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ミャンマーの歴史を分かりやすく解説!(2)戦後の軍事政権とアウンサンスー・チー

前回ミャンマーの歴史をご紹介し、第二次世界大戦が終結し、アウンサン将軍と植民地からの独立という光が見え始めた時代までお話ししました。
今回は、その後現在に至るまでのミャンマーの道のりをご紹介します。国軍による一党独裁政権からアウンサンスー・チーの登場、民政の実現まで、今ミャンマーでなぜクーデターが起こったのか、それをひも解く歴史をぜひお読みください!

ミャンマーの歴史を知るうえで知っておきたい言葉

この記事をお読み頂くうえで、出てくる言葉の説明をまとめました。適宜ご参照ください!

アウンサン将軍アウンサンスー・チーの父。当初は日本軍の鈴木敬司と協力して英国からの独立に向け独立義勇軍を立ち上げるが、その後は日本の支配に反発すべくパセパラという組織を立ち上げ。英国と協力して日本軍のビルマ(ミャンマー)からの撤退に追い込む。
パセパラ日本軍による支配に対する半日組織として組成された組織。はじめは軍隊を持ち、日本軍と戦ったものの、終戦後は軍隊を解体し、政党組織として活動路線を変更する。
カレン族ミャンマーに住む少数民族。英国の植民地支配下からビルマ族とは異なる支配下にあったため、ビルマ族と徐々に溝が生じる。
ネイウィン1962年に軍事クーデターを起こし、国軍による一党独裁体制を築いた最高司令官
ビルマ社会主義計画党(BSPP)ネイウィンが軍事クーデターを起こすに至った、ビルマ社会主義思想に基づく国軍による政党。
国民民主連盟(NLD)アウンサンスー・チーが立ち上げた政治活動組織。2011年からの民政で政権に参加し、2020年の国民総選挙では与党になるなど国民の支持を拡大。2021年のクーデターで国軍に政権の座を明け渡すことを余儀なくされた。
連邦連帯発展党(USDP)2010年の民政化スタートに伴い、ミャンマー軍事政権の政党として発足。民政後初の大統領、テインセインが党首。

5.ミャンマーの歴史:1945年~1990年(戦後のミャンマーと更なる混乱)

アウンサン将軍の暗殺

第二次世界大戦の終戦後、アウンサン将軍はパセパラの軍を解体し、以降非暴力による独立と民主主義の実現に奔走しました。ちなみに、このアウンサン将軍の思想を引き継いだのがアウンサンスー・チーと言えます。

パセパラを非軍事的や政治運動組織に変革したアウンサン将軍には、それまでの日本や英国との軍事力での戦いの苦い経験から、軍事力による解決は最終的には何の解決にもならないという思いがあったのかもしれません。

パセパラはアウンサン将軍の人気もあり、国内で大衆の支持を集め、アウンサン将軍も英国に独立の要求を飲ませるべく交渉を積極的に行いました。
その結果、1948年にミャンマーはついに英国からの独立を果たし、共和制へ移行を実現したのです。

英国がこれを認めた背景として、当時冷戦という新たな脅威に対応せざるを得なくなっていた事、相対的にミャンマーを支配する価値が英国で低下していた事、何よりインドでも独立運動の波が起こり、余裕がなくなっていたことが挙げられます。

ただ、このミャンマーの独立はすでに暗い影を落としていたのです。というのも、アウンサン将軍はミャンマーの独立を目にすることなく、その前年に暗殺され、32歳という短い生涯を閉じることになったためです。

アウンサン将軍が暗殺により命を落とした後、パサパラ政党を継いでミャンマーの初代首相になったのがウー・ヌでした。
ここで、アウンサン将軍の政治思想をご紹介しておくと、以下の通りです。

・最終的には社会主義国家を目指すものの、その過程として資本主義社会を認める
・少数民族の権利も保護し、完全な民主主義の実現を目指す
・国軍は国防のみを目的として活動し、政治には介入させない

残念ながら、このどれもが挫折してしまうことになります。

軍事政権下のミャンマー

アウンサン将軍の後を継いだウー・ヌですが、実は課題は山積みでした。その大きなものが、民族と思想の違いによる内紛です。

ミャンマーは独立を果たしたものの、事前に少数民族の藩主たち全員と完全に意見をそろえられたわけではありません。カレン族はより広い自治州(カレン州)の設置を求めて蜂起を起こし、ビルマ族の中でもより完全な共産主義に傾倒していたビルマ共産党が反乱を起こすなど、ミャンマーは独立しても内情はばらばらに分裂していたのです。

この内紛を何とか鎮圧したのが国軍でしたが、当時国軍の最高司令官だったネイウィンはウー・ヌのやり方に不信感を抱くとともに、収まらない少数民族からの自治州拡大要請に危機感を募らせます。
そして、ついに1962年国軍によるクーデターを決行。議会は即時解散させ、以降1988年までネイウィンが組成したビルマ社会主義党(BSPP)による一党独裁の軍事政権が続くことになります。

ネイウィンが目指したのは中国や旧ソ連などの共産主義とは似て非なるものでした。このため、冷戦時代においてネイウィン政権のミャンマーは東西のいずれにも属さず、中立の姿勢を維持しました。
これが海外とのパイプを弱めることにつながっただけではなく、企業の国営化などを通じてミャンマーの経済は著しく弱体化することになります。

最終的には日本やドイツからODAによる経済支援を受け、また債務返済に猶予を与えてもらうよう、国連の後発発展途上国(LDC)の認定にも甘んじることになったのです。

もちろん、この独裁政権と極度な貧困状態にミャンマー国民の不満は溜まる一方でした。それが爆発したのは、ほんの些細なきっかけで、それがミャンマーの歴史の転換点、アウンサンスー・チーの表舞台への登場へとつながっていきます。

「8888」運動

1988年3月12日、ラングーン(ヤンゴン)工科大学の学生たちが大学近くの喫茶店で持参のレコードを流してもらおうとしたところ、店内にいた客と揉め事が起こります。
この客というのがネイウィン率いるBSPPの幹部の息子だったのです。

揉め事は収まらず、その場にいた学生が銃で撃たれて死亡する事件へと発展しました。

これがきっかけとなり、ラングーン工科大学の学生たちがデモを実施。慌てて軍は大学を閉鎖するも、地方へと戻った学生たちからその話が国中に広まり、デモは瞬く間に大きなうねりとなり、国軍に迫る事態に。

1988年と言えばまだインターネットすら普及していない時代。そんな時代に、言葉通り口コミの輪が村から町へ、町から都市へと伝染病のように広がったのは、今では起こりえないし、考えられない出来事ですよね。
それだけ国民の中に不満が充満していたとも言えるでしょう。

国軍は銃撃などで対応するも、その勢いに押されてついにネイウィンは辞任を表明。しかし、後任でBSPPの議長と大統領を務めたセインルウィンも国軍の中では強硬派で、あろうことか学生デモを軍力で強硬的に抑えつけようとした人物だったことから、これがさらに国民の怒りの火に油を注ぐ状態になり、セインルウィンもわずか19日で辞任を表明する事態になりました。
この大掛かりなデモが1988年8月8日に巻き起こったことから、ミャンマーでは「8888」と呼ばれています。

アウンサンスー・チーの登場

「8888運動」が起こった1988年、偶然にもそれまでずっと海外にいたアウンサンスー・チーはヤンゴンの自宅に戻っていました。母親の危篤の知らせを受けたからです。
この頃、アウンサンスー・チーは政治の表舞台にも出ず、政治運動も全く行っていない、一般人と同じような生活を送っています。

そして、偶然にも祖国で一大事件が起きていることを目の当たりにしたアウンサンスー・チーはこの時、政治の表舞台に出て祖国ミャンマーの民主化運動を推し進める決意をします。

当初十分な統率者に欠いていた学生運動のリーダーたちは、アウンサンスー・チーをはじめとする人物たちに講演の依頼をするなどし、その活動を盛り上げる一方で、当初は学生同志が銃で殺されたことに対する怒りと反発が目的だった抗議デモは、徐々に政治的な目的へと切り変わっていきました。

学生たちが求めたものは、次の2つ。
・一党独裁から複数政党による議会制運営への変更
・臨時政権の成立

ですが、アウンサンスー・チーはこの学生デモには賛同しませんでした。
彼女の目的は、あくまでも現状の国軍も含めてミャンマー全体を民主化に向けて一体化することになったからで、国軍に対抗して臨時の政権を作ることは、政権が2つできることになり、彼女の思想と相反していたためです。

結局アウンサンスー・チーは国民民主連盟(NLD)を立ち上げて政治活動を開始。一方の学生運動は徐々に下火になり、とうとう国軍による制圧により鎮静化したものの、多くの学生がアウンサンスー・チーに新たなリーダーの誕生に期待を抱くようになりました。

6.ミャンマーの歴史:1990年~2003年(アウンサンスー・チー3度の軟禁)

1回目の軟禁(1989年~1995年)

1988年に巻き起こった学生運動はそれでも大きく国軍を動かすことになりました。
国軍は学生の要求を受けて、複数政党による政治運営と国民総選挙の実施を約束し、NLDに政党としての活動を認めたからです。

ただし、ここでもアウンサンスー・チーが正式に議会議員になるまでにはまた20年もの月日を要することになります。それは3度にわたる国軍によるアウンサンスー・チーの軟禁が実行されたからです。なぜこのような事態になってしまったのでしょうか。

当時の軍政、BSPPによる国民総選挙の開催と政党創設の解禁によりアウンサンスー・チーは各地で講演を行うなど積極的な政治運動を開始するとともに、BSPPには対話による交渉を継続して求めたものの、BSPPは一向に態度を軟化せずに対話には応じませんでした。

そして軟禁のきっかけとなったのが、7月19日に予定されていたアウンサン将軍の命日に開催された追悼式典です。当初国軍は外交客員や遺族を招いて「殉難者の日」の式典を行う予定でしたが、アウンサンスー・チーが一般国民の自由な参加を求めて抗議を行ったのです。
これに対してもBSPPは一切無視し、逆にアウンサンスー・チーのこのような行動が国民のデモを引き起こし、国に対する妨害と攻撃に当たるものと非難し、警告を発します。

式典の当日、アウンサンスー・チーはビラを国民に配り、耐え忍んでデモを実施しないことを訴えましたが、学生たちはこれに反発してデモが巻き起こりました。
このデモを引き落とした原因として、アウンサンスー・チーは国家防御法に基づいて逮捕、自宅軟禁を余儀なくされます。

リーダーが不在のままのNLDでしたが、1990年の総選挙では圧倒的な支持を獲得。ですが国軍は一方的にこれを無視し、憲法の制定のため軍政が自ら選んだ議員を中心に制憲国民会議を開催する事態になりました。
対話に応じず、一方的に事を進める議会にNLDはこの制憲国民会議をボイコット。結局憲法制定は2008年まで議会が休眠状態になったことで、ずっと先延ばしの状態になってしまったのです。

軟禁の間の1991年、アウンサンスー・チーは非暴力運動によるノーベル平和賞を受賞しています。

2回目の軟禁(2000年~2002年)

1995年に軟禁を解除されたアウンサンスー・チーは自宅前での講演などを行い、引き続き政治活動を行うとともに、継続して国軍に対話での話し合いを一貫して求め続けます。少しはその勢いが衰えるかと思いきや、国民のアウンサンスー・チーに対する支持は変わらず、その活動でNLDの勢いはさらに増していく状況に危機感を抱いた国軍は、再びあの手この手でNLDの活動を妨害します。

そして、ヤンゴン中央駅からマンダレーのNLD支部へ向かうアウンサンスー・チーを国軍は駅で強制的に足止めし、そのまま2度目の軟禁を課せられました。

3回目の軟禁(2003年~2010年)

2002年に再び軟禁を解除されたアウンサンスー・チーは、その翌年の2003年に襲撃事件に巻き込まれます。これをディベーイン事件と呼びますが、アウンサンスー・チーを乗せたNLDの一行がディベーインという街で突如数千人の暴漢に襲撃されたのです。

アウンサンスー・チー率いるNLDは軟禁解除後も精力的に講演活動や地方への行脚を繰り返し、変わらぬ国民からの厚い支持を取り付けていました。その勢いは、アウンサンスー・チーが地方に出かけると、数万人規模で民衆が集まってくるほど。

これに危機感をもった国軍は、再びアウンサンスー・チーへの圧力を強めるわけですが、その軟禁生活の間にNLDの活動の一挙手も見逃さないように監視体制を強めていたこともあり、ディベーイン事件はそうしたアウンサンスー・チーとNLDの行動を先読みしての事件だったという説もありますが、詳細は判明していません。

この事件から何とか脱したアウンサンスー・チーですが、その後国軍により病院に搬送され婦人科の病気による手術を受けたあと、3度目の軟禁生活が待っていました。

この3度目の軟禁は結果的には2008年の新憲法制定を経て、2010年に開催された議員総選挙まで続くことになります。

7.ミャンマーの歴史:2003年~2011年(民主化に向けた動き)

国際社会からの圧力と民主化に向けた動き

2003年に起こったディベーイン事件は、ミャンマー国内だけでなく海外からも強い批判を受けることになりました。特にアメリカやヨーロッパ諸国はミャンマーの軍事政権を批判し、経済的制裁を課すまでに至ります。

さすがにこの状況では国軍も民主化に向けた姿勢を見せる必要を感じ、憲法の制定と国民総選挙の実施、それに基づく大統領の選任を公約することで、NLD側への譲歩を見せました。

そして、2008年には新憲法の制定とその是非を問う国民投票を実施したのですが、その投票予定月だった5月にミャンマーを強大なサイクロン「ナルギス」が襲いました。それまでほとんどサイクロンの影響を受けてこなかったミャンマーはこれにより多くの被害を出し、被災者は240万人、死者は14万人にも上ったと言われています。

このような巨大災害に見舞われたみも関わらず、国軍は憲法制定の国民投票を当初の予定通り決行し、強引に可決してしまいました。この非人道的な行為も国際社会から批判の的になります。

国軍に有利な新憲法

2008年の国民投票によって強引に新憲法の制定が軍政により可決されたのですが、その内容は著しく国軍にとって有利なものでした。その端的な例をご紹介しましょう。

  • 上下両院とも25%は国軍が議員を指名できる(入れ替えも自由)
  • 大統領、副大統領は議会から選ばれるが、軍事に通じている事、家族に外国籍の者がいないこと
  • 内務大臣、国防大臣、国境担当大臣の三ポストは大統領に任命権限がなく、国軍最高司令官が任命できる、
  • 国が非常事態に直面した場合、大統領は全権限を国軍に移譲できる(クーデターの正当化)

いかがでしょうか。
国軍による一定の議席が保証されており、また重要なポストへの指名権、さらにはクーデターを正当化できるかのような権限を認める条文まで盛り込まれています。

軍政から民政への移行

2008年に新憲法も制定され、ついに軍政は公約していた国民総選挙と大統領の選出を進めるべく、2010年に国民総選挙の実施を行い、上下議会の議員を選出、ここに長らく続いた軍政は一応の決着を見ることになり、民政がスタートしました。

終戦後、ネイウィンに始まった国軍による独裁軍政から半世紀の時を経て、ようやくミャンマーは民政化に向けて大きな一歩を踏み出したのです。

この時アウンサンスー・チーはどうなっていたかというと、国民総選挙の際もまだ3度目の軟禁状態にあり、選挙はおろか、NLDとしてもこの選挙へのボイコットを決めており、NLDからは議員は誰一人として立候補しなかったのです。
この結果、議会の大半は軍政の翼賛団体(USDA)が政党に衣替えした連邦連帯発展党(USDP)の圧勝に終わります。

新しく誕生した民主主導の政権とはいえ、名ばかりで実態は変わらないのか、と思いきや、2011年にテインセインが大統領に選出され、テインセイン政権が発足すると、ここから思わぬ展開へと動き出します。

8.ミャンマーの歴史:2011年~2020年(アウンサンスー・チーの民政)

アウンサンスー・チー率いるNLDの議会参加

2011年に新しく大統領となったテインセイン。テインセインはもともと軍のナンバー4の立場にある大将だった人です。
二人いる副大統領のうち一人も元軍人という体制で、国軍主導の政治になるかと思いきや、テインセインは次々と民政改革を推し進めました。
それを最初に打ち出したのが、2010年に3度目の軟禁から解放されたアウンサンスー・チーと2011年に行った対談です。

これまでの軍政では国軍はアウンサンスー・チーとの対話をかたくなに拒んできました。そして、対話による民主化を掲げてきたアウンサンスー・チーにとっては、対話が実現しなければ何も始まらなかったわけです。
テインセインとアウンサンスー・チーとの対談は、これまでの没対話路線の殻を打ち破る歴史的な出来事と言ってよいと思います。

これを皮切りに、テインセインはNLDへの議会参加の機会を作るため、補欠選挙を実施、さらにこれまで政治的な理由で拘束されていた人たちの解放も行いました。

ちなみに、この補欠選挙は2012年に実施されましたが、45議席中NLDが43議席を獲得するという、NLDの圧勝で終わります。日本ではとても考えられない結果ですが、ミャンマーにおいていかにアウンサンスー・チーが国民の心をつかみ、支持されているかということです。

この一連の動きに対し、欧米はそれまで行っていた経済制裁をほぼ全面的に解除し、ここからミャンマーの経済も発展への道筋が開かれることになりました。

アウンサンスー・チー政権の誕生

アウンサンスー・チーは2012年の補欠選挙によって下院議員として、ついに政治の表舞台に立つことになります。そして、そこから3年後の2015年に行われた国民総選挙では引き続きNLPが圧勝。総議席数(国軍に定められた25%含む)の実に59%に当たる390議席を獲得したのです。
一方のUSDP(軍政党)は41議席の獲得にとどまり、少数野党の立場に落ちぶれてしまいました。

ここに、民主主導政党初の大統領が誕生したわけですが、通常は与党であるNLDの党首のアウンサンスー・チーが大統領になるのが自然な流れですが、新憲法では大統領の資格として家族にミャンマー以外の外国籍の者がいないこと、というルールがあり、これによりアウンサンスー・チーは大統領にはなれないのです。

大統領になれないアウンサンスー・チーの代わりに大統領になったのが、側近のテイン・チョーという人物です。肩書は無いにしても、NLDを率いているのはアウンサンスー・チーなので、テイン・チョーの大統領就任は実質的にはアウンサンスー・チー政権の誕生と言えるでしょう。

アウンサンスー・チー、国家顧問に就任

実質的にはアウンサンスー・チー政権が誕生したと言っても、形式的にアウンサンスー・チーに行政権は付与されていません。これを何とか実現しようとNLDが知恵を絞り、出した答えが事実上首相の行政権に匹敵する権限を持つ「国家顧問」という新しいポジションを創設し、アウンサンスー・チーに付与するというものでした。

これを法律上可能としたのが、新憲法217条の規定だったのです。詳しい内容は割愛しますが、簡単に言うとこの条文は行政府のトップは大統領であるものの、国会は行政権を大統領以外の者に委ねることができる、というもの。
なぜこんな条文が残っているかというと、ネイウィン政権の独裁政権の名残で、一党体制の長である大統領が実質的な権限を持つものの、形式的には議会から選ばれた首相が政権を担っているため、大統領と首相の立場に矛盾が生じないようにするためです。

まさに軍政時代の法律を逆手に取った発想ですよね。

アウンサンスー・チー政権が抱える課題

アウンサンスー・チー政権が盤石な政権体制を着々と築き、流れは順調のように思うかもしれませんが、一方で多くの課題を抱えていたことも事実です。

記憶に新しいのは「ロヒンギャ問題」でしょう。
これは仏教が多数派を占める多民族国家、ミャンマーでの民族問題(ロヒンギャの人々は「民族」とも認められていない、とも)であるわけですが、特にビルマ族が主流で民族意識が強いミャンマーにおいて、支持の厚いアウンサンスー・チーでも、その言動や一挙手一同によっては国民の批判を受けることも珍しくありません。

このような問題山積みの状況にアウンサンスー・チー率いるNLDは対峙しているわけですが、直近2020年に行われた国民総選挙でもNLDは引き続き強い支持の元で、全議席数の8割以上を獲得する圧勝の形で終えています。

2021年:ミャンマーでクーデター

2020年の総選挙でさらにNLDの勢いが増すかと思われた矢先、2021年2月1日、軍部が軍事クーデターを起こし、アウンサンスー・チーは拘束され、ミン・アウン・フライン国軍総司令官が全権を掌握したと宣言しました。

ちょうどこの日は総選挙後初めての議会開催日が行われる予定だった日です。
拘束されたアウンサンスー・チーに関する情報はほぼ何も分かっていません。今回、アウンサンスー・チーが軟禁ではなく拘束という形になった背景の一つに、アウンサンスー・チー政権の下でかつての軍政下で実施されていた法が廃止されたことが挙げられます。

例えば、アウンサンスー・チーを軟禁する根拠となっていた「国家防御法」や、「緊急事態法」などは廃止されています。

1962年にネイウィンが軍事クーデターを敢行してから半世紀経ってようやく動き始めた民主政権でしたが、わずか10年で再びクーデターによる軍事政権に代わってしまったミャンマー。

引き続き今後の動向に目を向けていきたいと思います。

 

(参考:「アウンサンスー・チー政権のミャンマー」永井浩 他, 明石書店、「ビルマの歴史」根本 敬, 中公新書、「ミャンマーを知るための60章」田村 克己 他, 明石書店、「ミャンマー権力闘争」藤川大樹 大橋洋一郎 角川書店)

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