栃木県日光にある世界遺産、日光東照宮。
江戸幕府を開いた徳川家康を祀っていることでも有名ですが、華やかで色とりどりの彫刻が飾られている荘厳な建物は一度観ると忘れられません。
今回はそんな東照宮について、
・東照宮が創建された理由
・日光という場所の意味
・多くの彫刻に隠された意味
をお話します!
彫刻や御利益等のマメ知識①世界遺産:日光東照宮の創建のヒミツ
神社が祀っているもの
日光東照宮は、江戸幕府を開いた徳川家康(東照大権現)を祀る神社であることは皆さんもご存じかと思います。
ですが、神社と言えば普通は神様を祀っている場所であって、日光東照宮のように実在した人物を「神」として信仰することは、考えてみると少し不思議な感じがしませんか。
このような神社が全く無いわけではありません。例えば、学問の神様と言えば、菅原道真公をお祀りしている太宰府天満宮が有名ですよね。
同じく実在した人物を祀っている神社という共通点がある一方で、東照宮と天満宮には明確な違いがあります。
それは、神様として祀っている理由です。
菅原道真公は、藤原時平の策略により無実の罪で大宰府に流され、そこで亡くなってしまいます。その後、藤原時平が若くして亡くなったり、大きな自然災害が立て続けに起こり、人々は道真公の怨霊による祟りだ、と信じるようになりました。
そこで、道真公の祟りを鎮めるために天満宮が創建されたと言われています。
このように、ある人の死後、その人の怨霊による祟りを鎮めるために神社が創建された例は多くあります。ですが、徳川家康を祀っている日光東照宮はこのような事例とは明らかに違います。それを順を追ってご説明しましょう。
なぜ、家康が祀られたのか?
家康を神として祀ることのきっかけは、実は家康自身が残した遺言にあります。
家康は自分の死後、
「遺体を久能山に埋葬し、一周忌が経った後、日光に小堂を建てて自分を祀る」
ように命じていたのです。
この遺言が意味するところは1つずつひも解いていくとして、現在の日光東照宮を訪れると、「小堂」どころか荘厳なたたずまいに圧倒されてしまいます。
実は、家康の後を継いで2代将軍となった秀忠はこの遺言の通り、日光に家康を祀る小堂を創建しましたが、その後、家康に心酔する3代将軍家光により大掛かりな改修が施され、現在の姿になりました。
それではなぜ、家康は自分のことを神として祀るように言い残したのでしょうか。
家康を神として祀ることの意味
長らく続いた戦国時代において、大名が自分を神として祀るように指示することは、珍しいことではありませんでした。
例えば、織田信長は安土城において、自分が神としての存在であることを示すため、天守を”天主”と呼ばせたと言われています。”主”とはキリスト教における神やイエス・キリストのことですね。
別の例を挙げると、豊国神社はその名の通り豊臣秀吉を祀った神社です。
このような戦国時代からの流れの中で、家康は自分を祀る神社の創建を指示したと考えられます。
ではなぜ、このような潮流が生まれたのでしょうか。考えられる理由をご紹介します。
浄土信仰から、現世信仰へ
平安時代後期から末法思想が広まると同時に、死後の世界に救いを求める浄土信仰が一気に広がりました。
ですが、争いが絶えなかった戦国時代において、人々は死後の世界を夢見るよりも、むしろ現実の世界を平和に導いてくれる存在を願うようになります。
大河ドラマなどでも、戦国時代で大名たちは争いに身を置く意義を、「太平の世を築くため(=平和で争いの無い世の中を創る!)」という大義に求めました。
つまり、太平の世を築くことが出来た者は、まさに人々から神のように崇められても不思議ではない存在であったわけです。
そして、徳川家康は200年も続く江戸幕府の礎を築き、まさに「太平の世」を日本にもたらした人物。
ここに、家康が神として祀られ、実際に人々から信仰の対象として崇められる理由があるのです。
ですが、家康の思惑はそれだけにとどまらないと考えられます。
家康は太平の世を築いた自分の偉業だけでなく、そのような江戸の時代が長く続くことを願っていたことは間違いないでしょう。
平和な時代が長く続く上で、人々が共通の信仰を抱いていることは、国にまとまりが生まれ、安定しやすい状況を作ります。
家康は、日本の民衆の中に共通の信仰が生まれることまで見越して、その対象として自分が神になることを選んだと思うのです。
彫刻や御利益等のマメ知識②世界遺産:日光東照宮がパワースポットのヒミツ
東京都心から日光まで、電車で2~3時間はかかります。
この長い時間をかけて日光に到着すると、
「なぜ家康は、江戸からこうも遠く離れたこの地を選んだのだろう?」
という思いが自然と湧き出てきます。
今でも日本有数のパワースポットとして知られる日光。この地を家康が選んだ理由は、どこにあったのでしょうか。
家康が作り上げた思想世界
さて、家康が残した遺言によると、家康の遺体は久能山に埋葬されています。そして、自分が神と祀られるように日光の場所を選びました。
ここに隠された家康の意図とは何でしょうか?分かりやすいように、地図上に表してみました。
以下にお話しする内容は、あくまでも考え方の1つとしてお考え下さい。
京都~岡崎~久能山ライン
岡崎というのは、家康の生誕の地です。家康はもともと、松平氏の嫡男として岡崎城で産声を上げました。
久能山は京都、岡崎と並んで直線上にある場所です。ここを自分の埋葬の地と選んだ意味は何でしょうか。
京都から見て、岡崎、久能山は東の方向にあります。
東と言えば、太陽が昇る場所。つまり、天皇も含めて京都にいる人々は、太陽が昇る東の方向に、家康の誕生と埋葬の地を毎日拝むことになります。逆に言えば、家康は埋葬された久能山から西にある京都を見下ろす存在でもあるわけです。
誕生した岡崎と合わせて埋葬された場所を同方向に持ってくることで、京都に対して否応にも自分の存在感を示そうとした家康の思惑が見えてきそうです。
久能山~富士山~日光ライン
家康が埋葬された久能山と、神として祀られた日光の間には富士山が位置しています。
ここにはどんな意味が隠されているのでしょうか。
家康は死後、久能山に埋葬されたものの、そこから富士山を通って、神として日光の地に舞い降りる-。
そんなストーリーが見えてきそうです。
富士山は、まさに”不死”山とも考えられ、また古くから日本の人々にとって信仰の対象であった場所です。そこを通ることで、埋葬された家康は神としての存在に昇華する。そして、人々の信仰の対象たる存在になる。
そんな家康の思いが見えてきますね。
日光~江戸ライン
日光は江戸のちょうど北側に位置しています。これにも意味がありそうです。
古くは平城京から、天皇は北に座して、南に臣下たちと対面するという中国からの思想がありました。このように、「北」は最も重要な方角であるとされていたのです。
全ての星の中で、一年を通じてその位置を変えない北極星の存在があったからかもしれません。
そこから考えると、江戸の北側にある日光に家康が祀られるということは、家康が江戸に対する守り神として見られることを意図していたと考えられます。
東照宮での社殿配置
実際に、東照宮の本殿は真北に置かれていて、北極星はちょうどこの本殿の真上に光り輝いています。
そして、神橋は先ほどの久能山~富士山ラインの方角を向いています。
さらに、東照宮を訪れると分かりますが、真北に位置する本殿は、参道の先にあるのではなく、鳥居を抜けたあと、一度左に曲がることになります。
このように、参道は本殿とは少しずれた方角を向いているのですが、こちらは江戸に向けて造られたと考えられています。
忍耐強く生き抜き、ついには天下統一を果たした家康らしく、東照宮創建の場所に日光が選ばれたことにも、様々な意味が含まれていることがお分かり頂けたと思います。
彫刻や御利益等のマメ知識③世界遺産:日光東照宮の彫刻に隠された意味
東照宮の一番の見どころは、やはり陽明門や唐門など、主要な社殿に装飾された、おびただしい数の彫刻ではないでしょうか。
サルや鶴といった実在する動物から、鳳凰や龍などの架空の霊獣、草木に昆虫、さらには人物まで、彫刻が描いているものはバラエティ豊かです。
ただ荘厳な雰囲気を出すためだけにこのような細かな彫刻が施されたわけではありません。そこにはもちろん、深い意味が込められているのです。
順を追ってお話ししましょう。
彫刻の数と種類
東照宮にある彫刻の数はどれくらいかご存知でしょうか。
29もの社殿に彫刻が施されており、その数、なんと5,000体を越えています(総数:5,173体)。
寺院を歩いてみると、東大寺や法隆寺ほどの広さは感じません。社殿の数と彫刻の数を比較すると、いかに1つの社殿に多くの彫刻がなされているかがお分かり頂けるかと思います。
また、29の社殿はもちろんそれぞれで、彫刻の数が異なっていますが、最も多くの彫刻がされているのは本殿(1,439体)です。次いで、拝殿(940体)、唐門(611体)、陽明門(508体)と続きます。
ここから、重要な社殿にはより多くの彫刻がなされ、本殿に近づくほど彫刻の数を多くしているものと推測できますね。
干支のヒミツ
寅・卯・辰
東照宮に描かれている実在の動物の内、一番多く描かれている動物が虎です。
虎と言えば「龍虎」のように、龍とセットで描かれたりするなど、強さの象徴でもある動物ですが、東照宮では特別な意味を持っています。
それは、家康の干支が虎であるということ。
実は家康、秀忠、家光の干支はそれぞれ、寅(トラ)、卯(ウ)、辰(タツ)と、干支の順番通りになっています。
家康を神として祀り、また溺愛している家光にしてみれば、自分の干支である龍が虎の彫刻よりも数、存在感をもってはいけなかったのです。
虎の次に多く描かれている彫刻が、秀忠の干支である兎(ウサギ)です。
兎の彫刻は、唐門の背面などにありますが、この唐門の背面と向き合う形で、拝殿の表に描かれている彫刻が虎なんです。まさに、家康と秀忠の関係を表しているようですね。
五重塔の干支
表門の前、西側には五重塔が建てられています。
この五重塔の4つの壁面にはそれぞれ3体ずつ、干支が描かれています。
東側の入口から入ったときに見える干支が、右から寅・卯・辰となっていて、もちろんこれも家康・秀忠・家光の干支なのであえて、子(ネズミ)からではなく、寅から始まっています。
彫刻が示す、平和への思い
数ある彫刻の中には、有名な「三猿」のように、メッセージ性の強いユニークな彫刻があります。彫刻が伝えているメッセージの1つが、「平和」への思いです。
それをご説明しましょう。
眠り猫
「三猿」と並んで、東照宮で最も有名な彫刻が「眠り猫」です。
なぜこの「眠り猫」がそれほど有名なのでしょうか。1つは、東照宮の彫刻の中でも猫の彫刻は、この「眠り猫」1体しか存在しないこと。1体しか描かれていないのは、何らかの意味が込められていると考えられます。
もう1つは、やはり猫が眠っていることでしょう。この眠っている猫と、その裏側に描かれている雀の彫刻を合わせて考えると、あるメッセージが見えてきます。
通常、猫は雀を捕食する存在です。その猫と雀が、同じ東回廊の蟇股に描かれているということは、猫と雀が共存していることを意味しています。
猫が眠っているということも、雀が猫に食べられる心配なく安心して羽を広げて遊んでいる彫刻とぴったり合いますよね。
争うことなく、誰もが共存できる世の中の到来。ここから、「眠り猫」は平和のシンボルと言われています。
霊獣:獏(バク)
霊獣の中でも、唐獅子、龍に次いで多く描かれているのが、獏(バク)です。
バク、という名前は一度はどこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。「悪夢を食べる」とされている、霊獣です。
悪夢を食べてくれることから、一種の厄除けの効果があると期待されていますが、実はバクはそれ以外にも食べるとされているものがあるのをご存知でしょうか。
それは、銅や鉄といった金属です。
バクは銅や鉄が無いと生きて行けないと考えられていますが、それではそのような金属が無い時代とはどんな時代か。
それは、争いが絶えず、武器の製造に銅や鉄が大量に使われてしまっている時です。
つまり、バクが生きていられるのは、争いが無く、銅や鉄がたくさんある時。平和な時代ということになります。
東照宮にバクがたくさん飾られている理由。それは、家康によって天下泰平の世が実現し、また争いが二度と起こらないように、という願いも込められているのです。
実際に200年以上続いた江戸時代は、幕末を除いて軍の予算が縮小した時代でもありました。
唐子(からこ)遊び
最後に、唐子(からこ)遊びの彫刻をご紹介します。
陽明門の表側には、写真のように子供たちが遊んでいる彫刻が並んでいます。この子どもたちは、唐子と呼ばれる、中国風の衣装や髪型をしていることから、「唐子遊び」と呼ばれています。
描かれている彫刻には、それぞれテーマがあり、教訓のようなものをメッセージとして私たちに伝えています。
それぞれの彫刻の詳細は、別途記事でご紹介する予定ですが、まずはなぜ子どもたちが描かれているのかをお話ししたいと思います。
現代では、子どもたちが外で遊ぶ光景というのは日本ではどこでも見られる光景です。
ですが、これが当たり前と思えるのは、私たちが(少なくとも日本では)争いの無い時代を生きているからです。
戦国時代を生き抜いた人々にしてみれば、争いが絶えない時代では子どもを外で遊ばせることなど、とてもできることではありませんでした。
つまり、子どもが遊んでいることこそが、平和の象徴なのです。
もう1つ、なぜ日本の子どもではなく、「唐子」を題材としているでしょうか。
こちらは所説ありますが、唐子は中国で神仙世界・異世界の象徴でもあり、また日本からすれば異国の国の子どもを描くことで、神聖な場所にふさわしい演出をしたのでは、と考えられています。
彫刻が描いているテーマは、まだまだたくさんあります。ですが、これまでのお話で、彫刻は家康・秀忠・家光の存在を強調するのと同時に、平和や教訓といったメッセージを訪れる人たちに伝えているのです。
言葉ではなく、彫刻のという絵で分かりやすく表現することで、東照宮を参拝する人々は、自然と家康への信仰心を身につけるだけでなく、家康・秀忠・家光が願った平和のメッセージや、人としてのあり方までも心に持つことが出来るというわけです。
いかがでしたでしょうか。
東照宮は、長い戦乱の時代を終結へと導いた家康が、後世に伝えたい「平和」へのメッセージや思いの結晶であり、また太平の世が長く続くことを願って創建されたことを知っていただけたと思います。
ぜひ実際に日光へ足を運び、家康の思いを感じ取ってみてください!
(参考:「日光東照宮の謎」高藤 晴俊 講談社現代新書)