空海が開創した高野山は世界遺産に登録されていますが、その中には丹生都比売神社と丹生官省符神社という神社も含まれていることをご存じでしょうか。空海と言えば仏教・真言宗の開祖ですが、神社とどのような関わりがあったのでしょうか。
この二つの神社無くして、高野山は世界遺産に登録されなかった!?今回はそんな丹生都比売神社・丹生官省符神社の魅力に迫ります!
【世界遺産】丹生都比売神社ってどんな神社?
神社の創建
高野山に続く参詣道である町石道の途中、のどかな田園風景が広がる天野に静かに佇んでいる世界遺産の丹生都比売神社。別名天野神社とも呼ばれていますが、その歴史はかなり古く、創建は1,700年以上も前のことだと言われています。
ちなみに、空海が高野山を開いたのが約1,200年前の816年のことですから、それよりも500年以上古い歴史を持つ神社ということになります。
この神社で祀られているのは、丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)という神様です。
丹生都比売大神は天照大神(あまてらすおおみかみ)の妹神である稚日女命(わかひるめのみこと)とされ、神代(ずっとずっと昔の神様の時代)に、この辺りを流れている紀ノ川沿いの三谷に降臨。そして、紀州や大和に農耕を広めた後に、天野にご鎮座されました。
丹生都比売大神は古くから戦の神としても知られており、「播磨国風土記」(はりまこくふどき)(風土記:各地に伝わる産物や文化、言い伝えや風習などをまとめた歴史書)によると、神功皇后(じんぐうこうごう)が挑戦出兵の際、丹生都比売大神の託宣(ご進言)によって、船や武具を朱色に塗ったところ、戦に勝利したため、これに感謝した息子の応神天皇が社殿と広大な土地を神領として寄進したという伝説も残されています。
祀られているのはどのような神様?
世界遺産・丹生都比売神社は、この丹生都比売大神がご祭神である神社ということですが、この丹生都比売大神が祀られている第一殿の隣の第二殿に、その御子である高野御子大神(たかのみこのおおかみ)(別名:高野明神、狩場明神)が祀られています。
さらにその後、鎌倉時代に入ると行勝上人によって第三殿、第四殿に神様が勧請され、それぞれ福井県の気比神宮から大食都都比売大神(おおげつひめのおおかみ)と、こちらも世界遺産で有名な広島県厳島神社から市杵島比売大神(いちきしまひめのおおかみ)が祀られています。
その御名前にも含まれている「丹」という文字は、丹砂(たんしゃ)の鉱石から採れる「朱」を意味しています。この「朱」には古来から魔除けの力があり、そこから丹生都比売大神は悪しきものを退ける強い女神として信仰されてきたのです。
もう1つ、後ほどご説明しますが、丹砂は水銀の原料にもなるということも覚えておいてください。
皆さん、神社の鳥居というと朱色のイメージをお持ちかと思いますが、この朱色がまさに丹砂から来ており、魔除けの意味が込められているというわけです。
魔除けは不純なものを退けることから、丹生都比売大神は不老長寿の神としても知られています。
日本に神風をもたらし、「元寇」に勝利したのは丹生都比売神社のおかげ!?
日本史を勉強していると必ず習うのが、鎌倉時代に日本を絶体絶命のピンチに追いやった元寇。
元寇は、当時の中国大陸を手中に収めていたモンゴル帝国による日本への二度の侵略ですが、二度とも大戦中に吹き荒れた嵐に救われて日本軍はこれを退けることが出来ました。
歴史を勉強していると、「もしあの時違う結末になっていたら・・・」という空想をつい思ってしまいますが、元寇も、もし日本が敗れていたら今頃「日本」という国は存在していなかったかも、と考えられるぐらい、日本のその後に大きな影響を残した出来事と言えるでしょう。
この元寇で日本を勝利に導くために「神風」を吹かせたのが、丹生都比売神社の第三殿に祀られている大食都都比売大神だった、というお話はご存じでしょうか。
古来から日本人は戦において、もちろん生身の人間同士の戦いではあるものの、それぞれの陣営を守護する神様同士も共に戦いを繰り広げている、と信じてきました。
元寇においては日本軍を守護してくださる日本の神々も味方になって、モンゴル帝国の軍勢と戦ってくださっているという信念を持っていたでしょうから、その時に吹き荒れた嵐はまさに神様の仕業による風、「神風」と疑うことは無かったでしょう。
実際に丹生都比売神社の大食都都比売大神による託宣によって神風が起きた、ということは当時の朝廷の正式文書である「太政官牒」(だいじょうかんちょう)という文書に明記されています。
このこともあり、鎌倉時代から丹生都比売神社は一気に日本においてその名を知られる有名な神社となり、全国で「丹生」の名前を冠する180余りの神社の総本社と位置付けられています。
神社の見どころ
本殿
先ほどご紹介した通り、丹生都比売神社は四柱の神様が祀られているため本殿も四つあるわけですが、その造りとしては切妻造りの妻入り、正面1間(つまり、正面に2本の柱が建てられ、間は1つ)であることから「一間社春日造」(いっけんしゃかすがづくり)と呼ばれています。
この一間社春日造としては本家である奈良の世界遺産・春日大社よりも大きい造りとなっており、日本一の規模を誇っています。
現在の本殿は室町時代に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。
こちらの本殿は遠くからでしか拝観することはできませんが、是非柱などの建築上の造りにも注目してみてください。写真では分かりにくいですが、極彩色でとても細かな紋様が入っていることが分かるかと思います。
木鼻(きばな)と呼ばれる、柱から出っ張った部分は象が描かれるなど、どこか海外の雰囲気さえしてきます。
輪橋(太鼓橋)
丹生都比売神社の正面にで特に目を引くのが、その急な勾配が特徴の太鼓橋です。
こちらはお参りする方も普通に歩くことができますが、元々は神様が歩かれる道ということで神橋と呼ばれるもの。この橋は淀姫によって寄進されたと伝わっています。
二ツ鳥居の謎
丹生都比売神社から山に戻り、町石道へ戻る途中にあるのがこちらの二ツ鳥居です。
この鳥居は丹生都比売大神とその御子である高野御子大神を祀るために建てられたものですが、実は1つの謎が残されています。
それは、この鳥居が丹生都比売神社を遥拝(ようはい:遠い場所から神社に向かってお祈りを捧げること)するためのものなのか、はたまた高野山に向かって遥拝するために建てられたものなのかはっきりしないということ。
後述しますが、高野山の大門があった場所には大鳥居があったと考えられており、その鳥居を一の鳥居とすると、こちらが「二の鳥居」になるわけです。
高野山と丹生都比売神社は鳥居を挟んで反対方向にあるのですが、鳥居の前後・表裏がはっきりしないため、このような謎が残されています。
さらに、この二ツ鳥居も元は町石道をまたぐ大きな1つの鳥居だったとも言われています。
謎が多いこの二ツ鳥居ですが、この二ツ鳥居は空海が高野山開創の際に、両神を勧請するために建立したものと言われています。
【世界遺産】丹生官省符神社ってどんな神社?
神社の創建
続いて、同じく世界遺産に登録されている丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)をご紹介します。
こちらも「丹生」という名前があることから、祀られている神様はまず丹生都比売大神とその御子である高野御子大神です。
丹生都比売神社はその歴史があまりにも古いため、正確な創建に関してははっきりしませんが、こちらの丹生官省符神社は816年に弘法大師・空海によって創建された神社になります。
816年と聞いてピンと来た方もいらっしゃるでしょう。そうです。高野山開創の年ですね。もちろん、これは偶然ではありません。
丹生官省符神社は現在の和歌山県九度山町という町にあるのですが、この神社のすぐ下にはこちらも同じく世界遺産に登録されている慈尊院(じそんいん)があります。
慈尊院は空海が高野山を開創するに当たって、その造営の庶務政所、つまり管理事務所として建てられたのが始まりです。そして、この高野山開創という事業を始めるに当たって、まず弘法大師・空海は高野山に鎮座されている丹生都比売大神と高野御子大神を丹生官省符神社に勧請し、高野山の守護神として丁重にお祀りになったのです。
祀られているのはどのような神様?
実は丹生官省符神社にも丹生都比売神社と同じ四柱の神様に加えて、天照大神、誉田別大神(ほんだわけのおおかみ)(別名:八幡大神)と天児屋根大神(あめのこやねのおおかみ)(別名:春日大神)が祀られています。
誉田別大神というのは武勇の神とされており、児屋根大神は神事祭祀の神とされている神様です。
当初はこの七柱の神様をお祀りするため、神殿も七つあったと記録に残されていますが、現存する本殿は室町時代の1541年に再建されたものであり神殿は三つしか残されていません。
第一殿には丹生都比売大神とその御子である高野御子大神、そして天照大神
第二殿には大食都都比売大神、誉田別大神と天児屋根大神
第三殿には市杵島比売大神
がそれぞれ祀られています。
神社の見どころ
名前の意味とご利益
名前になっている「官省符神社」とは、太政官と民部省から認可された荘園のこと。国の干渉を受けず、納税の義務もないなどの特権があります。
官省符神社は平安時代以降に認可されたものですが、この丹生官省符神社は高野山の山麓一帯の官省符荘36村を取りまとめる総社としての存在だったそうで、経済的には恵まれていたものと思われます。
官省符神社として認可されるきっかけになったのが、あの藤原道長が高野詣(こうやもうで)を行ったことでした。
藤原道長と言えば、平安時代に天皇家含めてその権力を一手に納めた貴族としてとても有名な人物ですが、平安時代後期に日本中に広がったのがいわゆる「末法思想」と呼ばれる思想です。
末法思想とは、お釈迦様の入滅後一定の時間が経ってしまうと世界に仏教の教えが広まらなくなり終焉を迎え、その後遥か56億年とも言われる先まで救いの無い世界が続く、というもの。
この思想が広まってからは特に貴族や皇族の間で、必死に仏様の救いにすがろうとして有名寺院への参詣が活発に行われるようになったのですが、その中の一つが高野詣でした。
末法思想で民衆に広がったのは浄土信仰であり真言密教とはずれるのですが、すでに世に広まっていた「大師信仰」の存在で高野山は一気に参詣者が増加しました。
そして藤原道長は高野詣の後、この地を免税が認められる「官省符省(かんしょうふのしょう)」とし、自らも荘園などを寄進したのです。
また、後ほどご紹介しますが、お祀りしている高野御子大神は2匹の白黒の犬を連れていたことから、この神社では犬が神様の使いとされ、安産や縁結びといった「御導き」に御利益があると言われています。
本殿
神様をお祀りする神殿はともに檜皮葺きで木造の一間社春日造りとなっており、丹生都比売神社と基本的には同じです。
こちらも丹生都比売神社と同じように本殿は遠くからの拝観でしか見ることができませんが、是非じっくりと柱などまで見てみてください。
丹生都比売神社ほどではありませんが、こちらの本殿も丹色の柱にカラフルな紋様がとても良く映えていて、蟇股(かえるまた)と呼ばれる上部の重さを支える部分には虎でしょうか、こちらも動物の彫刻が描かれています。
【世界遺産】丹生都比売神社・丹生官省符神社と弘法大師・空海の高野山開創伝説
弘法大師・空海の高野山創建にまつわる伝説
弘法大師・空海が嵯峨天皇より高野山を下賜され、ここを真言密教の道場として日本における布教の拠点としたのは816年のことでした。
なぜ弘法大師・空海は高野山を真言密教の道場の場として選んだのでしょうか。1つの有名な伝説をご紹介します。
弘法大師・空海は留学僧として唐に渡ったわけですが、その目的は唐で最先端の密教を学び、その教えを日本に持ち帰る事でした。密教を学ぶどころか、青龍寺の密教第七代開祖であった恵果和尚から正式な灌頂を受けて(つまり、後継者として公認された)第八代目の開祖となったことはぜひ知っておいてください。
日本に帰る際、「真言密教の道場にふさわしい場所を教えてくれ」と願いをかけて三鈷杵(さんこしょ:密教の祈祷に使う道具)を空に投げると、三鈷杵はどこへともなく消えていったのです。
日本に帰り、投げた三鈷杵の行方を捜して山の中を歩いていると、2匹の犬を連れた猟師に出会います。すると、猟師がその場所に心当たりがあると言って、空海を案内すると松の木に引っかかっている三鈷杵を見つけることが出来ました。
このことから、この地(高野山)を真言密教の道場として開創することになったと言われているのですが、空海を三鈷杵の松まで案内した猟師こそが、丹生都比売大神の御子の高野御子大神だったのです。
そして、この地に住む山民、つまり丹生都比売大神からこの地を譲り受けて、空海により高野山は仏教の聖地として開かれていくことになります。
弘法大師・空海は高野山が神の領域であることを知っていた!
先ほどの有名な伝説は、私たちにとても重要な示唆を与えてくれています。
高野山と聞くと今ではすっかり真言密教の聖地、というイメージが定着してしまっていますが、実は仏教の聖地になる以前からこの場所は神々が住む神聖な場所として信仰の対象だったということです。
弘法大師・空海がなぜ高野山の開山と同じ年に丹生官省符神社を建てたのか。それは、元々神々の領域であった高野山に仏教の道場を造るわけですから、まず神々から場所を譲り受ける必要があります。
そのため、以後仏教としての高野山への表参道の入口となる慈尊院の上に丹生官省符神社を建て、そこに丹生都比売大神と御子の高野御子大神を勧請し、丁重にお祀りしたのです。
高野山は弘法大師・空海によって真言密教の聖地になったわけですが、順番としては古くからこの土地は神々の鎮座される神聖な場所であり、それを弘法大師・空海が神と仏教が共存する聖域へと造り変えた、というのが正しいということ。
そして、これこそが世界でも稀な日本の神仏習合、という価値観の醸成に繋がっていくことになるのです。
弘法大師・空海は「丹砂」目当てで高野山を選んだ!?
先ほどご紹介したのはどちらかというと宗教・信仰上のエピソードですが、もう1つ、弘法大師・空海が高野山を真言密教の拠点として選んだもう少し現実的な説をご紹介します。
丹生都比売神社の概要で、「丹」とは「丹砂」のことであり、水銀の原料になったことを説明しました。
実は平安時代以前から水銀というのはとても貴重な原料として、高価な値で取引されていたと言われており、事実丹生都比売神社があるこの高野山一帯は「丹砂」が採掘できる場所だったことも分かっています。
そうすると、弘法大師・空海は「丹砂」の産出が期待できるこの場所に拠点を構えることで、「丹砂」から得られる経済的な利益も期待したのでは?と考えられるのです。
実際に空海が「丹砂」の価値や、この地がその産出地であることを知っていたのかは定かではありません。ですが、空海の生まれ故郷である四国にも同じように「丹砂」の産出地があり、空海がその存在や「丹砂」の取引が盛んに行われていた事を知る機会は豊富にあったと推測できます。
さらに、四国から京の大学に入学し、中退をしてから留学僧として唐に渡るまでの約10年間、空海の足取りははっきりしていません。ですが、この間に空海は修験者のように山中を放浪したり密教の存在を知ったことを考えると、その間に「丹砂」の取引で生計を立てる山民と接する機会があっても不思議ではありません。
いずれにしてもこれは一つの説という領域を出ませんが、非常に面白く興味深い内容だと思います。
【世界遺産】丹生都比売神社・丹生官省符神社と高野山のつながり
壇上伽藍の御社
弘法大師・空海は高野山の開創に当たって、この地に鎮座されていた神である丹生都比売大神と御子の高野御子大神を丁重にお祀りされたことは先ほどお話ししましたが、これは高野山の壇上伽藍にも見ることができます。
それが、壇上伽藍の御社(みやしろ)です。実は御社は壇上伽藍でも金堂(講堂)に次いで最も早く創建されたものであることはご存じでしょうか。
弘法大師・空海にとっては高野山の壇上伽藍にこの世の密教世界を築き上げる大きな目標があったのですが、空海がまず取り掛かったのは根本大塔ではなく御社を創建して、ここに丹生都比売大神と御子の高野御子大神をご勧請することでした。
壇上伽藍の御社には、右から丹生都比売大神と御子の高野御子大神をそれぞれ祀る祭殿と、十二王子百二十番神を祀る総社と呼ばれる祭殿が並んでいます。
十二王子というのは神々が子どもの姿になって現れる様子を意味し、百二十番神というのはあらゆる神、つまり八百万(やおよろず)の神の意味です。
丹生都比売大神と御子の高野御子大神の祭殿は丹生都比売神社の祭殿と同じ造りで一間社春日造になっています。さらに、大きさも丹生都比売神社と同じと言われており、一間社春日造では日本最大の規模になります。
大門は昔、大鳥居だった!?
高野山の入口にそびえ立つ大門。この場所には大門が立つ前、もともと大鳥居が立っていたことはご存じでしょうか。
これまでお話ししてきた通り、高野山は空海が真言密教の道場として開創するよりも前から信仰されてきた神々の山。ですので、そこに鳥居が立っていたとしても何ら不思議ではありません。
弘法大師・空海により仏教の一大聖地になってからは、仏教の興隆もあり多くの参拝者が高野山を訪れるようになります。このため、高野山は神々の山から徐々に仏教の聖地として人々に認知されていったわけですが、そこからやがて弘法大師・空海の入定信仰が生まれ、日本全国に広まるようになりました。
大鳥居が大門に姿を変えたのは1141年。そのような弘法大師信仰と真言密教が広まった世相を表したものと言えます。
【世界遺産】丹生都比売神社・丹生官省符神社と神仏混淆(しんぶつこんこう)
神仏混淆(しんぶつこんこう)と神仏習合(しんぶつしゅうごう)
ここまでお話を進めてくると、世界遺産の丹生都比売神社・丹生官省符神社は真言密教の聖地は高野山と合わさって神仏習合の現れである、と気づかれた方も多いと思います。
神仏習合とは日本古来からみられる独特の風習で、仏教と神道を一体のものとみなして信仰することです。簡単に言ってしまえば、神様は仏さまが姿を変えたものである、という信仰ですね。
日本では高野山のように壇上伽藍の中に神社(御社)があったり、同じ世界遺産の日光東照宮の中には本地堂や五重塔があったり、神社とお寺が一体となっているのが普通で、私たちはそれに慣れてしまっているのですが、そもそも仏教と神道という異なる信仰が共存しているわけですから、これは世界的に見るとかなり珍しい信仰の形なのです。
高野山はまさにこの神仏習合の先駆けとも言える存在ですが、厳密には弘法大師・空海は丹生都比売大神や高野御子大神と真言密教の大日如来は別物の存在としてそれぞれを大切にお祀りしました。
このように、神様と仏様を一体としてではなく、別々のものとしながらも両者を信仰することを「神仏混淆(しんぶつこんこう)」と言います。
今回ご紹介してきた丹生都比売神社・丹生官省符神社や高野山には、その神仏混淆の象徴をいくつか見ることができます。それをご紹介しましょう。
両部鳥居と大門
世界遺産・丹生都比売神社及び丹生官省符神社には共通する特徴があります。それは両社とも鳥居が両部鳥居であること。
両部鳥居というのは、写真の通り鳥居本体を支える2本の柱に、それを支えるように稚児柱(ちごばしら)と呼ばれる控えの小さい柱が組み合わさっている鳥居のことです。
この形で有名なのは同じく世界遺産の広島県、厳島神社の鳥居でしょう。
ここで丹生都比売神社で祀られている神様を思い出してください。丹生都比売大神と高野御子大神の他に、厳島神社と気比神社からそれぞれ神様をご勧請したとお話ししましたが、この2つの神社も両部鳥居です。
この両部鳥居というのは、金剛界と胎蔵界の象徴であるとされていることから、神仏混淆のシンボルとも言われているのです。
一方、高野山の大門。現在の大門は1705年に再建されたものであり、その造りは五間三戸(さんこ)の二階二層門となっています。
この二層門がまさに神仏混淆を表しており、先ほど鳥居から大門に姿を変えたとお話ししましたが、姿が変わっても引き続きこの大門は高野山における結界としての役割を持っているのです。
今も引き継がれている弘法大師・空海の精神
続いて、今も続く神仏混淆の行事をいくつかご紹介します。いずれも、高野山を開創した弘法大師・空海が真言密教だけでなく、この地に古くから鎮座する神々に敬意を払っていた精神を今に引き継ぐものです。
まず、高野山で僧侶になる人は100日間の修行「加行」(けぎょう)をするのですが、それを終えると丹生都比売神社に守護を願うお札を納めることになっています。
さらに高野山には「勧学会」(かんがくえ)という行事が毎年行われています。
この勧学会は、密教の経典や理論、空海の著書などを学ぶ完全非公開の学問研鑽の行事で、旧暦の八月二十一日に総仕上げとなる「本会(ほんね)」が行われるのですが、この始まりと終わりに丹生都比売神社の神前にて読経が行われています。
いずれも目の当たりにすることは難しいですが、皆さんが神仏混淆を間近で確認できる機会は実は毎日あります。それは、壇上伽藍の御社の拝殿にあたる山王院では毎日、明神様を称える読経「南無大明神」が必ず唱えられていることです。
高野山の表参道「町石道」
高野山が弘法大師・空海によって開創されてから、多くの人が参詣に訪れましたが、そのメインの参詣道となっていたのが「町石道(ちょういしみち)」と呼ばれる道です。
この道は別記事でもご紹介していますが、今も歩くことができます。
注目すべきはそのルートですが、慈尊院と丹生官省符神社が起点となっており、そこから山上の壇上伽藍まで続いているのですが、丹生都比売神社もこの町石道のルートの中に位置しています。
厳密には町石道のルートから外れるのですが、丹生都比売神社は六本杉でいったん山の麓まで下りた場所にあり、多くの人が参詣の途中で立ち寄ったものと思われます。
町石道は、道に「町石」と呼ばれる石塔が110メートルごとに建てられているのですが、この町石は大日如来の象徴であると言われています。
つまり、人々は高野山の参詣の際に町石を拝みながら、丹生官省符神社や丹生都比売神社を通ることで大日如来と神々の両方を信仰していたわけです。そう考えると、町石道そのものが神仏混淆から生まれた信仰の道であると言えますよね。
丹生都比売神社・丹生官省符神社が世界遺産に登録された理由
ここまでお読みいただければ、丹生都比売神社・丹生官省符神社が世界遺産に登録された理由もご理解頂けるものと思います。
私たちは高野山と言えば弘法大師・空海によって開かれた真言密教の聖地というイメージを強く持っていますが、実は空海がこの場所を選んだ理由の1つとして、この地が古くから神々が鎮座される聖域として厚い信仰の対象となっていたことがあるのです。
空海がなぜ密教の大日如来だけでなく、この地に古くからいらっしゃった神々も合わせてお祀りされたのか。筆者はそこには空海の生涯や生い立ちに深くつながってくる要素があるものと考えています。
そのような空海の信仰の精神が高野山や丹生都比売神社・丹生官省符神社を現在に至るまで大切に信仰し、日本における神仏習合の先駆けとなったこと。これが丹生都比売神社・丹生官省符神社を含む高野山の世界遺産としての本当の価値です。
高野山は正式には「紀伊山地の霊場と参詣道」という名称で、熊野古道や吉野と合わせて世界遺産に登録されていますが、なぜこれらの地域が合わせて登録されたのか。
その中心にあるのは、世界でも稀な日本の神仏習合という価値観であり、その価値観を表現するためには高野山だけでなはく、丹生都比売神社・丹生官省符神社も含めなければ意味がないのです。
いかがでしたでしょうか。世界遺産・丹生都比売神社及び丹生官省符神社の魅力が伝わっていましたら幸いです!
(参考:「高野山」金森 早苗 JTBパブリッシング、「高野山を知る一〇八のキーワード」高野山インサイトガイド制作委員会 講談社BC,講談社、「高野山」 尾上恵治 新評論、「週刊 日本の神社 78」DeAGOSTINI、「古社名刹 巡拝の旅 7 高野山」集英社、「謎の空海」三田誠広 河出書房新社)