日本の世界遺産の1つ、熊野古道。
古くから神聖な場所とされ、その起源は飛鳥時代にまで遡ります。
そもそも熊野古道はなぜ、日本人にとって信仰の対象となった道なのでしょうか。
今回は、
・熊野古道の概要
・熊野古道の歴史
・熊野古道と八咫烏
・熊野三山
にスポットを当ててお話します!
熊野古道の歴史&豆知識①熊野古道が世界遺産に登録された理由は?
熊野古道は世界遺産ですが、正式には世界遺産の一部です。
「紀伊山地の霊場と参詣道」
それが正式な世界遺産の名称です。これには3つの霊場と参詣道が含まれます。
霊場 | 参詣道 |
吉野・大峰 | 大峯奥駈道 |
熊野三山 | 熊野参詣道 |
高野山 | 高野山町石道 |
(地図出典:http://www.sekaiisan-wakayama.jp/know/sankei.html)
上の地図のように、熊野古道を含む世界遺産は、三重県、奈良県、和歌山県の3県にまたがるとても広大なエリアとなっています。
なお、熊野古道を含む世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」は、世界「文化」遺産です。
その豊かな自然と神聖な雰囲気から、自然が世界遺産かのように思えてしまいますが、富士山同様、このエリアに対する古代からの日本人の深い信仰と畏怖の念、そしてそれによって形成されたさまざまな文化遺産が世界遺産として登録されています。
【世界遺産】熊野古道の歴史&豆知識②熊野古道の5つの参詣道
(出典:Wikipedia)
熊野古道は現在では下記の5つの主要な参詣道から構成されています。
・紀伊路
・中辺路
・小辺路
・大辺路
・伊勢路
この内、中辺路は紀伊路の一部でもあります。
つまり、大動脈となっているのは紀伊路と伊勢路であり、それと熊野三山を結ぶ道として小辺路、中辺路、大辺路があります。
このように、一口に熊野古道といってもそのルートは枝分かれしており、一本道ではありません。
なぜでしょうか。
その理由として、熊野古道は主に平安時代からその参詣が始まり、江戸時代に至るまで時代の変遷とともに、その参詣者とルートが変化していったことが挙げられます。
この点、同じ世界遺産の富士山ととても似ていますよね。(富士山についてはこちらをご参照ください。)
それでは歴史とともに熊野古道が日本人にとってどのような場所であったのか、見ていきましょう。
【世界遺産】熊野古道の歴史&豆知識③熊野古道の歴史
熊野古道に対する信仰と世界観
(出典:higashikishu.org)
熊野古道は現在では上記写真のように、真っ直ぐに伸びた木々の中にある、山中の参詣道というイメージが強いかと思います。
上記の写真からも荘厳な雰囲気が伝わってくるようです。
今ではスギやヒノキなどの木々が生い茂っている熊野古道ですが、昔はスギやヒノキではなく、ナラやカシ、ブナ、クスノキといった広葉・照葉樹林に覆われた場所だったと言われています。
「生い茂っている木が変わっただけでしょ?」
とお思いの方、確かにその通りなのですが、生い茂る木が変わるだけでその雰囲気は一変します。
(ブナで覆われた森林 出典:muku-mokuzai.livedoor.biz)
広葉樹林で曲がりくねった木に囲まれた深い山々。そこは、昼間でも日の光が届かない暗闇の世界だったかもしれません。
遥か昔、このような深い山々が続いていた紀州熊野は黄泉の国と言われ、死者が住むという異境の地でした。そんな異境の地に古代の人びとは、来世の再生に続く理想郷を求めたのです。
もともと日本に根付いていたアニミズム(全てのものに霊魂が宿っているという考え)と、早くから日本に伝承された仏教の浄土信仰(極楽浄土への往生を願い、それを仏教に求める考え)が合わさって、熊野は古くから日本人にとって神仏混合の壮大な信仰世界だったのです。
つまり、熊野古道という来世へ続いているかのような聖なる道を、仏教への信仰を念じながら歩くことで、極楽浄土への往生が叶う、と信じていたんですね。
飛鳥・奈良時代~平安時代
熊野詣の対象は皇族・貴族
熊野は飛鳥、奈良時代からも天皇が行幸した街道として使われていましたが、この時代はそれほど熊野信仰というものは確立されていませんでした。
それでも奈良時代の終わりごろから徐々に、修験の場としての認識が高まってきます。
そして平安時代に入り、熊野詣は貴族によって盛んに行われるようになりました。
平安時代には、修験者の道として多くの貴族が数十日にも及ぶ時間をかけて、参詣に訪れました。
先ほど説明した熊野の深々とした山々に加え、当時日本の都が京都にあったため、熊野は京の都から近すぎず遠すぎず、でも京や大阪からはなおも辺境の地だったため、熊野は深い信仰の場所として根付くことになったのです。
この時代に熊野への参詣を特に多く行われたのが、後白河・後鳥羽上皇でした。二人ともその御利益にあずかるため、30回以上も熊野詣を行われたと言われています。
このように、平安時代にはまだ貴族の間でしか熊野詣は行われていませんでした。
なぜでしょうか。
それは、熊野詣には長い時間と、それを行うだけの財力が必要だったからです。このような事ができたのは、当時の貴族だけでした。
熊野詣のルート
平安時代の貴族たちの熊野への参詣ルートは紀伊路と中辺路でした。
この時代、貴族のルートとはいえ、簡単に参詣できては御利益にもあずかれないと考えられていました。
あくまで修験者としての参詣だったため、紀伊路は熊野古道の中でも難所が多く、難易度の高いルートとなっています。
また、この時代の貴族たちは、参詣の間、「王子」と呼ばれる休憩所で休憩がてら歌会を開き、和歌に興じていたと言われています。
上記の地図の中にもルートの節目節目に「王は子」と名前の付いた場所がたくさんありますよね。
皆さんも王子にたどり着いた際には、平安時代の貴族たちが歌会を開いていた姿を想像してみてください。
室町時代~江戸時代
熊野詣の対象は民衆へ
平安時代の度重なる貴族たちの熊野詣により、熊野詣は広く日本に浸透していくことになります。
室町時代になると、貴族だけでなく広く庶民や武士による参詣が盛んになり、あまりに多くの人々が参詣に訪れることから、「蟻の熊野詣」という言葉が生まれたほどでした。
江戸時代に入り江戸が日本の中心になると、庶民のルートもそれまでの西からのルートから、東から入るルートへと変わっていきます。
ちょうど熊野の東には伊勢神宮があったことから、伊勢参りに合わせて熊野にも参詣する庶民が増えました。
これによって開拓されたのが伊勢路です。
伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕さまへは月参り
この言葉は江戸時代の作られた十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に登場しますが、当時の庶民がいかに信仰深かったかを図り知ることができます。
新幹線がある現代でも、東京から伊勢に行くことはそれなりに時間のかかる旅になります。
ですが、新幹線も無かった江戸時代の庶民たちは、江戸から約450kmも離れた伊勢、そしてさらに遠い熊野までこれだけの回数を歩いて参詣していたのです。
それを考えるだけでも当時の日本人の信仰の深さというのは、我々の想像よりもはるかに強かったのではないかでしょうか。
身分の違いや貧富の差など自分ではどうしようもなかった厳しい時代の中で、信仰は人々に与えられた数少なかった権利だったのかもしれません(それでもキリスト教弾圧など、宗教の自由も満足に保証されていない時代です)。
そんな中で、大変ですが参詣をすればそれだけ救われる、という信仰は多くの人の心の支えとなっていたことでしょう。
伊勢路は庶民の参詣ルートであったことから、それまでの修験者の道の意味合いは薄れ、比較的平坦で歩きやすいルートとなっています。
【世界遺産】熊野古道の歴史&豆知識④熊野の象徴『八咫烏』
熊野の象徴といえば、上記写真の左に掲げられている旗に描かれた八咫烏(ヤタガラス)です。
なぜこの八咫烏が熊野の象徴となったか、そのエピソードを2つご紹介します。
八咫烏のエピソード
①烏は死者の清掃者
熊野は深い山々に覆われた異界の地。
日本では狩猟採集を主とする縄文時代の後、平地を切り開いて開拓、稲作を主とする弥生時代に入りますが、ここ熊野では、引続き縄文文化が根付いていました。
そんな縄文文化では、一般的な埋葬方法として水葬や風葬が行われていました。
古代から、カラスはこのようなしきたりの中で「死者の清掃者」として祀られ、それが熊野の象徴になったと考えられています。
②神を導いた伝道者
八咫烏は熊野本宮大社の主祭神である素戔嗚尊(スサノオノミコト)に仕えていたと信じられています。
そして、古代神武天皇が日本を統一した際に、熊野国から大和国への神武東征で導いた伝道者としての役割を担ったとも言われています。
普段ではあまり良い印象の無いカラスですが、ここ熊野ではその象徴として大々的に祀られています。
八咫烏の意味するもの
八咫烏の特徴、それは三本足であることです。写真の八咫烏のイラストをよく見てください、足が三本生えてますよね。
この「三」という数字、熊野「三」山では様々なところで重要になってきますのでよく覚えておいてください。
八咫烏の三本足は、天(神)・地(自然)・人を表していると考えられており、太陽の元で神と自然、そして人は一体の存在であることを意味しています。
八咫烏といえば、サッカーの日本代表のロゴマークに使われているシンボルでもあります。
写真を見ると、三本足のうち一つがボールをつかんでいます。これは日本をゴールに導く、という意味で八咫烏がふさわしいと判断されたことに由来します。
【世界遺産】熊野古道の歴史&豆知識⑤熊野三山の意味するもの
それでは、熊野三山について見ていきましょう。
熊野三山とは、熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三つを指します。
この熊野三山が意味するものを簡単にまとめてみました。
熊野本宮大社 | 熊野速玉大社 | 熊野那智大社 | ||
主祭神 | 家都美御子大神 (=素戔嗚尊) (スサノオノミコト) | 熊野速玉大神 (=伊邪那岐) (イザナギ) | 熊野夫須美大神 (=伊邪那美) (イザナミ) | 熊野夫須美大神 (=伊邪那美) (イザナミ) |
御神体/御神木 | 熊野川 | ナギの木 | 那智の滝 | |
神の司るもの | 川 | 舟 | 滝 | |
本地仏 | 阿弥陀如来 | 薬師如来 | 観音菩薩 | |
仏の司るもの | 未来 | 現在 | 過去 |
神話が意味するもの
「【世界遺産】紀伊山地の霊場と参詣道のスゴさが分かるマメ知識8選」
でも簡単に触れましたが、主祭神のお話をご紹介します。
スサノオという神様は、初めての夫婦神であるイザナギ(男神)とイザナミ(女神)から生まれた神様です。
イザナギとイザナミは多くの神を生んだ夫婦神ですが、イザナミは火の神であるカグツチを産んだ際に、大やけどを負い、黄泉の国へいってしまいました。
イザナギはイザナミを追いかけながらも、その後大変な思いをして黄泉の国から生還します。この時にイザナギノ両目と鼻から、アマテラス、ツクヨミとスサノオが生まれました。
この三神は三貴神とも呼ばれ、それぞれ、太陽・月・海を司ると言われています。(諸説あり)
この話は、「生まれ、結ばれ、産み、そして旅立つ」という生死の物語を表しており、スサノオ・イザナギ・イザナミを主祭神とする熊野三山はこの象徴であると考えることができます。
熊野三山の神が司るもの
熊野三山の神はそれぞれ、滝・舟・川を司っています。
まるで、「滝」から流れ出た水を「舟」に乗ってわたり、そして「川」へと出る、1つの流れが見えてくるようです。
それを表すかのように、「川」を司るスサノオを主祭神とする熊野本宮大社はかつて、熊野川・音無川・岩田川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる中洲にありました。
現在でも川の参詣道として熊野川の川下りがありますが、まさにこの流れにぴったりの参詣方法です。
「神仏習合」の象徴
さて、最後に本地仏についても少しご紹介しておきます。
熊野三山の神社と仏、というのは少し奇妙かも知れませんが、これが熊野古道を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産にも選ばれた最も重要な理由である、神仏習合の象徴なのです。
熊野古道は修験道の聖地としての地位を確立しました。
この根底にある考え方は、「苦難の行に耐えて信仰することで、浄土への道が開ける」という思想です。つまり、「苦労にも耐えて信じていれば、いつか御利益にあずかれる」という仏教の考え方があります。
このように、飛鳥時代から平安時代にかけて急速に広まった修験道と仏教が合わさって、神=仏とする思想が日本で生まれました。
このため、熊野三山ではスサノオを阿弥陀如来、イザナギを薬師如来、イザナミを観音菩薩として祀っており、三山で過去・現在・未来を救済するとの信仰が生まれました。
【世界遺産】熊野古道の歴史&豆知識⑥熊野三山の参詣は一ヶ所でも大丈夫?
さて、これまでのお話で熊野三山の意味するものをご理解頂けたことと思います。そして、熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社のそれぞれが固有の意味を持っていることも。
それでは熊野参詣ではこの三山すべてを参詣しなければ、ご利益にあずかれないのでしょうか。
実はその必要はなく、いずれかの大社に参詣することで三つの大社すべての参詣を兼ねることができるのです。
というのも、それぞれの主祭神スサノオ、イザナミ、イザナギはいずれの大社の神殿にも祀られているからです。
いかがでしたでしょうか。これで熊野古道、熊野三山の参詣がより思いの深いものになると思います。
なお、熊野三山の熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社は三社がセットで創建されたわけではなく、それぞれ固有の歴史を持ちます。
それにもかかわらず、このように三社が互いに融合して一つの大きな信仰を創り上げているのは少し不思議に感じてしまうほどです。そして、これこそが熊野が世界遺産に含まれる所以でもあるのです。
(参考:「古道巡礼」高桑信、東京新聞出版局 「日本の世界遺産を旅する」JTBキャンブックス 「地図で旅する日本の世界遺産 002」東京地図出版株式会社 「熊野三山」 Kankan JTBパブリッシング)