海外を一人旅するとき、その国のことを良く知っていないと思わぬトラブルにあったり、逆にその国の文化や歴史を知っていれば、もっと一人旅を楽しめるようになります。
今回は、スリランカを旅するときに知っておきたいマメ知識をいくつかご紹介します!
・スリランカと仏教
・スリランカの歴史と民族
・スリランカと日本の繋がり
これを知っていれば、スリランカを旅するときの楽しみがより広がります!
スリランカと仏教
インドの南に位置するスリランカ。スリランカの人々の内、実に70%近くが仏教徒であると言われています。
スリランカの世界遺産の中で、キャンディ、アヌラーダプラ、ポロンナルワはいずれもかつてのスリランカ王国が栄えていた場所であり、仏教の中心地でもありました。
「仏教」と一言で言っても、実はスリランカの仏教は日本の仏教とかなり異なります。まずは、その点についてお話をします。
大乗仏教と小乗仏教(上座部仏教)
仏教と一言で言っても、お釈迦様の教えを守り、さらにそれが世界中に広がる中で、仏教に対する姿勢や考え方に違いが生まれました。
例えば、日本でも真言宗、浄土宗など様々な宗派がありますが、これらは「大乗仏教」という1つの大きな根本思想に基づいているという点で共通しています。
「大乗」とは、大きな乗物、という意味ですが、大乗仏教はお釈迦様の教えの心を守り、信仰心を持っていれば誰でも仏様となり、救われるという考え方です。
つまり、広く大衆に対して仏教の門戸を開き、多くの人々の心に信仰心が生まれるのを信じて教えを説き、民衆を広く救うことを目的としています。
一方、上座部仏教は、お釈迦様の教えを文字通り守り、自分を厳しく律することでしか、人は救われないという考え方です。
このため、誰でも救われるわけではなく、厳しい戒律を忠実に守った者だけが救われる権利を持つことになります。
中国や日本は大乗仏教の国ですが、スリランカやタイなどは上座部仏教の国です。したがって、まず「仏教」と言ってもそれに向き合う人々の考え方が少し違っている、という点は知っておきましょう。
上座部仏教、特に初期仏教について詳しく知りたい方はこちらの記事もご参照ください!
日本とスリランカ:お寺の違い
スリランカにはたくさんのお寺がありますが、お寺も日本のお寺とは違った特徴があります。
それは、スリランカのお寺には、仏像、仏舎利塔と菩提樹の3つがあること。仏像は日本のお寺も同じですね。
仏舎利塔とは、お釈迦様の遺骨を埋葬した塔のことです。仏舎利=お釈迦様の遺骨、という意味になります。この仏舎利塔、日本のお寺にもあることはありますが、その外観はスリランカと全く違います。
スリランカやインドでは仏舎利塔はストゥーパと呼ばれ、写真のような大きなドーム型の形をしています。
一方日本でこれに相当するのが、飛鳥時代や奈良時代に建てられた寺院にある塔です。法隆寺の五重塔や薬師寺の双塔伽藍は有名ですよね。
スリランカには大小さまざまなドーム型のストゥーパが残されていますが、これは日本の五重塔などと同じものだな、と知っておくとより楽しめると思います。
最期に、菩提樹とはお釈迦様が悟りを開かれたときに腰をかけていた木のことです。
スリランカの菩提樹で最も有名なのが、アヌラーダプラにあるスリー・マハー菩提樹。これは、インドのブッダガヤにある菩提樹の苗木が2,000年以上も前にアヌラーダプラに運ばれ、根付いたものです。
ブッダガヤの菩提樹はその後、切り払われてしまう災難に見舞われましたが、アヌラーダプラの菩提樹は当時の菩提樹の血を引継いだ正当なものであり、仏歯寺と並び、スリランカでは仏教の聖地とされています。
書物に出てくる木、そして人の手で移植された木としては人類史上最古であることからも、その貴重な価値が伺い知れます。
後光の光を表す五色旗
スリランカのお寺に行くと、写真のようなカラフルな旗がたくさんたなびいているのを目にします。もちろんこの旗にも、その色にも意味があります。
旗に使われている青、黄、赤、白、橙はお釈迦様が悟りを開いた時に、身体から射した後光の光と言われており、
青=お釈迦様の頭髪(螺髪:らほつ)、定根(じょうごん)を意味する
黄=お釈迦様の身体、金剛を意味する
赤=お釈迦様の血、精進を意味する
白=お釈迦様の歯、清浄を意味する
橙=お釈迦様の袈裟、忍辱を意味する
を表しています。
スリランカの歴史と民族
スリランカの街を歩いていると、標識には何やら3つの言葉が表示されています。その内の1つは英語です。
スリランカは、英語のほか、シンハラ語とタミル語が公用語とされていますが、その名の通り、それぞれシンハラ人、タミル人が用いる言葉です。
割合としては圧倒的にシンハラ人が多く、人口の70%を超えており、その大部分が仏教徒であり、一方のタミル人は約15%ほど、ヒンドゥー教徒が多くなっています。
スリランカの原住民は、シンハラ人と言われていますが、シンハラ人も北インドからスリランカに移り住んだ民族と言われています。
世界遺産にもなっているスリランカの古都、アヌラーダプラ(紀元前~10世紀ごろ)・ポロンナルワ(10世紀~13世紀末)・キャンディ(15世紀~19世紀前半)はいずれもシンハラ王国ですが、その歴史の中では絶えず、タミル族から成る南インドの王朝からの侵攻との戦いがありました。
今回は、スリランカの建国と、主にヨーロッパ支配の歴史についてご紹介します。
国旗が意味するスリランカの建国神話
スリランカの国旗にはライオンが描かれていますが、これはスリランカの建国神話に関連しています。
昔、インドのワンガ王国に美しい王女がいました。この王女を、ライオンが連れ去ってしまいますが、やがてこのライオンと王女の間に男女双子の子どもが生まれました。
男の子をウィジャヤと言い、このウィジャヤがスリランカに渡り、もともとスリランカの地にいたヤクシャ族と戦うことになりますが、ウィジャヤはクエーニ女王の前に敗れます。
ですが、その後ウィジャヤとクエーニ女王の間に、またウィジャヤとヤクシャ族の間にそれぞれ子が誕生しました。
この子どもたちが、ウェッダ族とシンハラ族の始まりと言われています。
このように、シンハラ族はその祖先がライオンと人間の間に生まれた人間であると信じられており、シンハラ=ライオンの子孫、という名前が付いたと言われています。
ちなみに、国旗のライオンの四隅に描かれているのは菩提樹、そして全体を囲む黄色は仏教を表しています。さらに、左の緑色と橙色はそれぞれイスラム教とヒンドゥー教を表しており、異なる民族、宗教が認められている珍しい国旗と言えます。
ヨーロッパ諸国の支配
スリランカは16世紀から20世紀まで、立て続けにポルトガル、オランダ、イギリスの侵略を受け、植民地化されます。それぞれの国からの支配時におけるエピソードをご紹介しましょう。
ポルトガルと仏歯
ポルトガルからの侵攻が行われた際、スリランカは必死になって仏歯を守ります。仏歯はスリランカの人々にとって、心の拠り所でもあり、自分たちの国に誇りを持てる最大の源だったからです。また、仏歯を持つ者が正当な王朝の証でもありました。
ポルトガルからの侵攻で仏歯が略奪される危機が訪れると、キャンディ王国は偽の仏歯をポルトガルに渡して本物の仏歯を守り抜いたと言われています。
オランダとゴール
ポルトガルの次にスリランカを侵略し、植民地下に置いたのがオランダでした。
こちらも世界遺産であるスリランカの南の都市、ゴールの旧市街地にはオランダ教会が残され、街を取り囲むように要塞が築かれており、オランダ支配の名残りが残っています。
港町であるゴールは、古くから海のシルクロードの交易地点として広く海外との交流が生まれた場所で、その後コロンボがスリランカの中心となるまでの間、重要な交易拠点でした。
そんなゴールを外敵から守るために、大規模な要塞が築かれたというわけです。
オランダ支配の名残でもあるこの要塞ですが、2004年に発生したスマトラ沖地震では、ゴールに押し寄せた津波から人々を守る役目を果たしました。
この要塞があったおかげで、要塞内の旧市街地では津波による被害者が1人も出なかったと言われています。
何とも歴史の皮肉を感じますね。
イギリスとセイロンティー
最期にシンハラ王国が置かれたキャンディーはイギリスによって19世紀に陥落し、それから100年以上、イギリスの植民地時代が続きます。
今では世界的にも有名となったセイロンティーは、イギリスがヌワラ・エリヤに広大な紅茶畑のプランテーションを造設したのが始まりです。
もともとそれまでのポルトガル、オランダの支配により、スリランカではコーヒーの栽培がおこなわれていましたが、大規模な疫病にとりコーヒー栽培が大損害を受けたことで、その代わりとして紅茶葉が栽培されたことがきっかけでした。
訪れてみるとよく分かりますが、高地であるヌワラ・エリヤは昼夜の気温差が激しく、また豊かな水源もあることから、紅茶葉の栽培にぴったりの場所だったのです。
スリランカではどのレストランにも必ず、紅茶があるぐらい、今ではスリランカの経済や生活に欠かせない存在であるセイロンティー。
スリランカを旅する際には一度はその味を楽しみたいですね。
もう1つ、イギリス支配の名残りとして、実はヌワラ・エリヤはアジアで初めてゴルフ場が作られた場所でもあります。
アジア最古のゴルフ場であるヌワラ・エリヤ・ゴルフクラブでゴルフを楽しむのもおススメです。
20年以上続いた内戦
今では平和な国であるスリランカも、わずか10年ほど前、2009年頃までは、20年以上も続く内戦で国内は混乱していました。
1948年にイギリスから独立したスリランカですが、それまでのイギリスがタミル人に対して優遇措置を行っていたこともあり、独立後はその反動で、タミル人に対する激しい差別が巻き起こります。
例えば、タミル人には普通選挙の投票権が認められないなど、シンハラ人との待遇差にタミル人の不満はどんどん高まっていき、ついに爆発します。
始まった内戦は、政府軍とLTTEと呼ばれるタミル人解放軍との争いですが、さらにスリランカで第3の人口割合を占めるムーア人も巻き込んだ対立となりました。
最終的に政府軍がLTTEを完全に制圧することで、内戦は終止符を打つことになります。
もともと、宗教の中でも争いの少ない穏健な仏教ですが、スリランカではここまで激しい対立が勃発しました。
それほど民族間の関係というのは、難しく繊細なものであることを改めて思い知らされますね。
3.スリランカと日本の繋がり
ジャヤワルダナ大統領の演説
日本とスリランカは、全く無関係の国ではありません。というのも、第2次世界大戦中、日本はコロンボなどを空襲で攻撃していました。
第2次世界大戦が日本の敗北により終結し、その後のサンフランシスコ講和会議で、日本への賠償請求を決定する決議が行われました。
この中で、当時スリランカの大統領であったジャヤワルダナ氏は、仏陀の次の教えを引用し、日本に対する賠償請求権を放棄する宣言を行ったのです。
Hatred ceases not by hatred but by love (憎しみは憎しみではなく、ただ愛によってのみ越えられる。)
憎しみの連鎖が何の問題も解決しないことを主張し、仏教国として仏教の教えを世界にも示したジャヤワルダナ氏のこの言葉、戦争を選んだ我々日本人は心に留めておきたいですね。
このジャヤワルダナ大統領は、亡くなる際に両目の角膜の内、片方をスリランカに、もう片方を日本に寄贈してほしいと遺言を残されました。
それほどまで、日本に対して深い愛情を持ってくださっていたのです。
日本とスリランカの架け橋となった鈴木大拙
ジャヤワルダナ大統領のサンフランシスコ講和会議での演説に影響を与えたのが、鈴木大拙氏という禅の教授でした。
鈴木氏は興然の弟子にあたりますが、ジャヤワルダナ氏が日本を訪れた際、鈴木氏に、スリランカの上座部仏教と日本の大乗仏教の違いを問うたところ、鈴木氏は、
「どうして違いに目を向けるのでしょう。違いではなく、同じ仏教の教えを信ずるものとして日本とスリランカは強い絆で結ばれ、歩んでいけるものと信じています。」
とお話をされたそうです。
それに感銘を受けたジャヤワルダナ氏は、同じ仏教国である日本とスリランカが友好で結ばれることを信じ、あの演説をしたのかもしれません。
スリランカの一人旅に役立つ基本情報
いかがでしたでしょうか。仏教の国といっても、日本との違いもあり、繋がりもあるスリランカ。
ぜひその歴史も知ったうえでスリランカを旅してください!スリランカへの思いや旅の楽しみがさらに広がると思います!
スリランカを一人旅される時に必ず役に立つ基本情報が満載のこちらの記事も合わせてご覧ください!
(参考:「ブッダと歩く神秘の国 スリランカ」にしゃんた, キノブックス)