ペリーも来航した開国の街、静岡県下田市。
前回は、下田で起こった偉人たちの歴史ドラマを2つご紹介しました。(前回のストーリーはこちら!)
今回は、偉人だけでなく普通の生活をしていた人たちが下田で変えた人生のストーリーを2つご紹介します!
1.唐人お吉
「唐人お吉」というのは、何度も舞台や大衆劇として語られ続けている、とある女性の人生の物語です。
「唐人」というのはもともと、「唐(中国)の人」という意味で使われていましたが、お吉が生きた明治初期頃にはさらに広く、「異邦人」つまり外国人という意味で使われていました。
正確な史実ははっきりわかっていませんが、お吉は実在の女性です。写真を見る限り、とても美しい顔立ちをしていますよね。
それでは、このお吉がいったいどのような人生を歩んだのか、そしてなぜ現在に至るまで舞台化されるなど多くの人に愛されているのか、見ていきましょう。
(以下のストーリーは書籍等を参考に記載していますが、史実がはっきりしないこともあり、フィクションとしてお楽しみください。)
お吉の幼少期
下田の小さな漁師の家で育ったお吉。生まれは1841年のこと。
決して裕福な家庭ではなく、どちらかというと貧しい家庭で育ち、日々両親の仕事を手伝っていました。
そのころ、江戸でのお勤め(愛妾としてお偉いさんの側で仕えていた)を終えた村山せん(以下、せん)という女性が下田の街に帰ってきて、丘の上に家を建てて余生を過ごしていました。
ある日、下田の街を歩いていたせんは、偶然、家の軒先で店番をしていたお吉を見かけます。
ぼろ衣をまとい、顔と体は砂と垢まみれのお吉でしたが、せんは彼女を一目見て、その生来の整った顔立ちと美貌を見抜きます。
「この少女はきっと美しい女性になる-。」
そう思ったせんは、ある日お吉の両親にお願いを申し出て、お吉を銭湯に連れていきます。そこで、体中に染み付き、溜まりにたまった汚れをきれいさっぱり洗い落とし、お吉の本当の外見と顔立ちを確かめました。
お吉の美貌が間違いないものだと確信したせんは、お吉の両親を説得してお吉を自分の養女として一緒に自分の屋敷に住まわせたのです。
お吉、芸者になる
それからというもの、せんはお吉に三味線や琴などの芸から、身だしなみや振る舞いに至るまで、徹底的に教育を施し、どこに出しても恥ずかしくない女性に育て上げます。
もともとまじめで純粋だったお吉は、せんの言いつけや教えを一生懸命に学び、努力します。
そして、大きくなったお吉は街でも評判になるほど人気者の芸者になりました。
大人になるにつれて、ますますその美貌が際立ち始めたお吉でしたが、せんが生きている間は街には必要最低限の用事があるときにしか出向かず、また余計な誘惑などにも振り向かない真面目な女性でした。
そんな中、下田の街を大地震が襲います。
おそらく、安政の大地震のことだと思いますが、下田の街もこの地震で大打撃を受けます。
壊滅的な状況を受けた中、お吉とせんは何とか生き延びます。すでに年老いていたせんは身動きをとるのにも人の助けが必要な状況でした。
この災害から立ち直るなか、お吉は後の婚約者、鶴松と出会います。
せんの死、そしてハリスへの奉仕
ほどなくしてせんが亡くなると、お吉は頼る者が無い中で生きていかなければならなくなりました。
ですが、そのころから親密な仲になっていた鶴松との婚約という希望がお吉にはありました。
一方そのころ、下田には開国後、日米修好通商条約を締結して日本で初めて総領事となったハリスが駐在していました。
このハリスが病に倒れ、通訳であったヘンリー・ヒュースケンを通じて看護婦の要請が下田の街に届いたのです。
街の役人たちは、誰をハリスの元に遣わすかあれこれ議論したあげく、お吉に白羽の矢が立ちました。
当然お吉はこの申し出を断ります。
ですが、看護婦としてハリスの元で奉仕することに対する報酬は支度金25両に加え、毎月10両という破格の待遇でした。(ちなみに、平均的な大工の一か月の稼ぎが約2両)
このお金に目がくらんだのが婚約者の鶴松でした。鶴松はお吉を説得させる代わりに報酬をもらっていたのです。
お吉は鶴松によって、金で売られることになりました。
婚約者と思っていた鶴松に裏切られたお吉は、失意の中、半ば開き直ってハリスの元で看護婦として使える決心をします。このときお吉は17歳でした。
「たかが外国人に仕えるのがそれほど大変なことか」
そう思われるかもしれませんが、開国後間もない日本ではアメリカ人の風貌でさえ、噂によってさまざまな憶測が広がっていました。
それまで見たことのない西洋人。
下田にある郷土資料館では、今でも当時描かれたペリーの似顔絵を見ることができます。
鳥のような爪を持った風貌から、鬼のような形相まで。
当時の日本人がいかに、見たこともない外国人に対してとんでもない想像を抱いていたかが分かりますので、ぜひ訪れてみてください。
お吉の話に戻りましょう。
そんな得体の知れないよそ者に仕えることがどれほどの不安と恐怖だったか、お分かり頂けたことと思います。
実際、ハリス側からは病気の看護の要請でしたが、事情がよくわかっていない下田の役人たちは、ハリスの愛妾として仕えるのだと思っていた人もいたぐらいでした。
哀れな末路
ハリスの元に仕え始めてから、街の人のお吉に対する態度が180度変わります。
最初は同情的だった街の人も、お吉が莫大な報酬を毎月もらっていることを知ると、それに対する妬みと、得体も知れない外国人に身を売った女として、ひどい差別を行うようになります。
お吉が街を歩いていると避ける、罵声を浴びせる、小石をぶつけるなどなど。。
ハリスの看護から解放された後、お吉は街で芸者として生きていくことになりますが、人々からの差別が終わることはありませんでした。
結局、芸者としても食っていけず、酒におぼれ、ついには川に身を投げて自殺をしてしまいます。
懸命に生きてきたお吉でしたが、その美貌と時代に翻弄されて哀しい最期を迎えることになりました。
(所説はいろいろあり、これはあくまでも所説の中の一つです。)
この話を知ったとき、筆者は映画の「マレーナ」を思い出しました。こちらも、第二次世界大戦中が舞台であり、その美貌ゆえに女性から嫉妬の的となり戦争の悲劇で運命を翻弄された女性の話です。
お吉の死後
お吉が川に身を投げた後も、その亡きがらは川に数日間放置されたまま、誰も供養しようとはしませんでした。
もちろん、亡きがらに触って病にかかるのを恐れたというのもあるかもしれませんが、ここまで人間の冷酷さが出るものでしょうか。お吉の家の菩提寺ですら引き取りを拒否したのです。
結局、お吉を不憫に思った宝福寺の住職がお寺の庭にお吉を埋葬しますが、これによって街から迫害を受け、住職も寺を追われることとなりました。
時代を経て、お吉に同情した人々によってお吉の物語は語り継がれることになります。
写真は「唐人お吉」の舞台などでお吉を演じた役者によって寄贈されたきれいな供養塔です。
このすぐ裏手に、もともとのお吉のお墓があります。
2.薩摩十六烈士の悲劇
下田で起こったもう一つの悲劇のお話をご紹介します。(悲しいお話ばかりで、気が沈んでしまわないようご注意を・・・)
時は唐人お吉から200年ほど遡った1688年のこと。
薩摩藩の支藩、日向佐渡原藩の河越久兵衛、河越太兵衛、成田小左衛門は江戸に向けて、江戸城御普請材を積み込んで出帆しました。このとき、この3人以外の水夫13人も含めて16人での出航でした。
ところが、江戸に向かう途中に嵐に出くわして遭難の危機に瀕します。
このままでは船も船員もろとも海のもくずとなってしまう-。
そう考えた宰領の河越久兵衛は、苦渋の決断として積んでいた御普請材を海に投げ捨てて船体を軽くし、何とかこの危機を乗り切りました。
当然の判断だと思いますが、その当時、江戸城に収める貴重な御普請材を捨てるということは罪に問われて当然の行いだったのです。
下田港に到着すると、河越久兵衛、河越太兵衛、成田小左衛門の三人は御普請材を海に投げ捨ててしまったことの罪を被る代わりに、水主13人の佐渡原への帰還の嘆願を申し出ました。
罪を被るとはどういうことか。
彼らは自ら切腹をして、自分たちの命でその罪を償い、さらに一緒に乗っていた水夫たち13人の命をも救おうとしたのです。
ところが、この3人の義の心に感銘を受けた水夫13人は3人の命を犠牲にして自分たちだけが罪を逃れることを良しとしませんでした。
そして、13人全員も切腹の道を選びました。
この16人の悲劇は、彼らの義に感銘を受けた人たちによって今も下田市大安寺に丁重に埋葬されています。
いかがでしたでしょうか。
お吉と薩摩十六烈士。時代は違えど、下田で起きた二つの悲劇。
時代が揺れ動いていた江戸時代から明治、昭和。もしかすると日本各地に、これと同じような出来事が数多く起こっていたのかもしれません。
下田を訪れた際はぜひ宝福寺と大安寺を訪ねてみてください!
(参考:「唐人お吉」十一谷 義三郎)
(参考:「静岡県の不思議事典」小和田 哲男)