世界遺産の楽しみ方

【世界遺産】仁和寺を100倍楽しむためのマメ知識5選

「古都京都の文化財」の1つとして世界遺産に登録されている仁和寺。

金閣寺のように見た目のインパクトがあるわけでは無いので、なぜ世界遺産に登録されているのか、またどんなお寺なのかご存じ無い方も多いかもしれません。

真言宗の重要な寺院だけでなく、「御室仁和寺」と呼ばれ天皇家とも深いつながりを持つなど、世界遺産仁和寺の魅力を詳しくご紹介します!

1.【世界遺産】仁和寺の歴史

京都の世界遺産、仁和寺は宇多天皇によって888年に開創されました。
もともと仏教寺院の建立を最初に祈願されたのは、宇多天皇の父の光孝天皇だったのですが、光孝天皇は仁和寺の完成を待たずして崩御され、そのご本願を子である宇多天皇が引き継いだというわけです。

この光孝天皇、宇多天皇親子は日本の歴代天皇の中でもある意味異色な存在でした。宇多天皇については次章で詳しくそのエピソードをご紹介するとして、ここでは光孝天皇について少し触れておきましょう。

光孝天皇ってどんな人?

実は光孝天皇が天皇に即位された時、すでに55歳と年齢を重ねられていました。
現代で考えると55歳での即位にあまり違和感を感じないかもしれませんが、寿命が現代に比べてもまだまだ短かった平安時代、55歳での即位は高齢で異例と言えるでしょう。

時は藤原氏が絶対的な権力を握っていた平安時代。光孝天皇はまさかご自分が天皇の座に就くとは思っていなかったでしょうが、天皇に推挙したのは藤原基経でした。
この藤原基経はその時の天皇、陽成天皇を廃位に追い込んだ後、光孝天皇を天皇の座に就かせ、政務を藤原一族の思うままに動かしていたのです。

政務から離れた言わばお飾りの天皇であった光孝天皇は、やがて文雅の道に目覚めるようになります。その中で仏門への親しみを覚え、国家安泰を願った結果、仁和寺の建立を発願されるに至ったというわけです。

ですが、ご高齢ということもあり、天皇に即位されてからわずか3年余りで崩御され、仁和寺の完成を目の当たりにすることはできませんでした。

仁和寺ご本尊と光孝天皇

父光孝天皇の後を継いだ宇多天皇がその後仁和寺を完成させたわけですが、仁和寺のご本尊には光孝天皇と等身大の阿弥陀如来本尊を備えられました。

この阿弥陀如来本尊は今も現存しているのですが、保管されているのは金堂ではなく、貴重な文化財を保管している霊宝館に保管されています。金堂に供えられているのは後世に造られた少しサイズの大きなものになります。

苦難の時代を生き抜いた仁和寺

仁和寺から見える双ケ丘

立派な伽藍を構えている仁和寺ですが、他の多くの寺院同様、今日の姿は創建当時から何事もなく続いたわけではなく、幾度となく廃寺の危機を乗り越えてきました。

後述の通り天皇と深い関わりがあったものの、鎌倉時代に入り禅宗や浄土宗の台頭は真言宗として活動を行っていた仁和寺の勢力に少なからず影響を及ぼすことになります。

そして、徹底的な打撃を受けたのが室町時代後期の1467年に勃発した応仁の乱でした。京都を舞台としたこの争いにより、仁和寺の伽藍はほぼ全焼してしまいます。

伽藍も焼失し、何もかもが失われてしまったかと思われた中、仁和寺の本尊である阿弥陀三尊像は何とか戦火を免れて双ケ丘という小高い丘の西麓へと移され、そこで仁和寺も細々と生き延びました。

この双ケ丘の西麓で、何と140年以上も仁和寺は耐えてその活動を続けることになります。そして時は江戸時代、第三代将軍家光の援助もあり、一気に伽藍の復興が進み、無事に現在の場所へと戻ることができたのです。

2.【世界遺産】仁和寺と天皇のつながり

仁和寺:金堂(国宝)

日本最古の門跡寺院

さきほどご紹介した通り、世界遺産の仁和寺は天皇によって創建された寺院なのですが、特筆すべきはこのお寺を創建した宇多天皇自らが初代の住職を務めたということ。

このように天皇自らが出家をして法皇となり、お寺の住職に就くことを「門跡」と呼びますが、仁和寺はまさに日本最古の門跡寺院と言えるでしょう。

仁和寺を創建した宇多天皇は31歳の時に突如、天皇の座を次の醍醐天皇に譲位して自らは仏門に入り法皇になられたのですが、仁和寺の中に「御室」を造られてそこで住職としての日々を送られました。

「室(むろ)」とはお寺の住職の住居を意味しますが、仁和寺は天皇が住職をされていることで前に「御」の字をつけて「御室(おむろ)」と言う名で親しまれることになります。

宇多天皇が最初の住職を務めた後、仁和寺の住職は代々皇族が務めることになるのですが、この流れはなんと19世紀後半の明治維新の頃、30代まで、1,000年近くも続きました。

宇多天皇が起こした初めて尽くしの出来事とは!?

世界遺産、仁和寺を創建した宇多天皇ですが、実は日本の歴代天皇の中でもいろいろな意味でユニークな存在なんです。そのエピソードをご紹介しましょう。

エピソード①:日本で最初の門跡寺院を誕生させた

まず何といっても面白いのが、さきほどもご紹介した通り自分でお寺を創建し、自らがそのお寺の住職になったことです。門跡寺院んの始まりを造った人と言っても良いでしょう。

エピソード②:日本の天皇の中で唯一○○を持っていた

「日本国民全員が持っているもので、天皇が持たれていないものは何でしょう?」

さて、突然ですがこのクイズの答えをお分かりでしょうか。

そうです。答えは「姓」。天皇には姓、つまり苗字がありません。
ですが、歴代の天皇には何と苗字を有していたことがある天皇がおられたのはご存知でしたか?

それがこの宇多天皇なんです。
先ほどご紹介した、父親でもあった光孝天皇はその時数多くいらっしゃった皇子・皇女を皇族の身分から一般の身分に下げる政策を行いました。これにより、当時皇子であった宇多天皇も一般の身分に落とされ、「源定省(みなもとのさだみ)」という名前を名乗っていた時期があったのです。

エピソード③:阿衡事件(あこうじけん)

さて、絶対的な存在である天皇が作成される文書を「勅書(ちょくしょ)」と言います。
天皇だ作られた文書ですので、当然絶対的なものでこれに例外はありません。

ですが、宇多天皇が出された勅書の文面に気に入らない文言が書かれていたことで、藤原基経が激怒してしまうという事件が起こってしまいました。
激怒した基経は政務をボイコットして自宅に引きこもってしまいます。政務は基経が一手にこなしていたので、基経が自宅にこもってしまったことで政治が全面ストップするという前代未聞の状況に。

天皇が出された勅書は絶対なので、これをどうこうすることはできません。ですが、基経のボイコットはなんと半年以上にも及ぶ事態となり、ついに宇多天皇が折れて勅書を取り消しにするという対応を取ったのです。

日本の歴史上、絶対文書である勅書が取り消されたのはこの事例のみ。それだけ藤原氏の権力が絶大だったことの表れでもありますが、思わぬ形で宇多天皇は汚点を残す形となってしまわれたのです。

最後の門跡、小松宮彰仁親王

代々皇族が住職の座に就くという仁和寺の歴史も、第30代門跡、小松宮彰仁親王の代でその伝統を終えることになります。

時は幕末から明治維新にかけての19世紀中盤から後半、小松宮彰仁親王は戊辰戦争の際に奥羽征討総督として戦にも参加した何とも公家らしからぬ人物です。

明治維新により、それまでの江戸幕府による政権が天皇へと戻されることになりますが、この流れが門跡であった小松宮彰仁親王を日本政治の表舞台に連れ戻したと言え、ここで仁和寺の門跡の系統にも終止符が打たれました。

戊辰戦争は明治新政府の樹立を推進する派と、旧幕府軍の争いになるわけですが、小松宮彰仁親王が討幕派についたことによって、旧幕府軍は官軍ではなく逆賊の立場となってしまいました。

時代の流れとは言え、徳川家光の援助により復活を遂げた仁和寺の最後の門跡が、戊辰戦争によって旧幕府軍を掃討する立場になったというのは皮肉な話でもあり、歴史の面白いところでもありますね。

日本で最初の門跡寺院として天皇が仁和寺の住職に就いたのはまだ公家の時代であった平安時代。そして、その後鎌倉時代とともに武士の時代が到来し、明治維新によって武士の時代が終焉するとともに、この伝統も終わりました。
仁和寺の歴史はそのまま、日本と天皇のつながりの歴史でもあるように見えますよね。

ちなみに、明治維新後、皇族が仁和寺の住職を継ぐことは無くなりました。ですが、太平洋戦争で日本がアメリカなどに敗北し、天皇に責任追及が及んだ場合、天皇を仁和寺に入寺させるという方策も考えられていたとか。

3.【世界遺産】仁和寺と真言宗

仁和寺:五重塔

世界遺産の仁和寺は、真言宗御室派の総本山とされています。
御室派とは、先ほどお話しした通り宇多天皇が出家なされて仁和寺の初代住職となられてから、代々皇族にその職務が引き継がれており、その中で生まれた流派ということになります。

真言宗は「密教」と呼ばれていますが、その名の通り仏の悟りを開くにあたって「秘密の教え」が重視されている宗派になります。このため、誰でも簡単にその教えを引継ぎ、また布教できるというわけではなく、厳しく定められた諸々の教えや所作を身につけ、認められた者だけが仏門に入ることが許されています。

真言宗を大きく区分すると、密教理論の研究を重んじる教相と、修法の作法や実践を研究する事相に分けられます。京都の世界遺産で言うと、前者の教相は東寺が、後者の事相としては醍醐寺と仁和寺がその役割を担ってきました。

事相に分類される醍醐寺と仁和寺も、その祖の違いによって醍醐寺を小野流、仁和寺を広沢流と呼んでいます。

広沢流の祖は益信という真言宗の僧侶ですが、宇多天皇は出家するにあたって、この益信から授戒を受けて仏門に入りました。この宇多法皇から始まった真言宗の流派を広沢流と呼んでいます。

最初は真言宗ではなかった仁和寺

さきほど、仁和寺のご本尊は阿弥陀如来本尊であるとお話ししましたが、これを聞いて仏教に詳しい方は「あれ?」と思われたかもしれません。
真言宗は大日如来をご本尊とするからです。

実は仁和寺の始まりはもともとは天台宗寺院でした。ところが、先ほどお話しした通り宇多天皇は益信から授戒を受けますが、その後東大寺で具足戒を宇多法皇に授け、さらに901年、東寺の灌頂院にて益信は大阿闍梨として宇多法皇に伝法灌頂を授けて後継者としました。

これによって宇多法皇は正式な真言宗の僧侶、阿闍梨となり、これによって仁和寺も真言宗派の寺院として改められることになったのです。

4.京都に息づく世界遺産、仁和寺

代々皇族が住職に就いていた由緒ある仁和寺。ですが、仁和寺は皇族だけでなく京都に住む人々を含め、たくさんの人を魅了し、人々に寄り添う存在でもあります。
それをいくつかご紹介しましょう。

京都に今も息づく「御室」

天皇と関わりがあることを示す言葉でもある「御室」。世界遺産の仁和寺は、「御室仁和寺」という呼び名で広く親しまれています。

例えば、京都を走るバスや電車(京福電鉄)などでは「御室仁和寺」という駅名が今も使われています。
また、仁和寺近辺のエリアには「御室小松野町」や「御室堅町」といったように、「御室」という名前が町名に付いているなど、「御室」は京都の人にとってはとても身近な存在なんです。

文化人に愛された仁和寺

文雅の道を愛した光孝天皇の発願で創建された仁和寺。それもあってか、御室流華道がという文化活動が行われています。
また、歌人や茶人、さらにはあの有名な尾形光琳も仁和寺の近くに閑居を構えて余生を過ごしたと言われています。

このように、仁和寺は古くから多くの文化人を魅了してきた存在でもありました。光孝天皇の思いが今現在まで生きているということを踏まえると仁和寺に親近感が湧いてきませんか?

また、仁和寺は方丈記や徒然草といった日本文学の中にも登場しています。そのお話を簡単にご紹介しましょう。

方丈記:
「1181年の飢饉の際、京の都には飢えや疫病で亡くなった人で溢れていた。仁和寺の僧であった隆暁はそれを悲しみ、仏と縁を結ぶように、死者の額に『阿』の字を書いて供養をした。その数は3,000人以上にも及んだ。」

徒然草:
「昔、仁和寺にいたある法師は、高齢だったがそれまで一度も石清水八幡宮にお参りをしたことが無かった。そこで、この高僧は石清水八幡宮へとお参りを行い、帰ってきた時に『極楽寺と高良神社をお参りしたが、多くの者が山の上に登っていく姿を見た。彼らはいったい何をしに山に登っていたのだろう。』と話されたそう。どこに行くにもその場所に詳しい人を伴って行かないと残念な思いをするものだ。」

徒然草は、失敗談を紹介した「仁和寺にある法師」というエピソードでも有名です。

京都の春を告げる「御室桜」

仁和寺:御室桜

京都には春の桜が美しく咲き誇る寺院がたくさんありますが、仁和寺もその1つです。ですが、仁和寺の桜は「御室桜」と呼ばれており、普通の桜と少し違った特徴があります。

それは、普通の桜に比べて背丈が低いこと。

これには理由があって、仁和寺の土壌はやや薄く、しかも地盤のすぐ近くには硬い岩盤があり、その下には水が流れているため、根が張りにくく桜が育つには適していない環境なのです。
そんな中、桜が育つために仁和寺の桜には工夫がされています。
桜の根元を良く見てください、土が盛られていてこんもり膨らんでいるのが分かるかと思います。このように土を盛ることで根が張りやすくなっているのですが、このような環境で育っているため桜の背丈が低くなっているのです。

それでも春には満開の花を咲かせる御室桜。背が低いため、目線と同じ高さで桜を楽しむことができるのは嬉しいですよね。

また、御室桜は京都市の中でも北の方にあるため、開花時期が遅く、4月の中旬から下旬にかけて満開を迎えます。このため、御室桜が咲くと、京都ではもう春の終わりが近づいている知らせでもあるのです。

5.楽しみ方がたくさん!世界遺産仁和寺を徹底的に堪能しよう

これまで、その魅力に迫ってきた世界遺産の仁和寺。一度は仁和寺を訪れて参拝していただきたいのはもちろんですが、ここではそれ以外の楽しみ方を3つご紹介しましょう。

世界遺産のお寺で宿泊!仁和寺の宿坊「御室会館」

仁和寺:御室会館

世界遺産の仁和寺には宿坊があることをご存知でしょうか。
「御室会館」と呼ばれる宿坊は誰でも宿泊することができ、宿泊者にしか体験できない特典も付いているのでおススメです。

特典の1つ目は、早朝の金堂でのお勤めに参加できること。朝6時からと早い時間ですが、普段は閉じられている金堂に上がり、お経を聞くことができるのです。早朝の静かで空気が新鮮な中、貴重なお経を聞いていると心まで洗われ、気持ちが新たになります。

特典の2つ目は、お勤めの後、お寺の住職の方が境内を案内してくださること。もちろん開門前の時間帯ですから、境内の中には宿泊者しかいません。世界遺産の仁和寺の境内を独り占めできるのは何とも贅沢な体験ではないでしょうか。

3つ目の特典は、仁和寺御殿・庭園の無料拝観券がセットで付いてきます。

これだけの特典が付いた仁和寺の宿坊、「御室会館」。ぜひ一度は宿泊してみてください!

仁和寺で気軽に八十八カ所巡り!

仁和寺:八十八ヶ所案内石碑

仁和寺の裏にある成就山の約3キロにわたる山道にお堂が点在し、それぞれのご本尊と弘法大師様をお祀りしています。
四国八十八ヶ所の写しであるこのお堂は八十八あり、これらを約2時間で巡ることで四国八十八ヶ所霊場巡礼と同じご利益を得ることができます。

入口と出口はどちらも仁和寺のすぐ裏手にあり、また山道の途中には京都の街並みを一望できる見晴らしの良いポイントもあるので、お時間がある方はこちらもぜひお参りしてみてください。

まとめ

いかがでしたでしょうか。知れば知るほど歴史の面白さや京都らしさが伝わってくる世界遺産の仁和寺。

すぐ近くには同じ世界遺産で枯山水庭園で有名な龍安寺や金閣寺もあるので、ぜひ一度京都を訪れた際にはお参りしてみてはいかがでしょうか。

(参考:「旧御室 仁和寺」総本山仁和寺 吉田裕信, 手嶋 千俊, 小林 弘侑)

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