2018年に世界遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」。江戸時代から明治時代にかけて、厳しい禁教の時代の中、密かに引き継がれたキリスト教、そして信仰の力を今に伝える世界遺産です。
「潜伏キリシタン」とその終焉として「信徒発見」に目に行きがちですが、今回はもう少し広い視点でこの世界遺産を深く知るために知っておきたい予備知識をご紹介します。
【世界遺産】「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の概要
世界遺産の内容
世界遺産・「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、江戸時代初期から明治時代にかけて現在の長崎県と熊本県の天草市を中心に形成された、「潜伏キリシタン」の存在とその信仰生活の跡を今に伝える世界遺産です。
「潜伏(せんぷく)キリシタン」というのは、簡単に言えば「隠れて密かにキリスト教を信仰していた人々」のこと。
なぜ隠れる必要があったかというと、江戸時代は今のように信仰の自由が認められておらず、江戸幕府が認めない宗派以外の宗教の信仰が禁じられていたためです。
また、世界遺産に登録されている構成遺産には「原城跡(はらじょうあと)」と「大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)」という遺産が含まれており、原城跡はあの有名な島原の乱(島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき))、大浦天主堂は「信徒発見(しんとはっけん)」(後述)の舞台となった場所で、厳密にこれらの遺産は潜伏キリシタンの信仰の形態を示すものではありません。
ですが、原城跡が舞台となった島原の乱は、その後の徹底的なキリスト教弾圧のきっかけとなった事件(始まり)で、「潜伏キリシタン」のきっかけとなったこと、逆に大浦天主堂は信徒発見により、「潜伏キリシタン」が初めて「潜伏」を辞めたきっかけ(終わり)となった出来事として、世界遺産に含まれています。
世界遺産の特徴
この「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の特徴として、「シリアルノミネーション」によって世界遺産に登録された点が挙げられます。
シリアルノミネーションというのは、複数の遺産を例えば一体のストーリー性を持ったものとして扱い、全体として特定のストーリーを示すことで、世界遺産の登録基準である「顕著な普遍的価値」(けんちょなふへんてきかち)があるとして世界遺産に登録することを言います。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」で言えば、この世界遺産は全部で12の構成遺産が含まれていますが、この12の構成遺産によって、
「①潜伏キリシタンが生まれ、②③その信仰が江戸時代の200年以上に渡って独特な形で受け継がれ、やがて④潜伏が終わった」
という潜伏キリシタンに関する一連のストーリー(歴史上の出来事)を証明しているのです。
そして、このようにキリシタンたちが長期間に渡って隠れてキリスト教を信仰し、それによって独特な信仰の形態が生まれたことは世界的に見ても例がない、ということで世界遺産に登録されました。
ちなみに先ほどご紹介した「原城跡」は上記の①、大浦天主堂は④を示す構成遺産として登録されています。
日本史における世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の位置づけ
キリシタンに関連する日本史の流れ
それではこの世界遺産をもう少し前後関係の歴史を含めて見てみましょう。
①キリスト教伝来(1549年)
皆さんもおそらく日本史の授業で習ったかと思いますが、キリスト教は戦国時代にフランシスコ・ザビエルによって日本に初めて伝えられました。
当時の世界は大航海時代。スペインとポルトガルが覇権を争うべく、海を渡って勢力を拡大する中でキリスト教も同様に布教を世界に展開していた中で、日本にたどり着いたのです。
②キリスト教と織田信長(~1582年)
キリスト教の伝来によって、ヨーロッパの文化(南蛮文化)が持ち込まれる中、織田信長はキリスト教を容認・保護しました。
織田信長自身はキリシタンではありません。単に南蛮文化を積極的に取り入れるために、その仲介役的な存在だったキリスト教宣教師を利用しただけと思われます。
③キリスト教と豊臣秀吉(~戦国時代終わり)
一方、天下統一を果たした豊臣秀吉は徐々にキリシタンへの弾圧を強め、1587年に「バテレン追放令」を出しました。バテレンとはキリスト教の宣教師や神父のことです。
秀吉が行ったキリスト教弾圧で最も激しかったのが、1597年に長崎で磔(はりつけ)となった「日本二十六聖人の殉職」です。
殉職した二十六人の中には12歳の少年も含まれていました。
わざわざ長崎までキリシタンたちを連行して処刑したのは、当時から九州はキリシタン大名はじめ、キリスト教の布教が最も進んでいた地域だったからです。
それでも秀吉のキリスト教弾圧は激しさを増すことはありませんでした。秀吉自身が南蛮貿易で利益を得ていたことから、貿易の影響を恐れて二の足を踏んだのではないかと考えられています。
④江戸幕府と禁教令(1612年、1614年)
江戸時代に入ると1612年、そして1614年に江戸幕府から禁教令が出され、ついにキリスト教の布教が全面的に禁止されました。
この時にターゲットになったのはキリシタンというより、布教に務めていた宣教師たちです。宣教師たちはことごとく国外に追放されることになります。
その後1620年頃まで密かに日本で布教を行う宣教師たちがいましたが、江戸幕府によって徹底的に弾圧が行われ、表面的に日本から宣教師たちは一掃されました。
⑤島原の乱(1637年)
日本でのキリスト教の取り締まりが落ち着いたかと思った頃に突如として勃発したのが島原の乱(島原・天草一揆)です。
美少年とされる天草四郎時貞が総大将を務めたこの事件は江戸幕府により鎮圧されましたが、江戸幕府には大きな衝撃を残しました。
この事件が、「宣教師だけでなくキリシタンそのものも徹底的に取り締まらなければならない」という江戸幕府の危機感を呼び起こしたのです。
もう一つ、この事件をきっかけに進められたのが鎖国政策です。鎖国により、スペインやポルトガルのようなカトリック教国は完全に日本から締め出されることになりました。
⑥宗門改役の設置と宗教取り締まり(1640年~)
島原の乱に衝撃を受けた江戸幕府は、1640年に宗門改役(しゅうもんあらためやく)という役職を設置し、ここから徹底的に宗教の取り締まりを始めます。
そして、1960年半ばには各村ごとにお寺が所属する村民を管理することでキリシタンではないことを証明する寺請制度が整備されることになり、基本的にすべての民衆はどこかのお寺に所属していることが求められました。
⑦信徒発見(1865年)
江戸時代後期、開国を余儀なくされた日本では、長崎に再び海外から多くの外国人たちが訪れ、宣教師たちによる教会の建設も進められました。
そんな中、1865年3月、建設されたばかりの大浦天主堂で祈りを捧げていたプティジャン神父の元に浦上村(うらかみ)から訪れた信徒たちがキリスト教の信仰を告白します。
200年以上も宣教師が途絶えていた日本で、キリスト教の信仰が途絶えずに続けられていたことは、当時のヨーロッパ・カトリック教会にも奇跡として瞬く間に伝えられました。
⑧キリシタン禁制の高札撤廃(1873年)
明治維新後の1873年、ついに江戸時代から続いていたキリシタン禁制の高札が撤廃され、ここにキリスト教の禁止令に終止符が打たれました。
以上の通り、世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、もはや宣教師がいなくなった日本において、ついにキリシタンにまで弾圧が及びだした島原の乱(⑤)以後、潜伏せざるを得なくなったキリシタンたちが、日本の開国とともに再び日本に宣教師たちがやって来たことで潜伏を辞めた時(⑦)までの潜伏キリシタンたちの信仰を伝えることを知っておいてください。
なぜキリスト教は禁止されたのか?
それではなぜ日本において、これほどまでにキリスト教は徹底的に取り締まりの対象となったのでしょうか。
豊臣秀吉の戦国時代と江戸時代によって状況は違うかもしれませんが、概ね考えられる理由をいくつか挙げてみます。
キリスト教の教えが神仏習合と支配にそぐわない
キリスト教というのはイスラム教やユダヤ教と同じように、一神教の宗教であり、絶対的な神への信仰が前提です。
ですので、日本で古くから信じられていた「八百万の神」のような神道とは根本的に考え方が異なるとともに、権力者よりも絶対的な神が上位に来ることになります。
秀吉にしても家康にしても、どちらも後に豊国神社や東照宮を創建することで自らが死後も神と同等の存在であろうとしたように、天下統一を果たして国を治める側としては、絶対的な神への信仰がその妨げになると考えるのも不思議ではありません。
西欧の支配を恐れた
最初にお話しした大航海時代において、当初の覇権を争っていたスペインとポルトガルですが、その支配権の拡大においてキリスト教の布教が一つの手段であった事は考えられます。
だとすると、日本からすればキリスト教を通じて徐々に西欧列強の支配に組み込まれていくのではないか、という漠然とした不安は常にあったことになります。
信仰による反乱分子の誕生を恐れた
宗教への信仰は時にとてつもない結束力を伴い、一大勢力になりえます。
日本においても、戦国時代には信長と石山本願寺、比叡山延暦寺の衝突が起こるなど、寺社勢力は無視できない存在になっていました。
この教訓があったからこそ、支配する側としては宗教の恐さを十分身に染みて分かっていたのでしょう。そして島原の乱で、それは決定的になりました。
怪しげな魔術を使うイメージを持っていた
やはり、よく分からない海外から入ってきた教えというのはそれだけでも「怪しげな存在」という先入観を持たれがちです。
当時は戦国時代。外見や文化、言葉も違う人たちが何やら怪しい教えを布教して回っているのをのんきに眺めているほど、日本はおおらかな時代ではなかったということも考えられます。
世界遺産と合わせて知っておきたい予備知識
信仰の弾圧を受けたのはキリシタンだけではなかった
世界遺産・「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」はキリシタンに関連する遺産のため、キリスト教に関連する世界遺産と言えます。
確かに戦国時代の終わりから江戸時代、明治初期までの300年近くの間、日本においてキリスト教への弾圧は苛烈を極めており、キリシタンにとっては苦難の時代でした。
ですが、例えば江戸時代に厳しい取り締まりが行われたのはキリスト教に限った事ではありません。
例えば日蓮宗の「不授不施派」という宗派は、日蓮宗以外の信徒からのお布施を受けず、また信徒も日蓮宗以外の僧にお布施をしない考えを持っていましたが、これとお布施を容認する宗派との争いにより、最終的に不授不施派は幕府によって「異宗」として取り締まりの対象になってしまいました。
その他にも、とりあえずよく分からない、怪しげな教えを振れ回っているとタレコミが入れば「邪教」として厳しく取り締まりの対象となっていたのです。
つまり、元々はキリシタンが厳しい取り締まりの対象だったのに対し、それが徐々に「幕府が正式に認めた宗派以外」は全て取り締まりの対象になったということになります。
ですが、このことが逆に、「邪教」「異教」=「切支丹」(キリスト教と違う意味のため表示を漢字にしています)というとらえ方になり、取り締まるべき純粋なキリシタンへの圧力が分散されたという皮肉な現象を生みました。
「潜伏キリシタン」も普通の村民と同じ暮らしをしていた
「潜伏キリシタン」というと、周りにもバレないように密かに信仰を続けているキリシタン、というイメージを持ちますよね。
実際、江戸時代の中期以降は、弾圧から逃れるために外海の島に移り住むキリシタンたちがいたことは事実です。
ですが、一方で、村の中でキリシタン以外の村民たちと共に暮らしていたキリシタンも多くいました。
先ほど寺請制度の話をしましたが、当時は村単位での管理(年貢の取りまとめ含む)だったため、ある意味で村民全体が連帯責任を担っていたと言えます。
そんな状況でキリシタンの村民を除外してしまうと、村としての生産性も落ち、かえって自分たちの生活も苦しくなってしまいます。
また、特にキリシタンだからと言って何か損害や迷惑をこうむっているわけでもなければ、わざわざ自分たちの生活に降りかかるリスクを冒してまで、キリシタンの排除をする必要もありません。
後ほどご紹介しますが、遠藤周作の「女の一生」という小説でも、キリシタンの存在を知りつつもそれを黙認している村の人々の様子が描かれています。(ただし、友好的なわけではなく、どちらかというと面倒なことに巻き込まれたくない、という避けるイメージ)
「信徒発見」がキリシタン受難の終わりではない
世界遺産・「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成遺産にも含まれている「大浦天主堂」は信徒発見の舞台としても有名です。
ここで、先ほどの歴史の流れにあるように、信徒発見はキリスト教禁教が撤廃されるより前に行われていた、という点が注目です。
明治維新に向けての開国で日本には西欧諸国からの圧力が強まり、それまでのようにキリスト教の弾圧も幕府は出来なくなりました。
だからこそ、長崎にも教会が建てられ、潜伏キリシタンたちも「欧米の目があるから、幕府もこれまでのように強硬な弾圧はしないだろう」という考えを持ってキリスト教の信仰を告白したのかもしれません。
ですが、禁教令の発布は引き続き有効であったことに変わりは無く、この信徒発見は逆に禁教令に背いていることを自ら証明する形にもなり、幕府に取り締まる言い訳を与えてしまうことでもありました。
特に有名なのが1867年に行われた「浦上四番崩れ」と呼ばれる大規模な取り締まりです。密告その他事実に基づいて奉行所の役人などが行う「ガサ入れ」をイメージ頂ければと思います。
キリスト教信仰を告白した浦上村のキリシタンたちが一斉に連行、投獄され、厳しい迫害とともに棄教を迫られました。
それでも棄教しなかったキリシタンたちは長崎から追放され、追放先では想像を絶する拷問が続けられたのです。追放されたキリシタンは3,000人以上にも及ぶと言われています。
この間に江戸幕府から明治政府に移行したものの、明治政府は引き続きキリシタン禁教を継続したことでキリシタンたちの悲劇は1873年のキリシタン禁教の高札撤廃まで続きました。
世界遺産だけでは分からないキリシタン迫害の事実をぜひ知っておいてください。
なぜ潜伏キリシタンは200年以上も続くことが可能だったのか
島原の乱の後、キリシタンが「潜伏」してから信徒発見により「潜伏」を解除するまで、その間何と200年以上。ここまでの長期に渡って「潜伏」が続けられていたのは、本当に奇跡としか言いようがありません。
ではなぜそれほど長期に渡る「潜伏」が可能だったのでしょうか。その理由を考えてみたいと思います。
潜伏キリシタンたちが当時の村社会に溶け込んでいた
まず、「潜伏」していたといっても、潜伏キリシタンたちは他の民衆と同じように当時の日本社会の一員として生活していたことは特筆すべきことかと思います。
運命共同体でもあり、きちんと働いて年貢を納めていれば誰も表立ってキリシタンたちを阻害したわけではなかったということです。
このような「黙認」に加えて、藩主としても強硬的にキリシタンたちを取り締まって連行しようものなら、むしろ働き手を減らされた村から反発を食らうリスクさえあったのです。
事実、「異教」の取り締まりが入った村で、村の庄屋が村民と結託して取り締まる側の奉行に異議申し立てをした記録も残されています。
「疑わしきは罰せず」の取り締まり
もう一つ考えられるのは、信仰をする側のキリシタンたちも、200年以上という長い期間、宣教師がいない状態で信仰を続けているうちに、自分たちの信仰が「キリスト教」である、という意識が薄れていったことです。
例えば、先ほどご紹介した「浦上四番崩れ」というのは浦上村で4回目の「ガサ入れ」ということなので、それまでにも少なくとも3回、「異教」の取り締まりが入ったことが分かっています。
その内、三回目、つまり「浦上三番崩れ」では、取り締まりの結果、浦上ではイエスの生誕やユダの裏切りの教義の他、クリスマスの行事など明らかにキリスト教の信仰が行われているにも関わらず、村民たちは自分たちが「キリシタン」であることを認識せず、「単に代々受け継がれてきた地元の信仰」であることを主張したと記録されています。
そして、結果的には「異教」とは見なされなかったのです。
このようにキリシタンたちの取り締まりが「疑わしきは罰せず」をベースとしていたため、キリシタンの根絶には至らなかったのかもしれません。
世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が私たちに問うこと
最後に、この世界遺産が私たちに問いかけていることを考えてみたいと思います。
「負の世界遺産」の側面がある
これまでお話ししてきたように、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」という世界遺産は当時の江戸幕府によって弾圧されたことで「潜伏」を余儀なくされたキリシタンたちが、独自の形で信仰を続けたことを示す遺産です。
このように世界に類を見ない形でキリスト教の信仰が行われた裏側には、時の支配者による信仰の自由が阻害、時には残酷なまでの拷問や迫害の歴史がありました。
この点で、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は「負の世界遺産」の側面を持っていると考えられます。
「負の世界遺産」とは、正式に定められたものではないですが、人類の過ちなどを教訓として後世に引き継ぐために登録された世界遺産のこと。日本では原子力爆弾の悲惨さを今に伝える広島の原爆ドームが有名ですよね。
九州には世界遺産に登録されていないキリシタンゆかりの場所が数多く存在し、今では観光スポットの1つになっている雲仙地獄という場所も、キリシタンの拷問が行われた場所としても知られています。
世界遺産だけでなく、このような場所を訪れることで、当時を生きたキリシタンたちの本当の姿が見えてくるのではないでしょうか。
信仰と人間の尊厳
世界遺産・「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が私たちに示しているのは、信仰がもたらす信念の強さと同時に、人間の持つ残酷さではないかと思っています。
信仰を拠り所にすることで人は強くなり、一方でそれを認めない権力者や支配者たちはその信仰を奪おうと、より過激な攻撃に打って出る-。
「信仰が本当なら、神が存在するなら、今こうして迫害されているキリシタンたちをなぜ神は救わないのか。」
迫害する者たちはこのような挑発をしていたかもしれません。
「神は私たちに無駄な試練はお与えにならない。いつも我々と共にある。」
そう信じながら、キリシタンたちは厳しい時代を生き抜いたのかもしれません。
この世界遺産に限らず、世界には信仰や思想とそれに対する迫害の歴史が数多く存在します。迫害だけでなく、宗教間の争いも現在でも続いています。
技術や文明が発展し、IT、SNS、ドローン、AIなど最先端のテクノロジーが登場しても、宗教や信仰というものは無くなりませんし、それによる衝突や攻撃も変わらず行われています。
なぜでしょうか。
筆者が思うに、宗教や信仰は、もっと深い人間の根本や存在意義、尊厳といったものと繋がっているからなのではないでしょうか。
信仰も、それに対する執拗で残酷なまでの迫害や攻撃も人間しか為しえない行為です。
この世界遺産は、そんな問題を私たちに問いかけている気がします。
ぜひ読んでおきたい!遠藤周作の「長崎キリシタン三部作」
長崎やキリシタンと切っても切れないのが遠藤周作です。
彼はキリスト教や長崎、そしてキリシタンを題材にした小説を数多く出されました。
特に有名なのが「長崎キリシタン三部作」とも呼ばれている「沈黙」、「女の一生(一部)」、「女の一生(二部)」です。沈黙は映画にもなったことでも有名です。
「沈黙」は江戸時代初期、島原の乱の後に一気に厳しくなったキリシタン弾圧の時代を、宣教師の視点から描いています。
「女の一生」は一部が先ほどご紹介した浦上四番崩れからキリシタン禁制が撤廃されるまで、二部が太平洋戦争を生きるキリシタンを描いています。
いずれの作品も、信仰を持つ者と持たない者が時代に翻弄されていく姿を通じて、信仰とは、人間の強さ・弱さとは何かを問いかける名作です。
世界遺産を知るだけでなく、素晴らしい名著としてぜひお読みください。
いかがでしたでしょうか。
日本で唯一のキリスト教に関連する世界遺産、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」。
時代は進んでも世界が分断されている現在だからこそ、この世界遺産が私たちに教えてくれることがたくさんある、そう感じて頂ければ嬉しいです。
(参考:「潜伏キリシタン」大橋 幸泰 講談社学術文庫)