金閣寺とよくセットで紹介される京都の世界遺産の1つ、銀閣寺。正式名称は慈照寺といいます。
1.銀閣寺の歴史
2.銀閣寺と足利義政
3.銀閣寺(慈照寺)と金閣寺(鹿苑寺)
4.銀閣寺の楽しみ方
5.銀閣寺が世界遺産に登録された理由
華やかな外観の金閣寺に比べて銀閣寺はどこか地味な印象を受けてしまいますが、世界遺産銀閣寺の魅力と素晴らしさをご紹介します!
1.【世界遺産】銀閣寺(慈照寺)の歴史
銀閣寺(慈照寺)の建立は1490年。足利義政は完成前に死去?
世界遺産、銀閣寺(慈照寺)が完成したのは1490年。室町時代の後期、室町幕府足利8代将軍、足利義政により建立されました。
銀閣寺(慈照寺)が建立された時代は、長引く応仁の乱により京の都は荒れ果て、やがて戦乱の世へと移っていく不安定と混とんを極めた時代であったことを、まず知っておくべきでしょう。
室町時代から時代が変わるきっかけになった大きな事件、応仁の乱。1467年に勃発したこの騒乱は、義政の跡継ぎを巡った対立が引き金となり起こりました。
この応仁の乱は、対立していたリーダー格、西軍の山名宗全、東軍の細川勝元の両名の氏をもって1473年ごろに収まります。
これを機に義政は将軍の実権を子の義尚に譲り隠居の身になり、そこから、銀閣寺の前身である東山山荘創建に取り組み始めたのです。義政は東山山荘の完成を待たず、建設途中の段階からこの地に移り住み、そこで庭園を愛でたり書画や茶の湯を楽しむ隠居生活を送り、そして1490年に死去しました。
足利義政亡き後、その菩提を弔うためにこの東山山荘を禅寺に改修して生まれたのが、今の銀閣寺(慈照寺)です。こうしてみると、銀閣寺が誕生した経緯は3代目将軍、足利義満が建立した北山山荘を前身とする金閣寺(鹿苑寺)と同じです。
ちなみに、銀閣寺(慈照寺)の開基(禅寺として開山させた人)も金閣寺と同じ、夢想礎石となります。
ここで、ちょっとおかしな事にお気づきの方もいらっしゃるのではないでしょうか。3代目将軍義満の建立した金閣寺と、8代目将軍義政の銀閣寺の開祖が同じ夢想礎石。。
100年近くも造られた年が違うのに、同じ開祖ってどういうことなんでしょう。
実は銀閣寺(慈照寺)の場合、開祖を夢想礎石としていますが、実際に夢想礎石がその時に生きていたというわけでは無く、禅寺の開祖として信仰する対象として挙げられたのです。このような開山を勧請開山と言います。
残念ながら、金閣寺同様、今の銀閣寺も創建当時の東山山荘に比べると一部が残っているにすぎません。
それにしても、応仁の乱は沈静化したとはいえ、争いや死が日常と隣り合わせにある波乱の時代。そんな争いの世にあって東山山荘を造り始めた義政。その行為は一見どこかのんきというか、はたまた俗世間とはかけ離れているようにも見えますよね。
義政の思いはどこにあったのでしょうか。少し義政の生い立ちを振り返ってみます。
2.【世界遺産】銀閣寺(慈照寺)と足利義政
(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%94%BF)
銀閣寺(慈照寺)の前身である東山山荘を造営した足利義政は、金閣寺(鹿苑寺)を建立した3代将軍足利義満の孫にあたります。父は6代将軍の義教、7代将軍の義勝は兄にあたります。
父の義教は対立する守護に暗殺され、兄の義勝も若いうちに亡くなってしまいます。そのため、その跡継ぎとして義政は8歳の若さで第8代将軍となりました。
義政を武士、将軍として厳しく育ててくれる者は周りにはおらず、世話役の者たちは義政に和歌を教えるなど、義政を骨抜きの将軍にしてしまいました。将軍としての足利家の力を弱めて、義政を使って権力を牛耳ろうと考えたわけです。
このような育ち方をした義政は、寺や庭園に強い興味を示すようになります。
銀閣寺のモデルは西芳寺(苔寺)
特に義政が心酔していたのが、夢窓疎石が元々あった庭園に手を加えて造った西芳寺、現在では苔寺と呼ばれている、世界遺産です。
東山山荘を造るにあたって、義政は西芳寺を理想のモデルとして造ったと言われています。
先ほどご紹介したように、義政は応仁の乱が落ち着いた後、実権を子どもに譲って自らは隠居の身となりました。
金閣寺の記事でもご紹介した通り、金閣寺を建てた義満は最後まで自分が権力を持とうとしていたのに対し、政義はそれをあっさりと子どもに譲ってしまった―。
この事実を見ても、義満と義政の人間性の違いが出ていますよね。
小さいころから文化的な教養を教え込まれた義政だからこそ、権力にしがみつくことなくあっさりと手放すことができたのかもしれません。
そんな義政がなぜ東山山荘を建てたのか。
義満の金閣寺のような仏閣を造りたかった、西芳寺のような素晴らしい庭園を造りたかった。。
さまざまな想像は出来ますが、荒れ果てた京都の中で、義政がこれまでの人生で愛でてきた、四季折々の自然の美しさを持つ京都の姿を取り戻したかったのかもしれませんね。
3.【世界遺産】銀閣寺(慈照寺)と金閣寺(鹿苑寺)
次に、銀閣寺と金閣寺を比較して見ていきましょう。
銀閣寺(慈照寺)と金閣寺(鹿苑寺)の共通点
銀閣寺と金閣寺の共通点は、有名なこの2枚の写真からもなんとなくご理解できるかと思います。
左側の写真が銀閣寺の中でも、観音殿と呼ばれる通称銀閣(銀閣寺というのは、この観音殿を含めた寺全体を表します。)で、右側の写真が金閣寺の舎利殿、通称金閣です。
銀閣はこの金閣を模して造られたため、建物の形がとてもよく似ていますね。どちらも禅宗の寺ということも、建物の外観の類似につながっています。
もう一つの共通点が、どちらも楼閣建築であるということ。これも写真を見れば一目瞭然ですが、銀閣も金閣も、池に面して建てられています。どちらも、池の水面にその美しい建物の姿が映るように、池のほとりに建てられているのです
銀閣寺(慈照寺)と金閣寺(鹿苑寺)の相違点
①銀閣と金閣の建築構造
銀閣寺と金閣寺の相違点。その1つが銀閣と金閣の建築構造にあります。先ほど、外観がよく似ているという類似点を挙げましたが、その構造はよく見ると異なっているのです。
銀閣は二層構造で、初層が心空殿と呼ばれる書院造、第二層が潮音閣とよばれる禅宗の造りとなっています。一方で金閣は初層が寝殿造、第二層が書院造、第三層が禅宗の造りとなっていて、銀閣とは異なります。
銀閣に寝殿造が無い理由、それは義政が銀閣寺(東山山荘)の建設に取り掛かった時には、すでに実権を息子譲っており自身は隠居の身となっていたことにあります。寝殿造はもともと貴族の住居として造られたもので、すでに隠居の身となっていた義政には不要だったと考えられます。
②銀閣寺、金閣寺を造った意図
これまでご紹介してきたように、義政が銀閣寺(東山山荘)を建設した意図、それは権力の誇示というよりは、日本庭園への美的追求にあったように思います。
その根拠として、義政が東山山荘の建設に取りかかった時、すでに義政は実権を手放して隠居の身だったことが挙げられます。また、銀閣寺の東求堂(国宝)は、義政が晩年和歌や生花を楽しんだ場所と言われています。それだけ、当時の文化を心から慕っていたのですね。
一方で金閣寺は、義満の権威を誇示するために造られた意図が垣間見ることができます。舎利殿や鏡湖池などの造りを見ても、それが表れていると考えられます。(詳しくは、こちらの記事をご参照ください。)
銀閣寺も金閣寺も、それを造った義政と義満の思いが分かると楽しみ方も変わりますよね。
4.【世界遺産】銀閣寺(慈照寺)の楽しみ方
西芳寺(苔寺)との対比を楽しむ
(出典:http://kyoto.gp1st.com/350/ent158.html, http://kyoto-albumwalking2.cocolog-nifty.com/blog/cat22628941/index.html)
銀閣寺(東山山荘)は、夢窓疎石が再築した西芳寺(苔寺)を手本にして造られたと言われています。そのため、庭園の造りや名前などが西芳寺を意識したものとなっています。
例えば、銀閣寺も西芳寺も、寺全体が上下の二層構造になっています。銀閣寺の場合は展望所が上層、錦鏡池を含む寺が下層の造りとなっています。
また、銀閣寺は現存している建造物は銀閣と東求堂のみとなっていますが、当初はそのほか西指庵という禅室がありました。一方、西芳寺には西来堂と呼ばれる本堂と指東庵と呼ばれている禅室があります。
東求堂と西来堂、西指庵と指東庵。お互いに呼応しているかのような名前ですよね。
銀閣寺と西芳寺を比較しながら観て回ると、さらに庭園の美しさが感じられるのではないでしょうか。
日本庭園の美を楽しむ
金閣寺はその華麗な外観だけでも楽しむことができます。それは、金閣寺(北山山荘)を建立した義満の威厳の賜物でしょう。
一方で、銀閣寺(東山山荘)を建立した義政の想いは、庭園の持つ美しさの追求だったと思われます。
義政は銀閣寺を建設する際に、河原者と呼ばれる人々と一緒に銀閣寺を造ったと言われています。河原者とは、その当時鴨川や宇治川の中州に住んでいた土地無き民のこと。
河原者は中州に掘っ立て小屋を造って住んでいましたが、水の侵食により石が削られることから石の組立法を自然に学んだと言われています。
西芳寺を再構した夢窓疎石は、この河原者たちが持つ、石を運び、組立て、削る技術を活かしたと言われており、銀閣寺の建築にも河原者たちの協力があったと言われています。
銀閣寺の錦鏡池を囲っている石など、銀閣寺を観られる時には石の並べ方にも注目してみてください。東山山荘の造営は、一時の権力が弱まったとはいえ、将軍という地位にいた義政だからこそ成し得た偉業と言えますが、義政は素晴らしい庭園を造り出すためには河原者という庶民であっても、分け隔てなくその技術を敬い、そして積極的に取り入れたのです。
そこには、文化や芸術、美しいものの前では権威に関係なく人は平等である-。そんな文化人としての義政の人物像が見えてくるように思えてなりません。
5.銀閣寺(慈照寺)が世界遺産に登録された理由
最後に、銀閣寺(慈照寺)が世界遺産に登録された理由を考えてみたいと思います。
①当時の庭園と建築の最高峰であり、完成された美しさ
まず1点目は、何といっても銀閣寺の庭園と建築が織りなす一つの庭園様式として、ある意味完成されたその芸術的な美しさは世界に誇るべきものであるとともに、当時の日本の姿、心を今に伝えるものとして大変貴重なものです。
これまでお話ししてきたように、義政は将軍として日本を束ねる技量があったかは定かではありませんが、芸術に対する才能は小さいころから触れてきたこともあり、間違いなくずば抜けていたと思います。
そんな文化人、義政が西芳寺や河原者といった当時の庭園技術を利用して築きあげた銀閣寺は、まさに室町時代における庭園、建築の最高峰と言えるでしょう。
②書院造りの誕生
国宝にもなっている東求堂の一室である同仁斎は日本における書院造の最古例と考えられています。
また、書院造りを有することから銀閣寺は「書院造庭園」と呼ばれています。これは座敷から目の前に広がる庭園を眺める、またさまざまな娯楽や余興に興じるなど、主に当時の武士たちの日常の暮らしに寄り添った造りということができます。
ちなみに、金閣寺は寝殿造庭園と言うことができるでしょう。寝殿造りを配する金閣寺においては、義満が後ろで実権を握っていたこともあり、まだ政治の表舞台、儀礼のために造られた庭園ということができます。
また、枯山水庭園は書院造りとは異なり、大自然を庭の中に凝縮して表現することに重きが置かれた庭園となります。ですが、この枯山水も銀閣寺が創建された室町時代後期に誕生した文化です。同じく京都の世界遺産の1つ、龍安寺の有名な石庭も同じ時代に造られたと考えられています。
③時代を彩った東山文化
金閣寺と同じように、銀閣寺が建てられた室町時代後期に花開いた文化を、銀閣寺がある東山からとって東山文化と呼んでいます。
華やかな文化である北山文化とは対照的に、東山文化は質素で「わび・さび」という言葉に表される文化と言えるでしょう。
それは、冒頭でもお話しした通り、戦国時代へと続く長い争いと不安定な世の中、京の都でさえ荒廃していた時代に生きた人々の価値観が形になったものだと思います。世の春を謳歌する華やかさは無いものの、だからこそ限りある命や身の回りに当たり前にある自然を尊重し、素晴らしい想像力と表現力で芸術へと昇華させる日本人ならではの心の豊かさと、そこに確かにある凛とした力強さは、日本の歴史の中でも特に素晴らしいと筆者は感じます。
いかがでしたでしょうか。銀閣寺は金閣寺と比べると一見、地味な印象を持たれてしまいます。
「銀閣寺」という名前も、銀閣に銀箔を塗る予定だったが応仁の乱後の騒乱の中でその資金が無かったために実現しなかったという説がありますが、定かではありません。
ですが、義政が銀閣寺を通して表現したかった日本庭園の美しさというものが感じて頂けると思います。
銀閣寺を訪れる際はぜひこれらのことを覚えておいていただくと、銀閣寺を100倍楽しめると思います!
(参照:「銀閣寺-不滅の建築(8)-」:毎日新聞社、 「古都世界遺産散策」:京都新聞社 松本章男)
【世界遺産】銀閣寺(慈照寺)に見る、「わび・さび」(侘び・寂び)の意味とは?
京都の世界遺産の1つ、銀閣寺(慈照寺)。一見地味な印象のお寺ですが、銀閣寺が遺した「わび・さび(侘び・寂び)」の心は、現在を生きる私たちにも美意識の1つとしていまだに通じるものがありますし、日本人のみならず世界にも広く知られています。 今回は、よく聞くけどイマイチピンと来ない「わび・さび」の意味するものを、銀閣寺から探ってみましょう。
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