【世界遺産】法隆寺を100倍楽しむためのマメ知識4選

奈良県の世界遺産、「法隆寺地域の仏教建造物」の構成遺産に含まれている法隆寺。

聖徳太子が建てたとされ、現存する世界最古の木造建造物としてあまりにも有名です。

・なぜ法隆寺は建てられたのか?
・謎と伝説が多い法隆寺!?
・太子信仰とは?
・日本で最初の世界遺産になった理由とは?

今回は、法隆寺を深く楽しむためのマメ知識をご紹介します!

1.法隆寺の歴史

「日本書紀」によると、607年、奈良の斑鳩の地に斑鳩寺が建てられた、と記載されており、これが現在の法隆寺の前身であると考えられます。

法隆寺を創建したのは、皆さんもよくご存じの聖徳太子、正式な名前は厩戸皇子(うまやどのおうじ)と言います。

聖徳太子と仏教

聖徳太子は574年、用明天皇の第二皇子として生まれました。

日本に仏教が伝来したのは6世紀前半と言われており、聖徳太子が生きた時代というのは、まさに日本人が初めて仏教の教えに触れた時でもあります。

「1度に10人の人が話す内容を聞き分け、理解できた」

と言われるほど聡明だった聖徳太子は、高句麗などから渡来した仏教僧に仏教の教えを乞い、瞬く間にその教えを完全に理解することが出来た、と言われています。

仏教の教えを理解した聖徳太子は、仏教の力によって理想的な国家の実現するべく、動き出しました。

斑鳩寺の創建

聖徳太子の説法により、仏教は天皇にも深く浸透することになります。

父である用明天皇が病に倒れた際、後の推古天皇と聖徳太子を呼び、病気治癒のためのお寺を建て、そこに薬師像を奉納してほしい、とご要望を出されました。

これをきっかけに、当時聖徳太子が住んでいた斑鳩宮の近くに建てられたのが、今の法隆寺の前身である斑鳩寺なのです。

最初は病気回復祈願のために建てられた斑鳩寺は、その後、仏教研鑽の道場としての役割を担っていくことになります。

法隆寺再建非再建論争

 

法隆寺について、日本書紀には以下の2つの内容しか記載されていません。

607年:斑鳩寺建立
670年:斑鳩寺が焼失

法隆寺は今もその姿を見ることが出来ますが、日本書紀には670年の後、再建されたという記載はされていません。

ここから、

①日本書紀に書かれている670年の焼失は無く、今ある法隆寺は、聖徳太子の時代のものがそのまま残されたもの②日本書紀に記載の通り、火災により一度焼失した後、再建された

という2つの説が生まれ、長きに渡って論争が行われてきました。
(ちなみに、斑鳩寺は670年よりも前に、聖徳太子の死後、息子の山背大兄王が蘇我蝦夷・入鹿親子により襲撃された際に、斑鳩宮とともに焼失したとの説もあります。)

この論争は、法隆寺の南東から若草伽藍跡の礎石などが見つかったことで、これが創建当時の法隆寺であったとし、現在の法隆寺は再建されたものとする説が通説となっています。

現在の法隆寺は、もともとは2つの寺社だった!?

※上記枠線は大よそで、正確なものではありません。

上の写真は、法隆寺でもらえる案内パンフレットの裏に記載されている伽藍に、少しだけ手を加えたものになります。

今の法隆寺が再建される前に建っていた場所が、「若草伽藍跡」と記載している枠になります。
パンフレットにも記載されていますので、確認してみてください。

そして、現在の法隆寺は710年前後辺りに再建されたと考えられており、これが現在の西院伽藍になります。

現在の東院伽藍は、西院伽藍の後、奈良時代に建てられたものですが、これは聖徳太子の供養のために建てられたものです。
もともとは上宮王院という名前で法隆寺とは別のお寺でしたが、後に法隆寺の一部となりました。

若草伽藍・斑鳩宮と現在の伽藍

上の図を見て頂くとお気づきのように、若草伽藍と斑鳩宮は、現在の伽藍よりも少し西に傾いていました。

現在の伽藍も実は真北ではなく、約4度西に傾いていますが、若草伽藍・斑鳩宮は約20度傾ていたそうです。

この16度の差が一体何を意味しているのか、はっきりしたことは分かっていません。

法隆寺の西院伽藍から東院伽藍へ移動する際、東門を入ってすぐの所に南北に細い道が走っています。
上記図からも分かる通り、この南北の細い道に沿って、若草伽藍・斑鳩宮が建てられていたと考えられそうですよね。

ちなみに、この南北の道は公道なので自転車で走ることが出来ますが、西院伽藍から東院伽藍へ続く道を横切る際は、境内なので自転車を降りて歩きましょう。

2.法隆寺に残る謎と伝説

再建されたとはいえ、それでも世界最古の木造建築である法隆寺。

今から約1,300年も前に造られたお寺なので、そこにはまだまだ謎や伝説がたくさん残されています。

法隆寺の七不思議

まずは、法隆寺に伝わる七不思議の中で、実際に確認できるものを2つご紹介します。ぜひ訪れた際に、確認してみてください!

 

①南大門の鯛石

南大門の階段の前に、他の四角い石とは形の違う石が置かれています。

これは鯛石と呼ばれ、昔から近くを流れる大和川が氾濫しても、不思議と水がこの石まで到達することは無かったと言われています。

②五重塔の鎌

五重塔の上にある九輪に、4つの鎌がささっています。

上の写真で、屋根の上の九輪の根元に近い部分から、横にはみ出て見えているのが鎌です。

法隆寺は雷による火災で焼失したと言われており、雷除けの効果を持つとされる鎌が置かれていると考えられています。

 

残りの不思議についてお知りになりたい方は、ネットで検索してみてくださいね。

 

 

その他の謎
五重塔の心柱の謎

五重塔の心柱を調査したところ、この木は594年ごろに伐採された木であることが分かりました。

ですが、先ほどご紹介した通り、五重塔を含む西院伽藍が建てられたのは710年前後であり、この調査が本当だとすると、心柱は100年以上も前に伐採されたものが使われていることになります。

1つの説として、594年というのは、推古天皇が「三宝興隆の詔」を出された年であり、ここからお寺の創建が活発になったことから、お寺の創建に必要な木材を保管していたのではないか、と考えられています。

金堂の釈迦三尊像の配置の謎

金堂に置かれている釈迦三尊像は、その配置が中央よりやや前方に置かれていて、基壇の後ろに少しスペースを作るようになっています。

これは、もともとここに聖徳太子ゆかりの品々が置かれていたが、東院伽藍の創建により、そちらに移された跡ではないかと考えられています。

金堂阿弥陀挫像台座の謎

金堂に置かれている阿弥陀如来坐像の台座の中央に、直径65~70センチほどの円形の痕跡が確認されました。

が、不思議なのは、法隆寺には円座の仏像が無いということ。

この台座に残された円形は、他のお寺から移されたものであることを示しているのではないか、と考えられています。

3.聖徳太子と太子信仰

「和国の教主」、つまり、日本におけるお釈迦様のような存在とまで言われた聖徳太子。

その偉業と、言い伝えられている数々の伝説から、「太子信仰」という、聖徳太子を神聖視する動きが生まれました。

この太子信仰の表れとして、聖徳太子を描いた絵や、彫刻が数多く残されています。

太子信仰のメッカ、夢殿

法隆寺の東伽藍中央に置かれているのが、この夢殿です。

夢殿は、聖徳太子の供養がこの場所で行われたことから、ここに建てられ、ここから太子信仰が始まったと言えます。

実は、金堂の釈迦像やこの夢殿のご本尊である救世観音は、聖徳太子と等身大の大きさに造られている、と言われています。

等身大に造った意味。それは、まさに聖徳太子を釈迦と同一視しているということではないでしょうか。

八角堂(円堂)の意味

この夢殿は八角堂と呼ばれており、円堂の一種ですが、円堂は供養堂としての意味を有していて、聖徳太子供養のためのものであることは明らかです。

そして、その夢殿を伽藍の中央に配置したということは、聖徳太子を最も重要な存在であると考えたことの表れでもあるのです。

宝玉の意味

夢殿の屋根には、金銅製の立派な宝玉が飾られており、こちらの宝玉は、五重塔西面の「分舎利仏土」の舎利塔と類似していることが指摘されています。

これは何を意味するかというと、夢殿は一種のストゥーパとして考えられていたということ。

ストゥーパとは、釈迦の遺骨などを安置した仏教建築を言いますが、聖徳太子の供養塔である夢殿をストゥーパと見なしていたところにも、太子信仰を見ることが出来ます。

太子信仰と歴史上の偉人達

太子信仰は、「聖徳太子伝歴」や「上宮聖徳法王帝説」など、聖徳太子の生涯を伝える文献が作られると、ますますその広がりに勢いが出てきました。

そんな太子信仰と関連のある歴史上の偉人達を列挙してみると、

・聖徳太子は、天台宗第二祖である慧思の生まれ変わり
・空海は聖徳太子の生まれ変わり
・源頼朝は法隆寺に法具を寄進
・藤原道長は聖徳太子の生まれ変わり

といったような、数々の逸話が残されています。

法隆寺が1,300年もの間、戦火を逃れ、崩壊することなく現在までその姿を残すことが出来た1つの大きな理由が、この厚い太子信仰だったと言えるでしょう。

4.法隆寺が日本で最初の世界遺産になった理由とは?

法隆寺は姫路城と並んで、日本で最初に世界遺産に登録されました。

「日本らしさ」や「日本文化、伝統」からは、真っ先に京都のイメージが浮かんできそうですが、京都が世界遺産に登録されたのは、法隆寺よりも後です。

それでは最後に、法隆寺が日本で最初に世界遺産に登録されたことの意味について考えてみたいと思います。

世界最古の「木造」建築

 

西院伽藍の金堂、五重塔、回廊は世界最古の木造建築であり、それだけでもかなり貴重です。

ですが、それが意味することをもう少し掘り下げてみたいと思います。

法隆寺は木造建築のミュージアム!?

法隆寺は、飛鳥時代から江戸時代に至るまで、全ての時代の建造物が残されています。
特に国宝に至っては、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代時代のそれぞれで国宝に指定されているのです。

言ってみれば、法隆寺は日本の木造建築の歴史の凝縮でもあります。

木造建築というのは日本を支えてきた技術であり、日本が世界に誇るべき文化と技術でもあるのです。

木造建築が意味すること

木造建築は、石やレンガ造りとは異なり、維持するためには絶え間ない修復が必要になってくるものです。

そんな木造建築の中で、1,300年以上昔のものが残されている、というのはもはや奇跡に近いでしょう。

木造の建物を絶えずに修復、維持するその技術だけでなく、「太子信仰」のように、法隆寺を大切にする人々によって法隆寺は、1,300年以上の時を経て今も生き続けているのです。

仏教の始まり

これまで何度もお話ししてきた通り、法隆寺は仏教が日本で誕生した最初の場所です。

そこから現在に至るまで、様々な流派が生まれ、日本人の信仰の対象となってきました。

そのすべての原点が、この法隆寺なのです。

聖徳太子の教え

日本人や日本らしさを最も端的に表す言葉は何か、と聞かれると、

「和」

という言葉が出てくるのではないでしょうか。

この「和」という言葉が日本で初めて使われたのは、

「和と以て貴しとなす」

という、聖徳太子が定めた十七条憲法がおそらく最初です。

聖徳太子が伝えたかった、「和の精神」は、1,300年の時を経て私たち日本人の心にすっかり根付いているでしょうか。

私たちは一人ひとりが違う人間で、違う価値観や個性を持っています。
けれど、そんな違いを尊敬し、思いやり、何をするにしてもお互いを大事にする気持ちを持って、協調する。

法隆寺は、そんな聖徳太子の想いを今も私たちに伝えています。

 

建築、仏教、そして聖徳太子の教え。

そこには、我々日本人が昔から脈々と受け継いできたものの原点があります。それこそが、法隆寺が日本で最初に世界遺産に登録された理由だと思うのです。

 

いかがでしたでしょうか。

古い歴史を持つ法隆寺だからこそ、そこからは様々なものが生まれてきたことが分かります。

ぜひ、法隆寺を訪れて、日本人の歴史と原点を感じてみてください!

ご興味ありましたら、こちらの記事も合わせてお読みください!

【世界遺産】法隆寺の見どころ徹底ガイド(西院伽藍、東院伽藍)

 

(参考:「世界遺産 法隆寺を語る」 髙田良信 柳原出版、「法隆寺ミステリーの封印を解く」 久慈 力 現代書館、「法隆寺学のススメ」 髙田良信 雄山閣)

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