心は絶えず動いている
新型コロナウイルスのパンデミックやロシア・ウクライナ情勢、そして突然の訃報という悲しいニュースなど日々流れてくる、そして見聞きするニュースやたくさんの出来事に私たちの心は少なからず何かを感じ、変わり続けています。
それに加えて私たち自身の生活や環境、親しい人たちや愛おしい存在に日々起こる出来事は、直接私たちに関係してくることですので、良いことも悪いことも、嬉しいことも悲しいこともより大きく私たちの気持ちを揺れ動かします。
そう考えると、私たちの心というのは休む間もなく、ましてや世界や情報がこれまでにないくらいに密接につながって溢れている現在が私たちの心やストレスに与える影響というのは測り知れないものなのかもしれません。
私たち人間には喜怒哀楽という「感情」があります。もちろん人間以外の動物にも感情というのは備わっていますが、人間ほどそれが表情や外見に表れる生き物はいないでしょう。
しかし一方で、人間は必ずしも他の動物のように感情が素直に表情や仕草に表れるわけではないということも事実だと思っています。
恐怖や怒り、妬みといった負の感情が心の負担となりストレスになることはもちろんですが、私たち人間というのは心の動きや感情と表情・仕草が一致しない時、例えば思っていることを言いたいのに言えない、怒りをそのまま表情や外に出したいのに我慢しなければいけない時にもストレスを感じてしまい、その分心にも負荷がかかっているように思います。
遠い異国の地のニュースでも身近な人の出来事でも、それを文字で見て知ろうが直接言葉を投げかけられようが、それが自分にとって一見何でもないように思えることでも、生きている限り私たちの心も心臓とおなじように常に動き、そしてどんな些細な影響であっても変わり続けていると、最近強く感じます。
世界や人間は矛盾で溢れている
技術が進歩するにつれて、また人間社会が「経済的に」豊かになるにつれて私たちを取り巻く世界の環境の変化もますますそのスピードを上げているように思います。
この記事を書いている2022年ですら、ロシアとウクライナの情勢が一変し、国の衝突・争いはすなわち人々がそれぞれの意思とは関係なく武器を取り戦うことを余儀なくされ、前年2021年までの世界が遥か昔のことのようです。
技術や文明は間違いなく発展していると言えますが、私たちの社会や文化はより良い方向に向かっているのでしょうか。
・清潔な水を確保する技術はあるのに、世界には泥水で日々をしのぐ人たちがたくさんいる
・「人とは仲良くしなさい」と言いながら、国同士の争いは絶えず緊張が高まるばかり
・日々の暮らしが豊かになり、便利になっても「幸せ」と感じることができない
・平和で安全な社会の実現を目指しているのに、日本ですら子どもたちは防犯ブザーを持ち、外出が気がかりな世の中に
・SNSで気軽に繋がることはできるのに、マンションの表札からは名前が消えて隣人の顔や名前すら知らない
・人間社会の発展とともに世界の終末時計は短くなる一方
・人の幸せが自分の幸せにならず、時として嫉妬や満たされない負の気持ちになってしまう
これらは優れた学者や専門家に言わせると厳密には矛盾ではないと思います。ですが、筆者はシンプルに考えるとこうはならないのになぜ?という思いが消えません。
これは筆者が思うことですが、きっと皆さんの中にもこうした「なぜ?」やモヤモヤの一つや二つがあり、日々それを考えないように、又は折り合いをつけて生きているのだと思います。
こうしたモヤモヤが膨らんで風船が破裂してしまったとき、折り合いをつけることができなくなってしまったとき、どうなってしまうのでしょうか。
形が無いモノへの不安が膨らんでいる
先ほど挙げた個人的な矛盾(疑問)の最たるものが、経済的に豊かになるにつれて人は形のないモノへの不安が膨らんでしまうことだと思います。
最近では「FIRE」という言葉が注目されるなど、今後働かなくても生活できるだけの十分な経済的な蓄えや源泉を確保して「早期リタイア」をする人も増えているように思います。
このような人たちはおカネの不安から解放された人々とも言えるわけですが、私たちが生きる上で切っても切れないおカネという問題から解放されて一定程度の幸せを掴んだ人ですら、不安が無くなることはありません。
健康、平和、信頼、愛、社会とのつながり、必要とされている充足感、、
私たちの心を満たしてくれるものの多くはこのように形が無いモノばかり。
技術や文明の進歩というのは、これまで答えの無かった問いに対して答えが見つかっていくことだと思います。
・どうすれば水を浄化できるか
・どうすれば空を飛ぶことができるか
・どうすれば食べ物をたくさん生産することができるか
・どうすれば病気やけがを治療することができるか
完全かつ全てではないにしても、このような問題に対して私たちは多くの答えを知っており、それを実現することができています。
ですが、
・どうすれば健康で長生きできるか
・どうすれば平和を築くことができるか
・どうすれば愛を育むことができるか
このような問いに対しては確固たる答えや方法はなく、一人ひとりが模索して見つけていかなければなりません。
私たちはこれまで科学や技術の発展で「答えを明らかにする」ことを積み上げてきたせいか、明確な答えや方法を見つけることができないモノに対しては不安をより感じやすくなっている気がします。
ですが忘れてはいけないのは、100%これだ!という方法や答えが無いことは、逆を言えばそれを実現する方法は1つではなく、そこには「可能性」が常にあるということです。
可能性、言い換えれば希望とも言えるでしょうが、これらも形が無いですね。
心を休めて、心を軽くするにはどうしたら良いだろう
これまで、私たちの「心」は絶えず動き、変化しており、どんな些細な出来事、言葉、行為にも影響を受けているのではないか、そして今を生きる私たちにとって世界は「折り合い」を付けることが多くなるばかりの混沌としたものであり、形の無いモノへの「不安」が大きくなっているのでは、というお話をしました。
ここからは、どうすれば心を休めることができるのか、心を軽くしていられるのかについて考えてみたいと思います。
二項対立から脱却しよう
最近、ベストセラーになっている近現代の思想に関する本を読んだ際、筆者なりに解釈してとても腑に落ちたことをご紹介します。(見出しの「二項対立」もその本からの引用です。)
その本で紹介されていた現代思想は「二項対立の構造から脱却する」ということを考えたものです。
「二項対立」というのは「善」と「悪」といったように、逆の立場にある二つの考えや価値観のこと。その本では、20世紀後半頃から私たち人間の社会では「二項対立」という構造がより顕著に見られるようになった、と記載されていました。
20世紀の大きな歴史の観点で言うと、冷戦の始まりによる「東」と「西」の分断であり、「資本主義」と「社会主義」の戦いなどを思い浮かべて頂くと分かりやすいかと思います。
もっと身近なもので考えると、近年テレビドラマなどでも「勧善懲悪」型として「良い者」と「悪い者」が明確に描かれていて、最後には「良い者」が劇的な一発逆転でスカッとする、という内容が人気なのも根底に「二項対立」があるからかもしれません。
このような「白か」「黒か」という区別はとても分かりやすくて簡単なのですが、一方で柔軟性や許容というものを制限されてしまうことでもある気がしています。
日々叫ばれるコンプライアンスというものも、ある意味では白と黒の境目を明確に規定して、そこから逸脱するものを罰する仕組みです。
これによって社会や企業が「クリーン」になる効果はあると思うのですが、物事はそれほど単純ではないようにも思います。
例えば「平和」と「戦争」という二項対立について、当然「平和」を望むわけですが、そもそも平和ってどういうことでしょうか。また、平和を目指すにはどうすれば良いでしょうか。
国同士の戦争が勃発する時、戦争を起こす国はそれぞれの「正義」や信念を持って自分たちが「正しい」と思っているように思います。つまり、戦争を起こすことが秩序や平和をもたらすのだと。
また、核爆弾が開発されて以来、世界平和はある意味「核の抑止力」の上に成り立っていると考える人もいるでしょう。果たしてそのような状況が良いことか、また平和と考えるべきか。
平和のための核に賛成か、平和のための戦争はやむを得ないか、大義のための犠牲は目をつぶるのか。
戦争と平和を取ってみても、そこには明確な対立線が引かれているようで、考える余地や姿勢の取り方、解決方法など様々にあるように思います。
これを私たち個人で考えた時、社交的か一匹狼か、都心と田舎、サラリーマンと独立起業、結婚か独身か、あらゆる項目を良し悪し、幸せか不幸か、というモノサシで計りがちで、本屋に行けばこのようなことに明確な答えを示すかのような自己啓発本が所狭しと並んでいます。
ですがこういった選択も、どちらが良いか悪いか、という絶対的な答えは無く、またその選択肢の捉え方や取るにしてもその方法にはいろいろな考え方や余地があるのです。
私たちはついつい「こうでなければならない」とか「こうしなければならない」、また、誰かや何かと比較して「~がある(ない)ことが劣っている/優れている」と決めつけてしまいますが、これも私たちの考えが二項対立に固執してしまっていることの現れではないでしょうか。
二項対立のしがらみから逃れることができれば、私たちの心は少し軽く、休まる気がしています。
たまには過去を振り返る
日々の生活が安定してくると、私たちの考えや目というのはどうしても将来に向いてしまいます。
確かに、寿命が延びて長生き出来るようになれば将来のことを計画したり考える時間も増えますし、それによって最近では何かと老後資金が新たな悩みや不安になっている人も多いのではないでしょうか。
筆者は公認会計士なのですが、会社が決算書や帳簿をつける時のルール(会計基準)もどんどんアップデートがされて、新しいルールが公表されています。
そして、この会計のルールもどちらかというと「将来志向」の側面が年々強まっている気がしています。
例えば、企業の事業が今後当面上手くいかず、赤字見込みが続く場合は企業が保有している固定資産(土地や建物、機械設備など)も価値を減らす(減損)ことが求められます。
また、今年赤字を出したとしても翌年に赤字を十分補填するぐらいの利益を見込んでいる場合、その利益を赤字と相殺することで税金を減らすことができるので、この将来の税金メリットを「資産」として計上することも求められます。
このように、企業の決算というのも「将来の事業見込み」を反映したものになっており、なんだか世の中全体が将来ばかりに目が行ってしまっている気がしてなりません。
もちろん企業や社会、産業が将来に目を向けることは当然で悪いことでは無いのですが、私たち個人にしてみれば、将来を夢見て気分が高揚したりモチベーションが上がる分にはいいのですが、あれこれ考えすぎて不安ばかりが募ってしまうとすればこれは気を付けなければいけません。
今後の先行きや将来を明るく考えることができない時、筆者は個人的には過去を振り返って思い返してみることも良いことだと思っています。
アスリートや研究者、一流のアーティストなどの世界では「結果」が全てということがよく言われます。ビジネスの世界でも成果を上げて、利益を出すことができなければ企業は倒産してしまうわけですから、そういった意味でも結果重視でそこに至る過程やプロセスというのはあまり重要視されません。
ですが、私たち人間の生活や人生は違っていて、そこに目に見える結果というものはありません。それは死ぬまでがずっと人生のプロセスだからです。
長い人生の中で、付き合う友人恋人や仕事で知り合う人々といった出会いは数多くあるでしょう。
もちろん、そういった出会いからその人たちとの関係が長く続くことを望みますが、いつからか出会うことも少なくなり別の道を進むこともたくさんあると思います。
では、今親しくつながっている人たち、また年老いて死ぬ間際に仲良かった友人や家族だけがあなたの全てかというとそうではありません。
思い出だけ抱えていてもしょうがない、と言う方もいるかもしれませんが、今はもうお互い連絡を取り合う仲ではないにしても、これまでの一時でも、時間や苦楽、気持ちを共にした友人や恋人というのはあなたが生きてきた意味そのものだと思います。
もし今の状況や将来が見えない時は、過去を振り返ってみるのも良いことなのではないでしょうか。
その時には感じていなかったかもしれませんが、今考えるとそこに「幸せ」があったことを実感できればそれだけであなたの気持ちはふっと軽くなって暖かくなるはずです。
執筆後の雑感
このところ悲しいニュースが続き、このような記事を書かせて頂きました。
冒頭で記載したように、はっきりとした感情の動きを認識しているわけではないですが、それだけ筆者の心も何かしら動き、揺れているということなんだと思います。
心を休める、落ち着かせる、軽くする-。
そういった心のあり方とこのメディアでテーマとしている一人旅を考えていましたが、筆者にとっては一人旅も心を休め、軽くする行為・存在なのだなと改めて感じた次第です。
一人旅をしている間というのは、普段よりもスマホやPCを見ることもずっと少ないですし、「昼ごはんや夜ご飯はどこで何を食べようか」とか、「明日はどうしようか」とか、「この場所にはどうやって行けばいいのか」とか、本当に今日・明日のことで頭がいっぱいになって、そこに意識が集中している状態です。
ですので、余計なことを考えたり感じるヒマがありません。
見たかった光景や行きたかった場所に立った感動などを味わう以外はある意味「無」の状態と言えるかもしれず、実はそういった状況が「心」を休めることにもつながっているのかもしれません。(気持ちは休まらないのですが)
改めて思い返してみると、壮大な自然や食べたことのない料理、素晴らしい世界遺産など旅の目的はありますが、一人で旅に出るというのはこの記事で書いたような世界や世の中との折り合いや不安、二項対立に陥った自分を否定して中和するような「何か」を感じたい、探したい、という無意識が働いているのかもしれないな、と感じました。