【世界遺産】奈良・薬師寺を100倍楽しむためのマメ知識6選

奈良の世界遺産の1つ、薬師寺。

東塔と西塔からなる双塔の伽藍形式、荘厳な雰囲気漂う金堂など、その華やかな境内は奈良の世界遺産の中でも唯一のもの。

薬師寺はいつ、何のために創建されたの?
薬師寺の「白鳳伽藍」とは?
薬師寺と三蔵法師には関係がある!?

今回は、そんな薬師寺をより深く楽しむためのマメ知識を6つご紹介します!

世界遺産を楽しんで頂くために

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薬師寺の歴史

1.天皇が創建者の格式高いお寺

薬師寺の金堂。後ろに東塔と西塔がそびえ立つ。(東塔は平成32年まで修復工事中)

薬師寺はその名の通り、薬師如来の力により、病気に打ち勝つことを目的に建立されたお寺です。

では、誰の病気の回復祈願を願って建てられたのかと言うと、持統天皇という天皇になります。

持統天皇は、その前の天皇、天武天皇の妃に当たる女性。百人一首で2番目に出てくる、この歌をご存知の方も多いはず。

春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山

持統天皇が病に倒れた時に、天武天皇が病気平癒を祈願して、680年に建立を発願したのが薬師寺でした。

ですが皮肉なことに、その後持統天皇の病は回復し、逆に天武天皇が崩御されてしまいます。
病から回復した持統天皇は、天武天皇の意思を継いで、薬師寺の造営を完遂しました。

藤原京の二大官営寺院の1つ

薬師寺が建立されたのは、実は平城京よりも前の時代、白鳳時代になります。

この時代、奈良に藤原京という都が置かれていましたが、薬師寺は天皇が創建したお寺として、大官大寺(後の大安寺)と並んで、都でも重要なお寺として位置づけられていました。

当時は護国宗教として仏教を積極的に国策に取り入れることにも取り組んでおり、薬師寺は国家としての宗教事業を推進する場でもあったのです。

2.唯一無二の存在!?

薬師寺:講堂

薬師寺はその後、都が平城京に遷都されるにあたって、お寺も遷されることになります。

薬師寺と同じように、大官大寺と、飛鳥にあった飛鳥寺も平城京に遷されるのですが、薬師寺と両寺の間には違いがありました。

遷移後の名前

1つ目は、遷移後の名前です。

大官大寺は大安寺、飛鳥寺は元興寺と名前を変えたのに対し、薬師寺は薬師寺のまま。

一説には、薬師寺はその創建理由が明確であり、名前の変更の必要性が無かった、ということが言われています。

遷移後の伽藍設計

2つ目が、平城京への遷移後の伽藍設計です。

大安寺、元興寺も遷都に伴って伽藍設計も全く違うものになったのに対し、薬師寺は多少の変更はあったものの、双塔の大きさや、なんと2つの塔の間の距離までもほぼ元の規模に忠実に、同じ長さに造られたのです。

このため、藤原京時代に造られた薬師寺(以降、本薬師寺と言う)と平城京の薬師寺の関連性について、国宝に指定されている東塔が、本薬師寺のものをそのまま運んだとする説と、平城京で新しく造営し直したとする説で争われることになります(薬師寺論争)。

最新の研究により、東塔は天平時代、つまり平城京遷都後に造営されたことが明らかになっているため、この論争は「新しく建て直された」という説に軍配が上がりました。

遷移後の活動

大官大寺も飛鳥寺も、平城京に遷移された後も、大安寺、元興寺とは別に活動を継続します。

ところが、本薬師寺は薬師寺が平城京に造られた後、その活動記録が史料ではほとんど残されていません。

これは仮説にしか過ぎませんが、あえて名前も、造りも変えなかったということは、薬師寺は国にとって唯一無二の存在のお寺である、という思いが込められていたからではないかと思うのです。だから同じものは2つと要らず、本薬師寺はその役目を終えたのではないか。

3.奈良時代に始まった修二会

薬師寺が国を代表する由緒あるお寺であったことを表すものとして、毎年行われている「修二会」があります。

「お水取り」で有名な東大寺二月堂

その名前に入っている通り、旧暦の2月に行われる、薬師寺の催事の中でも1,2を争う一大イベントです。

同じ修二会としては、東大寺の「お水取り」もとても有名です。

この修二会は、奈良時代に始まった催事で、国の五穀豊穣を祈願するために行われていました。

国を挙げての一大イベントであったため、奈良の世界遺産の中でも、修二会が行われているのは東大寺と薬師寺の2つのみです。どちらも天皇により建立されたという共通点がありますね。

修二会が示す、薬師寺の位置づけ

もともと、持統天皇の祈願のために建てられた薬師寺ですが、修二会が開かれるなど、その役割は「護国」のため、つまり、一天皇から国民全体を守るお寺と見なされるようになりました。

薬師本尊が本来持つ病からの回復に加え、五穀豊穣により国民が病や飢えから解放され、豊かに暮らすことができるように。
という国全体の「護国」のための最も重要なお寺の1つ、それが薬師寺だったのです。

薬師寺の伽藍と特徴

4.薬師寺の白鳳伽藍

薬師寺の伽藍図(薬師寺パンフレットより)

それでは、薬師寺の境内(伽藍)について見ていきましょう。
上の写真は、薬師寺でチケットと一緒にもらえるパンフレットに描かれた伽藍図を一部抜粋したものです。

そこには「白鳳伽藍」という言葉が。

ここまでお読みいただければ、この「白鳳伽藍」という言葉の意味がご理解いただけることと思います。

平城京に遷移された薬師寺ですが、その造営は本薬師寺(もともと藤原京に建てられていた最初の薬師寺)に忠実に倣って行われたため、白鳳時代の特徴を色濃く残している、というわけです。

具体的な白鳳時代の特徴は、別の記事でご紹介しすることとし、今回は全体的な伽藍の特徴をいくつかご紹介します。

絢爛豪華な外観:「竜宮造り」

薬師寺:金堂

薬師寺の伽藍の特徴は、何といってもこの朱色と紺色、そして白を基調とした「竜宮造り」の建築様式にあります。
これは、後の奈良時代に建立された東大寺、唐招提寺や興福寺とは明らかにその系統が異なります。

薬師寺は、創建当時の姿をそのまま今に残しているのは東塔しかなく、残りの建物は1528年に焼失してしまいました。そして、金堂や西塔といった主要な建物は昭和以降に再建された比較的新しいものになります。
それもあって、このように色彩豊かな姿を楽しむことができるのです。

創建当時のままの東塔と、復元された西塔のコントラストが美しい

上の写真の左側が復元された西塔、右側が創建当時のままの東塔になります。

東塔については、平成32年まで復旧工事のため、現在その姿を観ることは残念ながらできません。

日本で最初の双塔伽藍

薬師寺は日本で最初の双塔伽藍として有名です。

なぜ双塔伽藍という伽藍形式にしたのか、そこにはこんなエピソードがあります。

当時、朝鮮半島では新羅が663年に日本・百済連合軍を撃破し、これにより百済は滅亡します。さらに、667年には高句麗も滅び、新羅が朝鮮半島の支配を実現しました。

ですが、今度は中国大陸を支配していた唐が、新羅への侵攻を計画します。これに驚いた新羅は、仮のお寺を建て、戦勝祈願したところ、なんと唐の軍船が嵐で壊滅状態に。
なんとか唐と和睦にこぎ着けた新羅は、その後、改めて正式な寺を建立したのです。

このお寺を四天王寺と呼び、679年に創建したのですが、このお寺の伽藍形式が双塔伽藍でした。

薬師寺は、この新羅の四天王寺に倣って創建されたのではないか?といわれています。

もともと、持統天皇の病の回復のために建立された薬師寺ですが、この話が正しかったとすると、そこには国を他国の侵略から防ぐ「護国祈願」の意味も持ち合わせていたことが分かります。

ちなみに、東塔は経典が納められたことから経塔、西塔はお釈迦様の遺骨が納められたことから舎利塔と呼ばれています。

「あをによし」の薬師寺

薬師寺:西塔

あをによし 奈良の京は咲く花の にほふがごとく 今さかりなり

この歌は、当時の奈良の都の華やかさを表した歌としてよく耳にします。
枕詞の「あをによし」とは、「青丹良し」といい、青や赤が映えて美しい様を表しています。

この言葉をまさに体現したのが、薬師寺の西塔です。
良く晴れた日など、陽の光が当たると意外と分かりにくいのですが、薬師寺の金堂や西塔などの屋根は黒ではなく、濃い青色をしています。

5.インド、唐の影響が色濃く残る薬師寺

薬師寺:金堂本尊の台座レプリカ

詳細は別の記事でお話ししますが、薬師寺の薬師三尊像などは、インドや唐の影響を受けたことが分かる見どころがいくつかあります。
これも白鳳時代の特徴の1つです。

例えば、金堂の本尊様の台座には写真のように、中国の四方神が描かれ、その上に描かれている2体の異人が描かれています。
この異人は、インドから伝わったとされる「金剛明経」に出てくる、仏の台座を守る堅牢地神と考えられています。

また、ご本尊の手のひらの法輪や足裏の相(佛足石)もインドから伝わったものです。

6.薬師寺と玄蔵三蔵

玄奘塔:心中には三蔵法師の骨が埋められている!?

最後に、白鳳伽藍の北側にある玄奘三蔵院伽藍についてご紹介します。

薬師寺とあの三蔵法師とどのような関係があるのでしょうか。

法相宗 大本山 薬師寺

現在の薬師寺は、法相宗の大本山のお寺です。

もともとは、八宗兼学の道場として、「南都薬師寺」と呼ばれ、特定の宗派を標榜していなかったのですが、1872年の太政官布令後に、法相宗の大本山となりました。

その思想の特徴が、「ただ識」という考え方。
これは、目に見えているあらゆる物体は、自分の意識を通じてそこに投影されたものに過ぎず、全ての事象は「自分」という軸を通じて捉えられる、というもの。

ちょっと難解ですが、この根本思想から、「主体である自分の観方によって、対象の形態も変化する。」という「唯識所変」という考えが生まれました。

ここから、後に日本で爆発的に広まった浄土宗のように、ただ念じれば成仏できる、という考えとは一線を画し、成仏できるかどうかはその人次第、という、ある意味現実的な教えにつながります。

また、法相宗ではその教えを真に理解するためには長年の月日がかかる、とされていました。そのため、民衆に分かりやすく、手軽な浄土宗が広まると、法相宗は徐々に存在感を失っていくことになります。

この法相宗をインドから持ち帰ったのがあの玄蔵三蔵と言われています。
つまり、薬師寺にとって玄蔵三蔵は法相宗の「始祖」として大切に祀られている、というわけです。

 

いかがでしたでしょうか。

その名の通り、病気回復祈願から生まれた薬師寺ですが、その後は護国の寺として、国を代表する格式高いお寺へとその位置づけが変わってゆくことになります。

また、奈良の世界遺産の中でも、白鳳時代の文化を色濃く残しているのは薬師寺だけ。

ぜひ、その豪華絢爛な外観も合わせて薬師寺を訪れてみてください!

 

(参考:「国宝 薬師寺展」東京国立博物館 読売新聞東京本社、「古寺巡礼 9 薬師寺」山田法胤 淡交社)

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