2019年に世界遺産として登録された「百舌鳥・古市古墳群」。日本における古墳時代の巨大古墳が世界遺産として登録されましたが、世界を見渡すと、エジプトのピラミッドや中国の秦の始皇帝陵、メキシコのテオティワカン遺跡など、巨大な歴史上の建造物が世界遺産として登録されている例が多く見られます。
今回はこれらの世界遺産を比較して見ることで、世界遺産の魅力に迫ります!
日本の世界遺産:百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)
百舌鳥・古市古墳群の概要
そもそも「古墳」(こふん)というのは時の権力者などが埋葬されているお墓のことを言います。
権力者のお墓は日本のみならず世界においても、その強大な力を誇示する等の理由で大規模に造られる傾向にあり、日本の古墳や中国・朝鮮半島の王墓のように、その外観はちょっとした丘や山のように見えることから、「墳丘」(ふんきゅう)とも呼ばれます。
この墳丘の中でも、特に日本の歴史において集中的に巨大な墳丘が一斉に造られた古墳時代に造られたものを「古墳」と呼んでいるのです。
世界遺産の百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)は、日本の古墳時代(3世紀中頃から6世紀後半頃)において日本中に築かれた古墳の中でも、最大の大きさを誇る大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)(百舌鳥古墳群)と2番目の大きさを誇る誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)(古市古墳群)を含む古墳群です。
これらの古墳群で世界遺産として登録された古墳は45件、49基にもなりますが、墳丘の長さが200メートルを超える古墳が11基もあり、古墳時代の最盛期である4世紀後半から5世紀にかけて造営されたものになります。
ちなみに登録件数と古墳の基数が一致しないのは、大仙陵古墳など巨大な古墳には陪冢(ばいちょう)と呼ばれる附属のような古墳がいくつかあり、これらを1つとしてカウントしているためです。
百舌鳥・古市古墳群の中で巨大な古墳の多くは、当時の最大権力者、つまり天皇の陵墓と考えられており、宮内庁により指定されています。
例えば、大仙陵古墳は仁徳天皇の陵墓として治定(じじょう:古墳に埋葬されている人物を特定すること)されていますが、考古学的には大仙陵古墳が仁徳天皇陵の陵墓であることは証明されていません。
百舌鳥・古市古墳群に見る日本の古墳の特徴
日本の古墳時代が世界においてもユニークな点をいくつかご紹介します。
日本中で多様な古墳が一斉に造営された
古墳に限らず、大きなお墓というのは特定の権力者を埋葬しているため、その数はそれほど多くはなく、造営される場所も当時の社会の中心であった場所であることが通常です。
ですが、日本の古墳時代はわずか300~400年にも関わらず、造られた古墳の数は16万基以上にも上ると考えられています。また、造られた場所も関東から九州に至るまで、日本各地に広がっており、これは世界で見ても他に例がありません。
また、造られた古墳の形も前方後円墳や方墳、円墳、帆立貝形墳などバラエティーに富んでいるのも特徴です。
これだけ多く、多様な古墳が造られた理由として考えられているのが、当時の日本では絶対的な権力者による統一国家が存在しておらず、日本中に広がる首長連合のような支配体制にあったことです。
首長連合と言っても中心的な権力者はいたと思われますが、地方の隅々までその支配が行き届いておらず、ある程度地方の統治は地方の支配者に委ねていたと考えられています。
このため、古墳の大小や種類などに一定のルール(権力者になるほど規模が大きくなる、また巨大な古墳のほとんどが前方後円墳など)がありつつも、日本全国で古墳が造られたというわけです。
お墓だけでなく葬送の舞台としての役割も持っていた
日本の古墳が世界の他の墳墓と異なる点の1つに、造営から埋葬までの順序があります。
日本においては、古墳が造営された後に改めて古墳に穴を掘って埋葬が行われました。一方、例えばエジプトのピラミッドなど世界の墳丘は埋葬した後にその周辺を積み上げて築かれるケースが一般的です。
このように順序が異なる理由は、日本の古墳は埋葬する際の葬送儀式が重要視されたためです。
例えば前方後円墳の場合、後円部分に竪穴式石室などの埋葬スペースを作り、そこに埋葬されるのですが、埋葬された真上部分である後円部分の平面には多数の埴輪が並べられました。
これは、埋葬された死者の魂が天に昇っていくことを壮大に見送る意味が込められていると考えられています。
エジプトの世界遺産:メンフィスのピラミッド地帯
ピラミッドはいつ、なぜ誕生したのか?
エジプトの世界遺産でもあるピラミッドはぜひ一度は訪れてみたい場所でもあり、今でも多くの歴史のロマンが詰まっている場所ではないでしょうか。
ピラミッドの前身と言われているのがマスタバ墓と呼ばれる台状の形をした墳墓で、エジプト王朝の初期王朝時代(第1・第2)から古央朝時代(第3~第8頃)に造られたものです。
このマスタバ墓はピラミッドのような石造りではなく、日干煉瓦(レンガ)造りであることも特徴です。
そこから最初のピラミッドとして誕生したのが、第3王朝のジェセル王(BC2665~2645頃)によりサッカラに造られた階段ピラミッドです。
サッカラの階段ピラミッドは、元々は四方が63メートルの正方形の平面の一段造り、高さ10メートルの石造マスタバ墓として計画されたものでした。ですが、その後、四方を拡張するなど変容していき、その都度もともと造られていた部分と段差が生じました。そして、その都度段差が生じることで階段状のピラミッドになっていったと考えられています。
この階段ピラミッドがマスタバ墓から変容して大きくなった理由は、当時の王権の強大な力を誇示することにあったと考えられています。
第2王朝最後の王であったカセムケイ王の治世ではホルス神を信仰する王朝でしたが、一方でセト神信仰する勢力がその勢いを増し、カセムケイ王はセト信仰勢力との和解を図り、以後、王の名前にはホルス・セト両神を冠した名前が採用されるようになります。
ホルス神信仰勢力が弱体化していることに危機を抱いたジェセル王は、マスタバ墓の高さを積み上げて大きくすることでメンフィスの街からいつでもその姿を観られるようにし、強大な王権の象徴としたというわけです。
屈折のピラミッド・赤のピラミッド・三大ピラミッド
第4王朝に入ると、ピラミッドの巨大化と最盛期になります。
有名なピラミッドとして、まずはスネフェル王の屈折ピラミッドと赤のピラミッドの二つをご紹介しましょう。
屈折のピラミッドはその名の通り、ピラミッドの傾斜が途中で変わっているピラミッドです。基底部の長さは188.6メートル、創建時当初の高さ105メートル(現在101メートル)で、基底部からの高さ49メートルまでが54度31分という急角度になっており、それより上部はやや緩やかな43度20分に変更されています。
赤のピラミッドは基底部の長さ220メートル、創建時の高さ105メートル(現在は99メートル)になり、傾斜角が43度40分です。この傾斜角は屈折ピラミッドの上部とほぼ同じ傾斜であることがお分かり頂けると思います。
赤みを帯びた石灰岩の切り石を利用していることから、この名前が付けられています。
ピラミッドの中でも側面が滑らかなピラミッドを「真正ピラミッド」と言いますが、赤のピラミッドは最初の真正ピラミッドとしても有名です。
スネフェル王の次の王、クフ王によって築かれたギザのピラミッドが最大のピラミッドとされており、その後のカフラー王、メンカウラー王のピラミッドと合わせて三大ピラミッドと呼ばれています。
第4王朝の真正ピラミッドに見るピラミッドの特徴
さて、階段ピラミッドと真正ピラミッドをご紹介しましたが、両者には明確な違いがあります。
例えば、いずれのピラミッドにも葬祭殿と呼ばれる、王の葬儀や礼拝のために建てられた祭殿が設けられていますが、階段ピラミッドは北側に、真正ピラミッドは東側に造られています。
真正ピラミッドで祭殿が東側に設けられている理由として、太陽信仰が挙げられます。スネフェル王の時代より、太陽信仰が浸透したと考えられており、日の出の方向である東側に祭殿が設けられているというわけです。
ちなみに真正ピラミッドの側面は二等辺三角形となっていますが、これは太陽光線を形どったもの。また、三大ピラミッドの南東の角は一直線上に並べられており、それを北東に伸ばした先には太陽信仰の中心地であるヘリオポリスがあります。
このことから、クフ王のピラミッドに代表される巨大なピラミッドは太陽信仰によるモニュメントとしての意味合いが強かったと考えられており、王墓であったかどうかは未だにはっきりと解明されていません。
中国の世界遺産:秦の始皇帝陵
秦の始皇帝陵の概要
次に、お隣の国、中国の世界遺産にも登録されている秦の始皇帝陵を見てみましょう。
中国において秦という時代は短命に終わるものの、この一時代を築いた秦の始皇帝は歴代の中国の皇帝の中でも最も有名な人物と言えるでしょう。
そもそも、「皇帝」という存在はこの秦の始皇帝から始まっており、秦の始皇帝は中国の歴史において初めて統一国家を築いた人物です。
そんな人物が埋葬されているお墓ですから、秦の始皇帝陵というのは規模の面でもそれまでの王墓とはスケールが全く異なるビッグなものになっており、日本の大仙陵古墳、エジプトのギザのピラミッドと並んで世界三大墳墓の一つに数えられています。
また、秦の始皇帝陵は紀元前208年に完成しました。
ご参考までに大きさを記載しておくと、始皇帝陵の墳丘は截頭錐体(せっとうすいたい)型で南北350メートル、東西345メートル、高さ76メートル。
墳丘は二重の城壁に囲われており、外城は東西約940メートル、南北約2,165メートル、内城は南北1,355メートル、東西580メートル。
ぱっと想像できない大きさですが、並んでいる数字を見る限り「ものすごく大きい」ということは分かって頂けるかと思います。
秦の始皇帝陵に関しては、その名の通り始皇帝のお墓であること、そして初めて中国を統一した王朝としてその強大な権力の象徴を具現化するために、これほど大きな陵墓を築いたことは明確で、日本の古墳と共通するものがあります。
一方で、始皇帝陵は二重の城壁で囲われているなど、地下・地上を含めて複雑な構造になっています。
内城壁の内側には、墳丘の他に、地上に陵寝(りょうしん:後ほどご説明します)と推定される儀礼を行うための施設と、王妃等を埋葬したと想定される陪葬墓(ばいそうぼ:王の家臣など、身近な側近たちのお墓)があります。
墳丘の西側では始皇帝がお乗りになった車馬を象る銅車馬を納めた陪葬坑(ばいそうこう:王の身近な物を副葬したもの)や、文官を模した俑(よう:人型の副葬品)を納めた陪葬坑などが地下から発見されています。
二重の城壁に挟まれたスペースを見ると、西側に「飤官(しかん)」と呼ばれる、始皇帝陵での日常奉仕を担当する官署の建物が地上にあり、東側では力士俑あるいは石製の甲冑を納めた陪葬坑が見つかっています。
さらに二重の城壁の外側には、あの有名な兵馬俑があります。
秦の始皇帝陵に見る、中国王朝の陵墓の特徴
皇帝という強大な権力者のお墓であり、その強大なパワーの象徴を表現するために始皇帝陵が巨大であることは明らかである一方、日本の古墳とは明確に異なる特徴があります。
それは、日本の古墳は埋葬に重きが置かれ、古墳が造営されて権力者を埋葬するまでが一大イベントであり、埋葬後の古墳というのはそれほど意識をして管理や維持がなされた形跡は見られません。
一方の始皇帝陵や漢時代の王墓というのは、王墓を造営して埋葬するだけでなく、むしろその後の管理と運営にも重きが置かれていました。
どういうことか。
先ほど、始皇帝陵の複雑な内部構造をご紹介しましたが、そこには陵墓を日常的に管理・維持するために奉仕する人たちがおり、その人たちの住む建物があったと考えられています。
つまり、始皇帝陵や漢時代の歴代の皇帝の陵墓というのは、造営されて埋葬された後も管理・維持と合わせて様々な祭礼や儀式が行われるなど、神聖な場所として重要に扱われていたということです。
実際、皇帝陵における日々の儀式は相当なものだったと考えられています。
皇帝陵ごとに寝(しん)・廟(びょう)・便殿(べんでん)と呼ばれる儀礼のための祭殿があり、それぞれで目的の異なった祭祀が行われていました。
例えば寝では毎日に4食を奉り、廟では1年に25回の祭祀を捧げ、便殿では1年に4回の祭祀を行ったと言われており、寝が日常の奉仕を捧げる場で、廟・便殿は四季や節目ごとに祭祀を行う場だったというわけです。
この他、月に一度、皇帝が生前に身に付けていた衣冠を外遊させていたとも言われています。これは、皇帝の魂を身に付けていた衣服に憑依させ、「目に見えない皇帝」の御幸(ごこう:皇帝の外出)とも言えると思います。
これだけでも儀式がかなり行われていたことが分かるかと思いますが、当然そのためには莫大な予算と労働力がかけられており、陵墓の周囲にはそのための人たちが生活していたと言います。
当時の中国王朝は皇帝の住む宮殿の周りに城壁が築かれ、その外側には一般の民衆が住んでいたわけですが、陵墓もまさにこれと同じように、「死した皇帝」のおられる墳丘を中心としてその周りに城壁と陵園が造られ、そのお世話をする人たちが住むスペースがその外側に広がっていたのです。
このように、埋葬後も生前と変わらずに皇帝を神聖化する風潮が中国に根付いたのは、秦の始皇帝の時代から明確な「国家」というものが存在し、その頂点に「皇帝」があるというヒエラルキーと仕組みが成立していたからでしょう。
したがって、秦から漢に時代が変わろうとも、その頂点に君臨する歴代の「皇帝」が強大な権力の象徴であることに変わりなく、このために始皇帝陵を始めとする陵墓は、中国の歴代の皇帝により時代が築かれ、それによって現在の私たちの社会が成り立っている、という強烈なメッセージを強く民衆に植え付ける権力の象徴としても機能したのです。
メキシコの世界遺産:テオティワカン遺跡
テオティワカン遺跡の概要
最後に、メキシコの世界遺産であるテオティワカン遺跡についてご紹介します。
この遺跡がどのような民族によって形成された都市のものなのか、いまだに解明されていないなど謎が多いものの、この地に大規模な都市が形成されていたことは確かであり、注目すべきはその最盛期が350年~650年頃だということ。
そうです、日本の古墳時代と重なりますよね。
遺跡からは複数のピラミッドの他に大通りや大広場の跡も見つかっており、この地には約10万人の住民が暮らす大規模な都市が存在していたと考えられています。
ただ、この地において権力を握っていたと思われる王の王宮などが見つかっておらず、絶対的な権力を持ったリーダーが不在であり、共和的な都市運営がなされていたとも考えられています。
もしそうだとすると、この点も日本の古墳時代と共通しますよね。
月のピラミッド・太陽のピラミッド・羽毛の蛇(ケツァルコアトル)神殿
テオティワカン遺跡では約600基ものピラミッドが建設されていたと考えられていますが、有名な月のピラミッドと太陽のピラミッド、そして中心的な祭殿と考えられている羽毛の蛇(ケツァルコアトル)神殿をご紹介します。
月のピラミッド
月のピラミッドは、紀元後100年頃から400年頃にかけて、7回にも渡って増築が行われたと考えられているテオティワカンにおいて中心的な存在のピラミッドです。
度重なる増築が行われたものの、増築はこの都市の中心と考えられている南北線上の軸に沿って大きくなっています。
また、月のピラミッドには黒曜石や貝製品など豪華な副葬品と一緒に13体の犠牲者が埋葬されています。13体の犠牲者の内、10体は打首の状態で手を後ろで縛られた状態で埋葬されていたことから、生贄(いけにえ)として捧げられたか、又は敵の捕虜ではないかと考えられています。
生贄という点では人間の他、ジャガーやピューマ、狼、鷲(ワシ)や蛇なども同じように生贄として埋葬されています。
これらの動物はいずれも肉食動物であり、自然界の食物連鎖では支配的な立場であることから、テオティワカンが軍事的な国家として覇権を握っていたのでは、と言われています。
なお、月のピラミッドはもともとは神殿の基壇と考えられていましたが、近年の調査ではその上に神殿のようなものは築かれておらず、儀礼を行うスペースだったのではとみられています。
また、月のピラミッドから王家の墓のようなものは見つかっていません。
太陽のピラミッド
太陽のピラミッドは月のピラミッドとは異なり、一時期に一気に今見られる大きさまで造営されたピラミッドです。
ですが、その内部からはさらに古い建物の遺構や、また雨水を引き込む穴が見つかっており、ピラミッドの真下約100メートルまで続くトンネルが掘られていたことが分かっています。
残念ながらトンネルの先の空間は盗掘されており、そのスペースが何のためのものだったのかははっきり分かっておらず、王家の墓だったのか、神聖な儀式が行われていたのか説は分かれますが、このスペースの上に太陽の神殿が築かれていることから、このテオティワカンが勃興する最初の場所だったのでは、とする見方が一般的なようです。
また、太陽のピラミッドも月のピラミッドと同じように、その上部に神殿のようなものが造られていた形跡は見つかっていません。
羽毛の蛇(ケツァルコアトル)神殿
月のピラミッド、太陽のピラミッドと並んでテオティワカンにおいて重要な施設として考えられていたのが羽毛の蛇(ケツァルコアトル)神殿と呼ばれる神殿(ピラミッド)です。
この神殿自体は月のピラミッド、太陽のピラミッドに比べると小さいものの、四面には石彫(いしぼり)が施されており、またこの神殿を囲うようにして「城塞」が築かれており、約400メートル四方の大広場となっています。
このことから、この場所は大勢の民衆を集めて重要な儀式やイベントが行われていたと考えられています。
広場の中心に建てられたこのケツァルコアトル神殿(ピラミッド)の外壁には雨と雷の神であるトラロックと、創造と文化の神であるケツァルコアトルが祀られています。
ケツァルコアトルはマヤ文明においてはククルカンという神としても知られており、王位のシンボルとしてこの場所で王位継承などの儀式が行われたのではとみられています。
このケツァルコアトル神殿がある広場からも、太陽とピラミッドと同じような、雨水を吸い込む穴が偶然見つかり、そこから全長約100メートルの古代トンネルが掘られていたことが明らかになりました。
トンネル内部からは多くの埋葬品が出土していますが、こちらも王族の王墓であったことまでは証明されていません。
以上、テオティワカンにおける3つのピラミッドをご紹介しましたが、今のところは重要な儀式が行われた祭祀の場としての機能が有力視されており、王墓の可能性は謎のままですが、将来的にはびっくりする発見があるかもしれませんね。
(参考:「日本の古墳はなぜ巨大なのか」松木 武彦, 福永 伸哉, 佐々木 憲一 吉川弘文館)