世界遺産の楽しみ方

【世界遺産】銀閣寺(慈照寺)に見る、「わび・さび」(侘び・寂び)の意味とは?

京都の世界遺産の1つ、銀閣寺(慈照寺)。一見地味な印象のお寺ですが、銀閣寺が遺した「わび・さび(侘び・寂び)」の心は、現在を生きる私たちにも美意識の1つとしていまだに通じるものがありますし、日本人のみならず世界にも広く知られています。

今回は、よく聞くけどイマイチピンと来ない「わび・さび」の意味するものを、銀閣寺から探ってみましょう。

1.わび・さび(侘び・寂び)の語源とは?

「わび・さび」という言葉はセットで用いられることが多いですが、「わび」と「さび」が意味するものはそれぞれ異なります。まずはこれらの言葉の語源から、言葉の意味を探ってみましょう。

わび(侘び)の語源

わび(侘び)の語源は、その響きから2つ考えることができます。

1つ目は、漢字が表す通り「わびしい」(侘しい)という形容詞での意味。「わびしい」という言葉を見聞きした時、皆さんはどんなイメージを持つでしょうか。
筆者は何となく貧相で何かに満たされない、何か物足りない状況にいて、心がちょっと切ない、そんなイメージを持ちます。

2つ目は、同じ「わび」という響きが入る「わびる」という動詞です。漢字で記載すると「詫びる」ですね。
こちらの方がイメージはしやすいですよね。何か自分に至らないところ、非があり、その申し訳ない気持ちを言葉や態度で表している様子です。
日本人の場合、よく頭を下げて平謝りしている光景がぱっと思いつきます。

さび(寂び)の語源

続いて「さび」という言葉。こちらも語源を考えてみると、いくつかの言葉に行き当たります。

1つ目は、漢字の表記の通り「寂しい」という意味。この意味は皆さんも日常の中で感じることがあるのではないでしょうか。
どんな時に「寂しい」と感じるか、筆者は考えてみると寂しいという状況がそれ単独で成立しているというよりは、対比となるものがあって、それを考えると「寂しさ」が生まれるというイメージを持ちます。

一人でいる時、街に人の姿もまばらで何となく活気がない時、そんな時に寂しさを感じるのは、「いつもの自分」や「いつもの街並み」を知っているからではないでしょうか。過去と比べて、であったり、違う状況と比べて、であったり、先ほどの「侘しい」と同じように、普段の満たされた時と比べて状況が変わってしまった時、「寂しさ」を感じるのかもしれません。

2つ目は「荒」という漢字を充てた「さび」です。「すさぶ」という言葉は漢字にすると「荒ぶ」ですが、ここから「さび」という言葉も導くことができます。

「荒」という漢字をみると、どこか野性的で荒々しい(まさに漢字の通りですが)イメージがあると思います。
また、「荒れ果てた」という言葉を聞くとき、すさんだ状況が目に浮かびますが、これも先ほどの「寂しい」と同じように、「元々あった姿から変わり果ててしまった」という前提があるはずです。
「荒野」であれば、緑豊かだった姿から一変し、「荒屋」であれば、誰かが暮らしていた家を想像することができます。

3つ目は「さびる」(錆びる)という言葉。金属が錆びつくイメージを持っていただくと一番分かりやすいですよね。
どこか古ぼけてしまい、以前のようには動かなくなってしまった-。これも先ほどの「寂しい」や「荒ぶ」と似たようなイメージを持っていることが分かります。

わび・さびの語源が意味するもの

「わび」と「さび」について語源を考えてみましたが、ここから2つの言葉が持つイメージをもっと抽象的に表してみようとすると、以下のようになるのではないでしょうか。

「わび」とは、

・何かが足りない/欠けている
・「静的」な状態

を言い、

「さび」とは、

・盛りを過ぎた/老いた
・「動的」な状態(=「時の経過」が浮かび上がる)

を言う。

いかがでしょうか。いずれにしても、どちらかというとマイナスなイメージが先行してしまいますよね。一方で「わび・さび」(侘び・寂び)と私たちが言うのは、どちらかというとプラスや称賛の意味を持っての場合が多いと思います。

いったんここまでのお話を心に留めつつ、銀閣寺(慈照寺)とそれを創建した足利義政の話をご紹介します。

2.【世界遺産】銀閣寺(慈照寺)と「わび・さび」(侘び・寂び)の誕生

銀閣寺庭園

「わび・さび」(侘び・寂び)が文化として誕生したのは銀閣寺(慈照寺)を創建した足利義政の時代、室町時代の後期に花開いた東山文化でした。年代で言うと、15世紀の中旬から後期、1440年~1490年頃になります。

東山文化の東山とは、銀閣寺が創建された場所にちなんだ言葉であることからも分かるように、銀閣寺は「わび・さび」を生み出した東山文化の中心的な存在と言えるでしょう。

まずは銀閣寺を創建した足利義政の心情と当時の情勢から「わび・さび」が誕生した背景を探ってみましょう。

足利義政と応仁の乱

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こちらの記事でも少しご紹介した通り、銀閣寺を創建した足利義政の生涯というのは、どちらかというと苦難の生涯と言えます。

まず僅か5歳の時に、父であった足利義教が守護大名の赤松満祐に暗殺されます。おそらく政治手腕もあった父の足利義教は、その強引すぎる支配により恨みや反発を買うことも多かったと思われ、暗殺はそんな義教が辿るべくして辿った末路かもしれません。

その後に将軍職を継いだ義勝も若くして亡くなり、その後継者、8代将軍として白羽の矢が立ったのが義政でした。
これも義政からすると、青天の霹靂であったことでしょう。

その後、なんとか将軍として政権を握った義政でしたが、その跡継ぎ問題がきっかけで京の都が焼け野原と化す応仁の乱が勃発したことはあまりにも有名です。
ですが、応仁の乱はどちらかというと守護大名であった細川勝元と山名宗全が主導した争いだったことを考えると、すでにこの時点で将軍としての義政の権力や存在感は地に落ちていたのかもしれません。

義政はまさにこの応仁の乱の直後に銀閣寺の造営に取り掛かるわけですが、義政はどのような心持ちでこの一大プロジェクトに臨んだのでしょうか。

足利義政が銀閣の造営に直面した「壁」

義政の生涯と当時の状況から考えると、義政が銀閣の造営に当たって直面していた2つの「壁」があったと想像できます。

銀閣寺造営のための資金難

1つ目は銀閣寺を造営するための資金調達に苦慮していたこと。

応仁の乱の直後で京の都は荒れ放題。さらに、義政は銀閣寺の造営に着手するに当たって、その将軍の座を息子の義尚に譲っています。
すでに足利家としての権力や勢いも衰えており、将軍の身からも退いた義政に、思いのままに銀閣寺を造営するに十分な資金はありませんでした。

祖父:足利義満が創建した金閣寺との比較

義政が銀閣寺を造営するにあたって、祖父である義満が造営した金閣寺は嫌でも目に付く存在だったことは想像に難くありません。

かたや足利将軍の室町時代全盛期を築いた義満と、かたや衰退の憂き目に直面している義政。根っからの文化人だった義政と義満では求める「理想」は違っていたのかもしれませんが、今も残る銀閣寺の楼閣、観音殿はどう考えても金閣寺の舎利殿を意識したものとしか思えません。

足利義政が銀閣に託した「わび・さび」(侘び・寂び)の心

お金の問題と、金閣寺という祖父・義満の偉業。

この2つをよくよく考えてみると、最初にご紹介した「わび・さび」に繋がってくると思いませんか?
つまり、お金がない=わび、祖父・義満の全盛期からの衰退=さび、という関係です。

義政が銀閣寺の造営時に直面していた二つの壁が、まさに「わび・さび」の源泉だったと言えるわけですが、それでは義政はその語源の通り、当時自らが置かれた境遇に悲観し、打ちひしがれながら銀閣寺を創建したのでしょうか。

義政の本意は今となっては分かりません。ですが、少なくとも筆者は義政は悲観的というよりは、むしろその逆で、ある意味開き直りの強い意志をもって銀閣寺の造営に取り組んだと感じます。
なぜなら、応仁の乱の直後で都も荒れ果て、民衆は明日を生きるのも精いっぱいの苦しい時代、そんなさなかに自分の趣味とも言えるような隠居の邸宅である銀閣山荘の造営に突き進むというのは、普通の精神では到底できません。

普段私たちが楽しむ芸術や音楽、スポーツといった文化は、平和があってこそ心から楽しむことができること。応仁の乱の直後で日本全体が荒れ果て、疲弊している中では文化を楽しむ余裕を持つことは難しいでしょう。
ましてや現代ではなく、食べるモノにもありつける保証が無かった当時ならなおさらだと思います。

そんなさなか、義政は可能な限りの資金と労力を、銀閣寺の造営につぎ込みました。そこには、単に文化や芸術を好むという生半可な姿勢ではなく、文化こそが人々の心に平穏と豊かさをもたらし、戦をも超えた存在であることを証明しようとしていたかのような、ある意味で憑りつかれた人間の姿が想像できるのです。

それでは、そんな義政の創建した銀閣寺で「わび・さび」(侘び・寂び)を感じる場所をご紹介しましょう。

3.【世界遺産】銀閣寺(慈照寺)に見る「わび・さび」(侘び・寂び)

今私たちが観ることができる銀閣寺の姿は、義政が造営した当初の銀閣山荘のごく一部であり、また義政の死後、後世に人の手が加えられた部分も含まれており、義政が造営した当初の姿を目にすることはできません。

今回は、そんな銀閣寺の中でも特に有名であり、国宝にも指定されている観音殿と東求堂から「わび・さび」(侘び・寂び)の心を探っていきたいと思います。

東求堂・同仁斎

銀閣寺:東求堂(国宝)

国宝にも指定されている東求堂は、元々は「持仏堂」と言って阿弥陀如来をお供えするための建物でした。現在は外からこの建物を眺める事しかできませんが、東求堂の内部は、阿弥陀如来をお供えする仏間を含む4つの部屋から成り立っています。

その中でも特に有名なのが、「同仁斎」という名前の付いたわずか4畳半の部屋。なぜこの部屋が有名かというと、ご存じの方も多いかと思いますが、日本最古の書院造の部屋と考えられているからです。
正確に言うと、書院造が生まれた部屋、とも言えるでしょう。

この同仁斎には「わび」(侘び)の心が演出されているのですが、それを1つずつご紹介します。

付書院の障子窓

書院造の「書院」とは、部屋の中に本を読んだり、物書きをするために設けられた小スペースを指しますが、書院造の形式はその後日本全国に広がる中で、「床の間」といったスペースも生み出しました。

上の写真で言うと、掛け軸と小さな置物が置いてあるスペースが床の間です。

同仁斎ではまだはっきりとした床の間、というものはできておらず、このスペースは掛け軸が飾られる壁の代わりに付書院と障子窓が備え付けられています。

なぜ障子窓か-。

それは、障子窓を少し左右に開いたとき、その外側にある庭園がちょうど開いた長方形の枠の中に、まるで美しい絵画のように切り取られた形で目に入ってくるからなんです。

つまり、外に広がる庭園をまるで掛け軸の代わりに目で楽しむことができる、というわけです。このような演出だと、四季が移り変わるごとに姿を変える庭園の姿も楽しむことができますよね。

ちなみに、付書院の障子窓は本来は読み書きを行うために十分な光を部屋の中に差し入れるために造られたものです。

違い棚と付書院の機能

同仁斎には付書院の隣に、段違いの棚が設置されています。これを「違い棚」と呼びますが、先ほどの写真の左半分の中央に取り付けられている段違いの棚が違い棚です。

高い方の棚には筆や香炉、低い方には壺や巻物、印判や硯といったものを置くとされていたようですが、筆や硯などは付書院のための道具、と言えるでしょう。

それでは違い棚と付書院の意義とはどこにあるのでしょうか。筆者が思うに、「実用性と赴きを兼ね備えること」だと考えます。

付書院は先ほど申し上げた通り、読み書きを行うスペースであり、そのための筆と硯もちゃんと違い棚に用意されています。それに加えて、香炉やその他のちょっとした飾りというのは、単に「書斎」という空間にとどまらず、そこに生活や日々の暮らしの中で見出す「趣」を演出するためのものです。

書斎というのはどちらかというと集中する部屋、趣の部屋というのはリラックスする部屋というイメージがありますよね。
この一見相反する2つの要素を融合させたものが、違い棚と付書院ではないでしょうか。

4畳半という広さ

最後に、同仁斎の広さは4畳半となっています。ちなみに他の3つの部屋はそれぞれ4畳、6畳、8畳(仏間)となっており、同仁斎だけが4畳に加えて半畳という一見すると中途半端な広さになっています。

この意味するところは何でしょうか。

4畳半という広さは1人で利用するには狭くもなく、広くもなく、2人だとちょっと窮屈かな、という印象です。また、もともと東求堂は義政が晩年暮らした場所であることを考えると、同仁斎も1人で利用することが前提のようにも思えます。

1人だと他の部屋と同じように4畳とすることもできたはずですが、あえて半畳を加えたというのは、ある意味で「余剰の美学」とも言える可能性を持たせるためではないでしょうか。
つまり、1つの使い方、捉われ方に限定されないようにあえて余白を作ることで、実際の見た目以上の空間演出を行う、ということです。

1人用とも言い切れず、2人用とも言い切れず、ではどのように使えるだろうか-。
これも先ほどの付書院と違い棚に通ずる部分で、例えばスペースを狭くすればそれだけ集中する空間になり、自分と向き合うスペースとも言えます。そのようなスペースでは付書院のみがフィットするのではないでしょうか。
一方で広すぎると、逆に実用性の面で不便になり、それであれば「趣」の空間とした方が有効な気がしませんか?

付書院と違い棚が相反するものの融合であるように、4畳半という広さも、集中する「内向的」な空間と、「趣」を感じる「外交的」な空間が合わせて成り立つ絶妙な広さなのです。

同仁斎から読み解く「わび」(侘び)の心

いかがでしょうか。同仁斎のデザインと演出をざっとご紹介しましたが、ここから「わび」(侘び)の心が何となく感じ取れたのではないでしょうか。

筆者が考える「わび」とは、端的に言ってしまえば、

「いかに最小限の有りもので、最大限の世界を表現するか」

ということ。

ご紹介してきたように、同仁斎にある物と言えば、違い棚に置かれた数えるほどの物だけ。ですが、それらが示すものは筆や硯といった実用的な物だけでなく、壺や香炉といった趣の物。そして、立派な掛け軸や絵画が無い代わりに、庭園の景色を「拝借」して楽しむ。

いろいろな楽しみ方ができるように、その広さにもこだわりを持つ。

いかがでしょう。質素かと思いきや、じっくりと味わってみると様々な世界と奥行き、そして可能性を探ることができる空間ではないでしょうか。

これが「わび」(侘び)の心だと思うのです。

観音殿

銀閣寺:観音殿(国宝)

銀閣寺のシンボルと言える、楼閣の観音殿。

先ほど、銀閣山荘を造営した義政が嫌でも向き合わざるを得なかったと思われる2つの「壁」をご紹介しましたが、この観音殿は少なからず、祖父である義満が造営した金閣寺の舎利殿を意識して造られているものと思われます。

義政の死後、本人がそれを見越していたのかは定かではありませんが、いつしかこのお寺が金閣寺に相対して銀閣寺、と呼ばれるようになったのも、この観音殿の存在が大きいでしょう。

観音殿には銀箔が貼られていた?

金閣寺と相対する存在として銀閣寺、という呼び名が付いたことから、金閣寺の舎利殿に金箔が貼られていたように、銀閣寺の観音殿にも当初は銀箔が貼られていたのではないか、という説があります。

ですが、近年の科学調査で造営時当初から銀箔が貼られていた形跡が無いことが判明しています。

ここまでお読みいただいた皆さんなら、「わび・さび」の心を持っていた義政が、観音殿の外壁に銀箔を一面に貼り付けるなんて姿はイメージがつかないのではないでしょうか。
筆者は、「わび・さび」と銀を外壁一面に貼り付ける、というのは違和感を感じてしまうので、当初から銀箔が貼られていなかった、という事実を確認して「そうだろうな。」とどこか納得してしまいました。

銀箔は貼られていませんでしたが、観音殿の上層部は当初、その内外共に黒漆塗りだったと言われています。

観音殿の修繕工事エピソード

観音堂を近くで鑑賞したとき、思いのほか上層部の外壁がところどころ剥げていたりするのを見ると、「何だかボロボロだなあ・・」と感じた方もいらっしゃるかもしれません。

庭園の小高い坂の上から、緑に囲まれた中にひっそりと佇む観音殿を眺めるとどこか優雅で贅沢な気分に浸ったものですが、間近でみると何だか「現実を見た」気がして、程よい距離からの眺めを好まれる方も多いと思います。

この観音殿は以前、その老朽化を防ぐ目的も兼ねて、上層部の外壁を造営当初のように黒漆で塗る計画が持ち上がったことがありました。
ですが、銀閣寺側の「今の外観そのままにしておきたい」という強い意向によって、この補強工事は立ち消えとなっています。

銀閣寺に限らず、日本のその他の世界遺産についても老朽化から遺産を守るため、改修工事に着手しているものもいくつかあります。
世界遺産の登録及び、その考え方として、改修工事を行うにも創建された当初の技術や材料を継承する「真正性」という観点が重要視されているため、改修工事によって全く別の姿になることはありませんが、歴史ある建造物がピカピカに生まれ変わった姿を見ると、どこか複雑な思いを持たれる方もいらっしゃるでしょう。

一方で造営当時、その時の人々の目にはどのように映っていたのか、その姿を観てみたい、という気持ちもあり、今の姿をそのまま残すか、当初の姿をよみがえらせるか、というのは難しい議論です。

観音殿に見る「さび」(寂び)の心

これまでのお話、エピソードを踏まえて、何となく「さび」(寂び)の意味するものが分かりかけてきたのではないでしょうか。

金閣寺の舎利殿のように、観音殿に銀箔を塗らなかった義政。一説では単に財政的な余裕がなかった、との説もありますが、筆者はあえてそうしなかったと考えます。

化学を専攻されていた方ならご存じの通り、金というのはそうそう劣化・変形するものではありません。だからこそ、そこには「永遠性」というイメージが付きまといますし、何より舎利殿を造営した義満の意向にも相応しいのです。

一方、銀閣寺の観音殿は時と共にその姿は風化して少なからず変化し続け、今では創建当初と随分違った見え方になっているのではないでしょうか。
この「時と共に変わっていく姿」というのは、ある意味で「味・渋み」が出るとも言えるでしょう。

そうです、ここに「さび」の心があるのです。

先ほど、観音殿の上層部の改修工事が立ち消えになった話をご紹介しましたが、それもまさに「さび」の心から来たものではないでしょうか。

義政は、単に一時の美しい情景を創ることだけにこだわったのではなく、それが時と共に変化していく様をも楽しもうとしていたのではないかと思うのです。

もし皆さんが、「歴史あるモノは何だか味が出ていて良いのであって、それを真っ新に変えてしまうのはどこか寂しい」と感じることがあれば、それは「さび」の心から来ているものかも知れません。

4.【世界遺産】銀閣寺(慈照寺)から知る「わび・さび」(侘び・寂び)

いかがでしたでしょうか。
この記事の最初に「わび・さび」の語源からお話をしましたが、ここまでお読みいただけたら、その印象がガラッと変わっているのではないでしょうか。

最後に「わび・さび」を端的に表現するとすれば、
「わび」とは身の回りにあるありふれたもので、無限の世界と余白を創り出す心。
「さび」とはものの中にある時の経過による移り変わりや変化に目を向け、それを楽しむ心。
と言えるでしょう。

私たちが生きている今の世界は、豊かさやモノに溢れ、目まぐるしく新しいものが出てきては消えていく時代です。

「インスタ映え」という言葉にあるように、見た目でパッと分かるインパクトが広く受け入れられる現在において、「わび・さび」というのは徐々に失われつつあるのかもしれません。ですが、だからこそ銀閣寺が私たちに伝えてくれているモノはこれからどんどん貴重なものに変わっていくことでしょう。

「銀閣寺って何だか普通だなー。」

そう言われることもしばしばある銀閣寺。ですが、それは義政が生み出したこの銀閣寺が今の私たちにも通じる、圧倒的な普遍性を持っているからと言えます。よくよく考えると、それがどれだけすごい事か、じわじわと実感が湧いてきませんか。

そんな銀閣寺が、もしかすると100年後には

「これが銀閣寺か!」

というサプライズと新鮮さを持って日本人に見られるようになれば、その時には私たちの中に「わび・さび」に変わる新たな普遍性が生まれているということなのかもしれません。

 

(参考:「銀閣の人」門井慶喜 角川書店、「誤解だらけの日本美術」小林泰三 光文社新書、「侘び寂びの哲学」平井崇 国書刊行会)

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