世界遺産に登録されている高野山。今では電車や車で気軽に登ることができますが、神聖な場所として古くから信仰を集めた高野山には町石道、と呼ばれる参詣道があることはご存じでしょうか。まさに高野山詣の表参道とも言うべき町石道は、古来より多くの人が高野山に上るために通った信仰の道。今回は世界遺産にも登録されている高野山、町石道を詳しくご紹介します!
【世界遺産】町石道(ちょういしみち)ってどんな道?
世界遺産・高野山へ登る登山口は7つ(高野七口)あり、その中で高野山へ行く正面の表参道とされたのが、高野山町石道(ちょういしみち)です。
ルートは、高野山山麓の九度山町にある慈尊院(世界遺産)を起点として、かつらぎ町天野を経て高野山に入り、大門を経て根本大塔まで続いています。
その長さは約20キロ、九度山駅からスタートするとさらにその距離は伸び、徒歩で6時間ほどの道のりになります。
表参道と言っても山の中を歩いて高野山に上るため、町石道はある程度道は整備されているものの、雨の後にはところどころぬかるみが出来たり、暴風雨の後には木の枝が道をふさいだりと、整備された道路を歩き慣れている私たちにとってはトレッキングルートと呼ぶ方がしっくり来るでしょう。
江戸時代には団体で高野山に上り、お参りのために行き交う人々で賑わっていた町石道。今でこそケーブルカーで気軽に高野山に上ることができますが、電車や自動車も無かった時代は町石道が高野山へ歩いて登る正面玄関だったというわけです。
【世界遺産】町石道の特徴
町石って何?
世界遺産・町石道の特徴は、その名前にもある「町石」が道に沿って建てられていることです。「町」というのは昔利用されていた距離を表す単位で、1町は約110メートルになります。
つまり「町石」とは、1町ごとに建てられた石の塔(卒塔婆:そとば)のことで、高野山山麓の慈尊院から高野山に至る20キロの1町ごとに、町石が立てられており、今もこれを見ることができます。
町石が建てられたのは、後述しますが鎌倉時代のことです。日本で最も古い町石というわけではありません(最も古いとされているのが、熊野本宮への熊野街道の町石で、現在3基残されています)が、今でも200を超える町石を見ることができるのは、ここ高野山だけです。
日本で最も多く現存する町石
町石道は先ほどご紹介した通り、慈尊院から高野山の根本大塔まで続く参詣道ですが、実はその根本大塔からさらに奥の院までも町石が立てられています。
その数は慈尊院から根本大塔までが180基、根本大塔から奥の院までが36基。つまりそれぞれを結ぶルートが180町、36町という距離も意味しています。
高野山内を訪れると、大門から根本大塔がある壇上伽藍への道や、根本大塔から奥の院までの道にも町石を見ることができますので、ぜひチェックしてみてください。
よく知ると面白い、町石の意味
町石の大きさ
町石の大きさは高さが230センチ、幅と奥行きはそれぞれ30センチほど。230センチの高さも、上部の五輪塔(80センチ)と、それを支える下の直方体部分(150センチ)からなっています。
これはあくまでも地面から見えている部分の大きさで、安定して立たせるにはそれを支える「根」の部分が地中にもあることになります。その地中部分だけでも、実に1メートルの長さがあると言われており、これを合わせると町石は高さが3メートル30センチ。
しかも町石は1つの石から作られているため、巨石を削って作られたのです。
銘文の配置
町石には文字が刻まれているのですが、五輪塔の部分は下から「ア」「バ」「ラ」「カ」「キャ」という文字が彫られています。「五輪」というだけあり、五輪塔に刻まれたこの「梵字」は、仏教の教えにある宇宙を構成する要素である空・風・火・水・地の五つの要素を意味しています。
ちなみに、五輪塔というのはインドや中国には見られない日本で生まれた日本独自のものです。五輪塔そのものは奥の院でも数多く見ることができますが、平安時代後期以後、死者の供養塔として建立されるようになりました。
直方体部分の上部には、仏様をあらわす梵字があり、その下には町名(番号)を示す町数が、さらにその下には町石を造立した施主の名前が刻まれているのが一般的な形式です。
町石に彫られた字も良く見ると、とても美しい形をしています。それもそのはず、文字(銘文)を書いたのはあの三蹟の一人、藤原行成を始祖とする書道の流派、世尊時流9代目の藤原経朝ではないかと推定されています。
一方、梵字はお坊さんしか書くことができないため、これは別の人物が書いたとされており、「高野山春秋編年輯録(こうやしゅんじゅうへんねんしゅうろく)」(高野山の歴史を記した書物)によると、小川僧正真範と記されています。
町石はどのようにして生まれた?
それでは町石そのものはどのようにして誕生したのでしょうか。
町石の前身は木で出来た卒塔婆(ストゥーパ)、つまり仏舎利だったと考えられます。
仏舎利・ストゥーパとは、入滅されたお釈迦様を荼毘に付した時に埋めた遺骨を意味し、仏教上、ストゥーパは分けられたお釈迦様の遺骨が納めるためのお堂としての役割を持っていました。
インドから中国を経て日本に仏教が伝えられる中、日本においては法隆寺や薬師寺などが有名な五重塔が、このストゥーパが変化したものと言われています。
そこから、木製の卒塔婆はお釈迦さまではなく、一般の民衆の間で亡くなった方を供養するために誕生(後述しますが、町石が立てられる前は木の卒塔婆が立てられていた)し、それが高野山において町石になったと考えられています。
ですが、これまでの記録によると、例えば37町石の下から300個ほどの経石が出土されています。大きさは3センチから10センチの丸みを帯びた河原の石で、その表面に墨で経文が記されています。
経文が出土されていること、そして真言密教の仏さまを表す梵字が刻まれていることからも、町石は単なる道しるべでも、死者を弔う供養塔でも無いことが分かります。
真言密教において本尊とされる大日如来は、あらゆる仏様に姿を変えて人々に教えを与え、救済の手を差し伸べられていると考えられていますが、この町石自体も言わば大日如来の象徴として建てられたものなのです。
【世界遺産】高野山と町石道の歴史
平安時代以前
平安時代以前の町石道の様子を記した歴史的な記録は見つかっていませんが、一つ言えることは、弘法大師・空海が816年に高野山を真言密教の道場として開く前から、高野山は神聖な山として人々の信仰を集め、崇められていたということです。
それは空海が高野山を開くに当たって、まず丹生官省符神社を創建し、この地の神とされる高野御子大神(たかのみこのおおかみ)とその母の丹生都比売(にうつひめ)を手厚く祀ったことからも明らかです。
高野山が「紀伊山地の霊場と参詣道」として熊野三山や吉野と合わせて世界遺産として登録されているように、高野山だけでなく吉野や熊野など、この辺りは古代日本において修験道が起こり、栄えた一帯であることも頭に入れておきましょう。
修験道というのは山奥に入って修行を行うことで、そのような修行を行い超越的・霊的な能力を得た人は修験者と呼ばれました。
修験道が高野山・吉野・熊野三山で生まれたのは、この深い山々がある意味で「この世ではない異世界」として人々から畏れられていた場所だったからに他なりません。
そのような神聖な場所に敬意を払いつつ、真言密教という仏教信仰の地として築いたのが弘法大師・空海だったのです。
平安後期から完成を見る鎌倉時代
高野山の町石道が完成、つまり今あるように道に沿って町石が一通り立てられたのは、弘安8年の1285年のことと言われています。鎌倉時代ですね。
ですが、弘法大師・空海が高野山を開いたのはそれよりも400年以上前の816年と言われていますから、町石が建てられる前から多くの人が高野山にお参りしていたと考えられます。
それでは鎌倉時代に入るまで、町石道には何も立っていなかったのかというと、石ではなく木の札で作られた卒塔婆が立っていたと考えられています。
その根拠が「寛治2年白河上皇高野御幸記(しらかわじょうこうこうやごこうき)」という、1088年(寛治2年)に白河上皇が高野山に上られた時の記録です。
白河上皇は皆様も歴史で学ばれたかと思いますが、「上皇」という立場で国政を行う「院政」を始めた人物としても有名ですよね。
「寛治2年白河上皇高野御幸記」では、「路頭に卒塔婆札など立つ。町数を注す。」と記されています。まさに今の町石と同じように、鎌倉時代より前にすでに木の卒塔婆が立てられており、番号が付されていたということです。
石の卒塔婆(町石)はなぜ、どのようにして造られたのか?
総距離20キロを超える町石道に200を超える町石を建てることは一大事業と言えます。
先ほどご紹介した通り、町石道の町石は見えている部分だけでもその高さ230センチ、奥行き・幅ともに30センチというとても立派なものですから、これを200以上造るだけでも多くの人手と財源が必要になってきます。
ではどのようにして町石が建てられたかというと、覚斅(かくきょう)という僧侶が勧進(つまり、人々からの寄付)によって町石の整備を進めたと言われています。
覚斅は、今でも高野山で宿坊として宿泊することが可能な遍照光院の第9代目の住職を務めていた人物です。
なぜ覚斅はこのような壮大な計画を思いつき、実行に移したのでしょうか。理由として考えられるのは2つ。
1つ目は、弘法大師・空海によるお告げがあったとする説です。
この覚斅が町石を建てる勧進に出たのは1265年3月のこと、空海が高野山を開いてからちょうど450年という節目の年でした。
そもそも、町石を建てること自体が夢で空海によるお告げを受けた、とされているので、まさに記念事業の一環としての性格で始まったのかもしれません。
2つ目は、より実務的な理由による説です。
先ほど、古くから町石道には木の卒塔婆が立てられていた、とお話ししましたが、木材というのは腐りやすい材料です。山の中に立てられて風雨にさらされていたとすると、その傷みもより早く進み、何度も建て替えが行われたのではないでしょうか。
つまり、繰り返し修復や建て替えが必要な木で作るよりも、丈夫で不変の石で作ってしまおうというわけです。
お金を拠出したのは誰?
勧進と言っても、1基の町石だけでも相当なお金がかかったでしょうから、それを造るための財源を拠出し、町石の施主になることは一般の人ではなかなか難しかったと思われます。
実際に多くの町石は、当時の貴族や武士によってその費用が賄われました。貴族で言うと、後嵯峨天皇、武士で言うと当時鎌倉幕府の執権を握っていた北条時宗などです。
面白いのは、町石は根本大塔を中心に慈尊院に続く道(根本大塔を1番目とし、180番目まで)奥の院に続く道(根本大塔を1番目とし、36番目まで)に分かれているのですが、後嵯峨天皇は根本大塔から奥の院側の2番目の町石、北条時宗は慈尊院側の1番目と2番目の町石を建てたとされていること。
中心となる根本大塔に近い町石は最も強大な権力を有していた者によって建てられ、慈尊院と奥の院側で朝廷と幕府に分かれていたというわけです。
ちなみに、根本大塔から奥の院側の1番目の町石は誰によって建てられたのかはっきりしていません。2番目の町石が後嵯峨天皇なので、同じく後嵯峨天皇か、同等、つまり同じ天皇によって建てられたのではないでしょうか。
全ての町石が完成するまでの年月は?
町石が一斉に建てられたかというとそうではなく、おそらく勧進の進捗に合わせて徐々に整備されていきました。
現在残されている町石の中で、最も古い年月が刻まれているのが奥の院側にある23町石で、1266年2月15日となっています。勧進が1265年に始まったので、1年後に記念すべき第1基が建てられたのですね。
そしてすべての町石が完成し、建てられた1285年10月21日、開眼法要(かいげんほうよう)が行われました。の法要は、あの東大寺の大仏様が完成時した際にも行われたものですが、町石に仏の魂を迎え入れる法要のことです。
実に20年もの月日をかけて町石は建てられていったわけです。
【世界遺産】町石道に見る、高野山に巡らされた壮大な空海の仕掛けとは?
216の町石が意味するもの
先ほど町石道は慈尊院と根本大塔を繋ぎ、そこからさらに奥の院まで続いており、全部で216の町石が立てられているとお話ししましたが、この216という数字にも意味があることはご存じでしょうか。
真言密教に特有なアイテムとして、両界曼荼羅という名前を聞いたことはありませんか?
両界曼荼羅は真言密教の教えを図で表したものと言え、「両界」という名前が表している通り2つの世界を表現したものです。それが胎蔵界と金剛界と呼ばれるもの。
ここではその詳細な説明は省略しますが、「高野山秘記」と呼ばれる記録書には町石道と思われる高野山へ登る道の説明をされている箇所かあり、それによると「福居辻堂」から「根本大塔」に至る180町は胎蔵界の仏を表し、「根本大塔」から「奥の院の御廟」までが金剛界の37尊の世界を表している、と記載されています。
今では町石道の起点は慈尊院になっていますが、鎌倉時代以前は「福居辻堂」という別の場所が起点だったよう。それはさておき、町石道自体が真言密教の胎蔵・金剛界の曼荼羅の世界を表したものなのです。
ちなみに、町石は180+36=216ですが、「高野山秘記」には180+37=217という説明になっており、根本大塔から奥の院までの町石の数が一致していません。
この理由は定かではありませんが、一説によると根本大塔から奥の院まで36の町石が立てられていますが、最後の37町目は御廟そのものではないか、と言われています。
また、先ほど1町=約110メートルと書きましたが、根本大塔から奥の院までの町石はそれよりも短い約80メートルの間隔で立てられています。
このことからも、金剛界の諸仏の数である「37」が当初から意識されていたことは間違いありません。
高野山に仕掛けられた壮大な曼荼羅の世界
世界遺産・町石道が真言密教の胎蔵界と金剛界を表していることが分かりましたが、これは何を意味するのでしょうか。それは、この町石道が結ぶルートに隠されています。
高野山というのは、周りを8つの山々に囲まれていながらその中にぽっかりとできた平らなくぼみの部分を指します。このことから、別名「八葉の峰」とも呼ばれており、それはまるで「蓮の花が開いたような」地形になっています。
その高野山を挟んで慈尊院と奥の院を結ぶのが町石道。
それを踏まえて上の写真をご覧ください。
すると、高野山が大きな蓮の花として、町石道はそこから慈尊院に向かって伸びる「茎」の部分(胎蔵界)と、奥の院に向かって伸びる「花」の部分(金剛界)に相当することが分かります。
つまり、町石道と高野山で一つの真言密教の曼荼羅世界を表しているのです。もちろん、高野山の中心にあるのがあの根本大塔です。
【世界遺産】町石道を歩いてみよう!
いかがでしょうか。弘法大師・空海が高野山全体を聖域にすべく、壮大な設計の元に生まれた町石道、ぜひ一度歩きたくなってきませんか。
今回は町石道のルートと、途中の主な見どころを簡単にご紹介します。
九度山駅(くどやま・えき)
町石道の起点である慈尊院は、現在の南海高野線の九度山駅が最寄り駅となっています。
ちなみに「九度山」という名前も、その昔慈尊院にお住まいになっていた空海の母に会いに、空海が月に九度も高野山を下りていたことが由来と言われています。
片道20キロ以上もある道を月に9回も往復する、というのは想像するだけでも足が疲れそうです。
九度山駅は町石道の起点となる慈尊院があるほか、真田家ゆかりの地として真田ミュージアムもある歴史の街です。お時間がある方はせっかくですので、真田ミュージアムや真田庵もぜひ訪れてみてください。
慈尊院(じそんいん)(世界遺産)
九度山駅から15分ほど歩いた場所にある慈尊院に180番目の町石が立てられており、ここから町石道がスタートします。
先ほどもご紹介しましたが、聖域である高野山は女人禁制の地でもありました。このため、たとえ空海の母親であっても高野山に上ることは許されず、慈尊院に滞在する日々を送られていたのですが、それを考えても慈尊院から先が聖域に足を踏み入れることになるのです。
慈尊院の見どころの一つが、こちらの乳房型の絵馬。「女人高野」と呼ばれ、弘法大師・空海の母親が滞在していた事から、子授け、安産、育児、授乳、良縁などを願って参拝される女性が多いとのことです。
また、こちらには国宝にも指定されている弥勒菩薩がご本尊として祀られています。
丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)(世界遺産)
慈尊院のすぐ裏手、179番目の町石があるのがこちらの丹生官省符神社。世界遺産です。
弘法大師・空海がを高野山を開山するきっかけとなった伝説にもなっている狩人、つまり高野御子とその母である丹生都比売(にうつひめ)を祀るために空海により816年に創建されたのが丹生官省符神社の始まりだと伝えられています。
名前にも入っている「官省符荘」というのは、太政官と民部省から免税が認可された荘園という意味です。
丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)(世界遺産)
創建は約1700年前と伝えられており、つまりは空海が誕生する前からこの地にいらっしゃった神様をお祀りするために建てられていた歴史ある神社です。
高野山の壇上伽藍が仏教における高野山の始まりの地とすると、丹生都比売神社は神道における高野山の始まりの地と言えるでしょう。
丹生都比売神社は、町石道の分岐点である「六本杉」を一度町石道から外れて山を下った麓に建てられた神社です。神社の先の道を行くとまた町石道に戻ることができますが、一度山を下ってまた登るので体力を消耗します。
ただ、丹生都比売神社には自販機も置かれているので、水分補給や休憩に立ち寄ると良いでしょう。
二ツ鳥居
丹生都比売神社の遥拝所として建てられたと考えられているのが、こちらの二ツ鳥居です。
鳥居が二つ並んで立っているのは珍しいですよね。これはもちろん高野御子と丹生都比売を祀るためのものですが、今残されているこの石造の鳥居は1649年の事であり、それまでは木製の鳥居だったことが分かっています。
さらに興味深いのは、最近の調査研究では当初は町石道を挟む形で1つの鳥居で、高野山を向いていたことが判明したそうです。これはどういうことか。
現在の高野山の大門の前身として、あの場所には第1鳥居が立てられていたと言われています。つまり、大門=第1鳥居とすると、この二ツ鳥居はその名の通り、元々は高野山の第二鳥居だったというわけです。
つまり、弘法大師・空海が高野山を仏教の道場として開く前から、この地には高野山に向けて鳥居が立てられていたということです。
弘法大師・空海の伝承を伝える「三石」
世界遺産・町石道には、弘法大師・空海の伝承を伝える石が3つ残されています。それぞれ、「鏡石(かがみいし)」「袈裟掛石(けさかけいし)」「押上石(おしあげいし)」と呼ばれているものです。
「鏡石」はその名の通り、表面が鏡のようにつるつると滑らかになっている不思議な石で、この石に向かって真言を唱えると心願成就すると言われています。
「袈裟掛石」は弘法大師・空海がこの石に袈裟を掛けて休んだと言われており、石の下に出来た隙間をくぐると長生きする、という言い伝えがあります。
「押上石」は、弘法大師・空海の母が女人禁制の高野山に近づこうとした際に雷雨が突然火の雨に変化し、空海が石を持ち上げてこれから母を守ったと言われています。この石にはその時に付いた空海の手の跡も残されているとか。
いかがでしたでしょうか。
世界遺産・町石道は、高野山の創建と合わせて空海と人々が創り上げた壮大な信仰の道であることがお分かりいただけたと思います。
古くから日本人の信仰によって守られてきたその神秘的な道、ぜひ皆様も一度訪れてみてください!
(参考:「はじめての「高野山町石道」入門」木下浩良 セルバ出版)