【世界遺産】唐招提寺を100倍楽しむためのマメ知識(準備編:前編)

奈良の世界遺産の1つに数えられる、唐招提寺。

鑑真和上が度重なる苦難を乗り越え、唐から日本に渡来した後、創建したお寺としてあまりにも有名ですよね。

皆さんは唐招提寺が創建された目的をご存知でしょうか。

今回は、他の奈良の世界遺産とは、少し背景も成り立ちも異なる唐招提寺についてご紹介します!

 

世界遺産を楽しんで頂くために

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1.奈良時代と日本の仏教制度

唐招提寺入口

鑑真和上が日本に渡来し、奈良の朝廷に到着したのは754年のことです。

日本書紀によると、仏教が日本に伝来したのは飛鳥時代の552年。

鑑真の来日は、仏教が伝来してからおおよそ200年後のことになりますね。

日本に伝来されてから200年、仏教は日本にすっかり浸透しているかと思いきや、まだまだ下地としての制度が不安定な時期でした。

仏門に入るための授戒

仏門に入るためには、「授戒」を受けなければなりません。

授戒とは、仏門に入り、弟子として守るべき戒律を受けることです。戒律は、仏教を学ぶ修行僧として、守るべき規律やルールのこと。

授戒には、「具足戒」と「菩薩戒」の2種類がありますが、仏門に入り僧侶となるための戒律は「具足戒」に当たります。

いずれの戒律も、授戒資格を持つ僧10人以上をそろえる必要がありました(三師七証の僧)が、奈良時代当時の日本では授戒を行えるだけ仏教に精通し、修行を積んだ高僧をこれだけ集めることには困難を極めました。
(三師とは、実際に戒を授ける師主の戒和上、その場の作法を教える教授師、作法を実行する羯磨師を指し、七証とは、授戒を証明する7名の立会人。)

正式な僧尼を認める「授戒」を行えるだけの名実ともに優れた僧が、不足していたのです。

奈良時代の仏教の実情

正式な授戒を経て、仏門に入る僧を認定することが難しかった奈良時代。

国は、代わりに「僧尼令」というルールを設定して、国が認めた僧尼に限って、仏教の布教活動を許可しました。

このように正式に国が認めた僧を官僧と呼びますが、僧尼令では、自らが僧尼と名乗って活動を行う私度僧を禁じたのです。

私度僧とは、言ってみれば勝手に「私は仏教僧です。」と名乗って、布教活動をしている僧のこと。例えるなら、教員免許を持たずに学校の先生をしている、というイメージでしょうか。

そのような、「自己流」の私度僧が増えてしまうと、仏教制度、敷いては仏教の教えが正しく広まらなくなってしまいます。

もう1つ、私度僧が禁じられた理由が、当時、僧尼には課役の免除が認められていたことです。

課役とは今でいう税金のようなもの。これが不当に免除されることになっては、国としては大問題です。

もちろん、中には仏教に誠実に帰依した私度僧もいたかもしれません。ですが、正式な授戒を行う制度が不安定なことで起こるこのような問題は、当時護国宗教として仏教を重視していた国にとっては大きな悩みの種であったことは間違いありません。

また、「教え」が存在意義でもある宗教で、単に国が定めたルールで僧尼を決める、というのは内外的にも説得力に欠けるものがありました。

2.鑑真和上の”偉業”

唐招提寺:開山堂(2017年5月現在、御影堂修復工事のため、鑑真和上像のレプリカが安置されている。)

さて、ここまでお読みいただければ、鑑真和上の来日理由はもうお分かりでしょう。

そうです、日本に正式な授戒制度を普及すべく、唐から日本に渡来したのです。

日本の仏教上、空海や最澄、さらに平安後期から鎌倉時代に広まった浄土信仰を経て、仏教は日本で発展して揺るぎない存在となりますが、そのすべてのベースが鑑真和上の来日から始まった、といっても過言ではありません。

そういった意味で、奈良時代は仏教が日本で芽を出し、安定した成長期に入るための重要な時期でもありました。

鑑真和上が日本の仏教に与えた影響は図り知れません。

5度の失敗でもあきらめなかった日本への思い

鑑真と言えば、度重なる苦難の末、6度目の渡航でようやく日本に辿りついた苦労人としても有名です。

そして、その鑑真を日本にお連れするために遣唐船に乗り、唐に渡った2人の僧がいたことをご存知でしょうか。

名を、普照(ふしょう)と栄叡(ようえい)と言います。

2人は、出家者に正しい戒を授けるための伝戒師を招請するために733年に遣唐船に乗り、唐に渡ります。

そこから、鑑真和上に巡り合うまで約10年、さらに鑑真和上が最初の渡航を試みたのが743年。そして、奈良に辿りついたのが754年-。

この間なんと21年!これがどれだけの月日か、そしてこれだけの月日を異国の地で過ごすことが想像できるでしょうか。

栄叡はその間、唐で病に倒れ、志半ばでこの世を去ってしまうことになります。

鑑真和上が日本への渡航を幾度となく断念した理由には、嵐による遭難のほか、鑑真和上を唐からお連れしたくない、という、鑑真和上を心から信頼、尊敬する弟子による密告などによる妨害もありました。

逆に言えば、それだけ名実ともに優れた僧であったということでもあります。

そんな鑑真和上は、日本への渡航までに栄叡を失い、普照とも行動を別にすることにもなりました。

普照と行動を共にしていると、日本への渡航計画を疑われてしまうからです。

それでも鑑真の日本への渡航の思いは、一切揺らぐことはなかったのです。最後には視力を失うことになってしまっても-。

奈良時代当時、唐は日本よりもはるかに文明として先を行っていた国でした。仏教も当然、唐は日本よりも最先端の教えが、数多くインドなどから伝来してきました。

そのような時代に、母国を離れ、「後進国」の日本へ、生きて辿りつける保証もない渡航をしてまで赴く。

その境地にはよほど強い信念が無ければ、到底たどり着くことはできません。実際に鑑真の元を去った弟子たちも数多くいます。

それでも鑑真があきらめなかった理由。それは、ただ1つ「仏教」のため、だったというより他ありません。

 

次回、唐招提寺にスポットを当ててご紹介します!

(参考:「古寺巡礼 8 唐招提寺」西山明彦 淡交社, 「天平の甍」井上靖 新潮文庫)

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