にお話をしていただくことができました。
その中で、大使夫人からこのようなお言葉を頂きました。(英語でのお話を日本語に和訳しています。)
私は現在日本に住んでいますが、一度北海道に行ったことがあります。私にとって北海道はとても好きな場所の一つです。なぜなら、北海道に行くとどこか懐かしい感じがするからです。
リトアニアの豊かな自然とどこまでも広がる平原が北海道の景色と重なったのでしょう。とても印象深いお話でした。
皆さんもリトアニアの自然に触れると、北海道のようにどこか懐かしい感じがするのではないでしょうか。
2.リトアニアと日本の接点②ユダヤ人に発行した命のビザ
今年は戦後70年という節目の年ということもあり、また、安保法案の問題もあって「戦争」や「平和」に対する考え方が再度問われています。
その中で、今年の12月に上映される映画「杉原千畝」。
杉原千畝さんの功績はこれまでもテレビドラマや映画化がされています。
杉原千畝さんは第二次世界大戦の戦時中、リトアニアのカナウス領事館で勤務を行っていたため、リトアニアとは切っても切れない関係にあります。
よく杉原千畝さんは「命のビザ」を約6,000人ともいわれるユダヤ人に対して発給したことで多くの人の命を救った、ということを言われていますが、彼がリトアニアの領事館で働いていた、ということは意外と知られていません。
リトアニアと第二次世界大戦、そしてユダヤ人、これらはどのように結びつくのでしょうか。
第二次世界大戦時、ポーランドやリトアニアにはユダヤ人のための学校が多くあったことから、両国には多くのユダヤ人留学生が集まっていました。
第二次世界大戦は、人種浄化思想を掲げるドイツのヒトラーがポーランドに攻め込んだことで本格的に始まりました。
当時、ヒトラーのドイツとスターリンのソ連は独ソ不可侵条約を締結しており、手を組んでいたため、ドイツがポーランドに攻め込むのと同時にソ連も東側からポーランドに攻め込みます。
そして、その勢いでリトアニアも当時のソ連の一部に組み込まれてしまいました。
独ソ不可侵条約は1941年には破棄され、両国も戦争に突入することになりますが、当時ポーランドやリトアニアにいたユダヤ人たちは必死に亡命する手段を探しました。
西側にはドイツがあるため、亡命先は南のトルコから中東か、東のソ連に向かうしかありません。しかし、当時トルコはビザの発給をすでに停止していたため、ユダヤ人たちの生き残る道としてはソ連にに向かうしかなく、そのためにリトアニアにユダヤ人が殺到します。
駐リトアニア領事館も当時、ソ連の支配下にあり次々とソ連から閉鎖を命じられていた中で最後まで日本領事館が門戸を開けており、そこに大量のユダヤ人が亡命のためのビザを求めて流れ込んできたのです。
当時カウナス領事館に赴任していた杉原千畝さんにも、当然日本本土やソ連から圧力がかけられました。
当時日本は日独伊三国同盟を締結していたため、日本の立場上もビザの発給には難色を示す必要があったのです。
それに反して、最終的に杉原千畝さんは独断でビザの発給に踏み切ります。その理由は「人道的な観点」からだったと述べられています。
戦時中という厳しい状況において、また現在よりもはるかに厳しい統制が行われた時代において、「人の命のため」に英断でビザ発給を敢行した杉原千畝さん。同じ状況に置かれたとき、どれだけの人が同じことができるでしょうか。
軍国主義から第二次世界大戦に入った日本。その過去と向き合い、これからの日本の立場を考えるうえでも、杉原千畝さんの行ったことは知っておくべきことだと思います。
3.リトアニアと日本の接点③家族の結びつきと信仰
このエピソードも、旅サミットⅡでプレゼンターを務めてくださったリトアニア大使館の大使夫人、ガリナ・メイルーニエネ氏からのお話からのご紹介です。
リトアニアでもさまざまなイベントが季節ごとに行われ、お祝いがされています。最も大事なイベントの一つとされているのが、日本でもおなじみのクリスマス。
日本でクリスマスといえば、家族だけでなく恋人と甘いひと時を過ごすのが一般的。
一方のリトアニアでは、クリスマスはもっぱら家族と過ごすための大事なイベントなんだそう。
この時だけはどんなことがあっても、家族は同じテーブルを囲んで集まり食事を楽しむのがリトアニアの慣習なんだそうです。
つまり、リトアニアにとってクリスマスは家族と過ごすためのイベントなんです。
(出典:http://ameblo.jp/littlelithuania/entry-11732121711.html)
クリスマスで家族がそろって食事を楽しむとき、そこにも伝統があります。
まず、料理の数。これは12個用意するのだそうです。12というのはキリストの12使徒にちなんだ数です。
そして、その年に亡くなった身内の方がいる場合、その方も一緒に食事を楽しめるようにとの思いから、その方のためのお皿も一緒に並べるそうです。
これは日本のお盆ととてもよく似ていますよね。
また、キリスト教信者の方が多いリトアニアですが、このような伝統はキリスト教に限らず、一般的に行われている慣習なんだそうです。
これも日本でクリスマスが広くお祝いされていることにとてもよく似ていますよね。
4.リトアニアと日本の接点④リトアニアの伝統工芸品
(出典:http://rocq69.blog23.fc2.com/blog-category-3.html)
リトアニアの伝統工芸品の一つが、リネンから作られた衣類や雑貨です。
リネンとは麻の一種で、天然素材の中ではとても丈夫で長持ちするのだそうです。
リネンから作られたこのような衣類や雑貨は、とてもシンプルなデザインの一方で不思議な温かみを感じることができます。
リネンは日本でもとても広く使われているもので、有名な大手のお店、たとえば無印良品やニトリが扱っている製品の中にもリネン素材のものが数多くあります。
このように日本でもとても広く普及し、愛用されているリネン。リトアニアを訪れた際にリネン製品を扱っているお店などに行くと、どこか懐かしさを感じると思います。
いかがでしたでしょうか。
ヨーロッパの小さな国、リトアニア。日本人にはまだなじみのある国ではないかもしれませんが、色んな意味で日本と深いつながりがあると思いませんか?
リトアニアをより身近に感じることができれば、次の旅先はリトアニアで決まりですね!
次回はリトアニアの観光スポットに焦点を当ててご紹介したいと思います。
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