カンボジアの世界遺産、アンコール遺跡の中でも圧倒的な存在感と人気を誇る「アンコール・ワット」。その特徴的な尖塔が池の向こうにそびえ立つ、あまりにも有名なその外観はどこか幻想的ですらあります。
今回は世界遺産「アンコール・ワット」の歴史、創建の理由から、有名な回廊の壁画、さらにはアンコール・ワットに秘められた壮大な思想をご紹介します!
1.【世界遺産】アンコール・ワットの歴史
世界遺産のアンコール・ワットは、9世紀ごろから15世紀まで、今のカンボジア、シェムリアップ付近に王都を構え、カンボジアだけでなくタイやベトナム、ラオスなど最盛期には東南アジアの広範囲を勢力を拡大していたクメール人(カンボジア人)による王朝、アンコール王朝時代に築かれたものです。
シェムリアップのアンコール遺跡を訪れた方ならよくお分かりかと思いますが、この地域には数多くのアンコール王朝時代の遺跡が広範囲に築かれた跡として残されています。
これは約600年もの長きに渡って繁栄を築いたアンコール王朝の歴史をそのまま物語るものでもあり、その中でも最も規模の大きいアンコール・ワットは、それを築いた当時にアンコール王朝が最盛期を迎えていたことを示すものでもあります。
アンコール・ワットの創建者、SuryavarmanⅡ(スールヤヴァルマン2世)
世界遺産アンコール・ワットを創建したのは、アンコール王朝の18代目の王、SuryavarmanⅡ(スールヤヴァルマン2世)(1113年~1150年)でした。
9世紀ごろからアンコール王朝が今のカンボジアに誕生して以降、この王朝では王位継承の熾烈な争いが国内でも繰り広げられてきました。
アンコール・ワットを築いたSuryavarmanⅡも、それまで数十年に渡って分裂していた国内の権力争いを勝ち抜き、最後に叔父であったDharanindravarmanⅠ(ダラニンドラヴァルマン1世)を戦で殺して王位を宣誓したのです。
ここにアンコール王朝の1つの特徴があり、歴代の国王は民衆に自分が正当な王であることを示すため、戦いを勝ち抜くことで神のごとき強さを証明するとともに、ヒンドゥー教の神々の正当な血筋を持った神との交信者であることを示すことで、民衆からのゆるぎない信仰を集めました。
アンコール王朝とヒンドゥー教が強く結びついていた理由でもあります。
SuryavarmanⅡは壮大なアンコール・ワットを創建しただけのことはあり、歴代のアンコール王の中でもとりわけカリスマ性に富んでいた人物であったと考えられます。
王位に就いた後も積極的な外交と勢力拡大を繰り広げ、東の隣国にあったChampa(チャンパ)国への侵攻や、当時の中国へ貢物を送るなどしてそれまで途切れていた中国との外交を再開させるなど、精力的にアンコール王朝の繁栄を引っ張ってきたのです。
壮大なスケールのアンコール・ワット
世界遺産、アンコール・ワットの創建はSuryavarmanⅡが生涯をかけて取り掛かった一大プロジェクトと言っても良いぐらい、途方もなく壮大な計画でした。
現に、アンコール・ワットが一通り完成するまでにかかった月日は30年以上にも及び、残念ながらSuryavarmanⅡが生きている間に完成することはありませんでした。
アンコール・ワットと言うと観光で訪れるあの寺院だけを思い浮かべがちですが、正確にはあの中央伽藍は中心の一画に過ぎず、敷地面積でいうと全体の面積は200ヘクタール(南北1,300メートル、東西1,500メートル。東京ドーム15個分)にも及ぶそうです。
地上を歩いているだけだとその全貌が見えないのですが、アンコール・ワットの中央伽藍の外側には、この敷地を取り囲むようにぐるりと幅200メートルにも及ぶ環濠が造られています。
また、あまりその大きさに実感が湧かないかもしれませんが、アンコール・ワットの中で中央にそびえ立つ尖閣(中央祠堂)の高さは実に65メートルにもなるそうです。
ちなみに、同じ世界遺産でインドが誇るタージ・マハルの高さは73メートルなので、高さではタージ・マハルを少し低くしたイメージになります。
いずれにしても、外側の環濠や石造りの中央伽藍、そしてその中の回廊に描かれた壮大な壁画、これら全てを完成させるのには途方もない労力と時間が必要だということは想像できるのではないでしょうか。ある概算では、これだけの規模の建築物を造るとなると建築士から石材を運ぶ労働者まで、30万人もの労働力が必要と言われており、これだけの労力を自在にコントロールできたSuryavarmanⅡが、いかに強大な権力を持っていたのかがよく分かります。
ヒンドゥー教 vs 上座部仏教
後ほど詳しくご紹介しますが、世界遺産のアンコール・ワットに限らず、アンコール遺跡を訪れるとヒンドゥー教というよりは仏教遺跡なのでは、と混乱してしまうことがよくあります。
というのも、アンコール遺跡に残されたヒンドゥー教の彫刻は、インドなど現在のヒンドゥー教寺院に見られるようなある種の派手さが無く、一見すると仏像や観音像のようにも見えてしまうこと、また実際にアンコール・トムの四面観音のように仏像も残されているためです。
これはアンコール・ワットをはじめ、創建当初から現在に至るまでの長い歴史による影響を受けたことが原因で、例えばアンコール・トムを創建したJayavarmanⅦ(ジャヤヴァルマン7世)はそれまでのアンコール王たちとは異なり、仏教に帰依した王として知られています。
さらに15世紀に入りアユタヤ王朝の侵攻によりアンコール王朝が滅んでからは、アンコール・ワットも仏教寺院として帰属することになり、現在に至っています。
ですが、世界遺産アンコール・ワットを楽しむためには、やはりヒンドゥー教に基づくSuryavarmanⅡの思いが色濃く反映された背景を知ることが重要です。
2.【世界遺産】アンコール・ワット創建の謎
世界遺産アンコール・ワット。「アンコール」は「都」、「ワット」は「寺」を意味します。つまり、「都の寺」というわけです。
そんなアンコール・ワットは、その壮大な建築が現在にも残されている一方、その創建に至るまでの記録や創建の王、SuryavarmanⅡに関して記録された碑文はほとんど見つかっていません。
このため、今でもアンコール・ワットが創建された目的には議論の余地が残されているのですが、それも含めてご紹介しましょう。
正当な王位を誇示する王宮
世界遺産アンコール・ワットを創建したSuryavarmanⅡに限らず、歴代の王たちは王位を宣誓するとそれぞれ自分たちの王都を探し求め、そこに新しい都を築き、さらに自分たちの王宮を創建しました。
それまでの王たちが使っていた王宮や王都をそのまま引き継いだ方が楽だし、効率的なのでは?と思われた方もいるかもしれません。ですが、ここにはアンコール王朝ならではの理由がありました。
先ほど少しお話ししたように、広大な王国を支配するに当たって、内部紛争による争いに勝利しただけでは誰も新しい国王を正当な王とみなしてくれません。そこで、王たちはいかに自分が王にふさわしく正当な存在であるかを証明する必要があったのです。
そこで王たちは、自らをヒンドゥー教の神々と交信を行い、神からも認められた「現人神(あらひとがみ)」たる存在であることを示すことで、人々の心を掌握しようとしました。
もしこれまでの王が利用していた王都をそのまま利用していたのでは、自分が前の王に従っているようで、自分が神との交信者であり、神に代わって地上を支配する存在であることが証明できません。
そのため、自分の意志として新しい王都を築き、またよりスケールの大きな王宮を築くことでこれまでの王以上のパワーを誇示しようとしたわけです。
SuryavarmanⅡがアンコール・ワットを創建した理由の一端がこの点にあることは間違いないでしょう。
王の墳墓 vs ヴィシュヌ神を祀る寺院
世界遺産アンコール・ワットがヒンドゥー教の神、ヴィシュヌ神を祀っていることについては学者や研究者の中でも一致しています。
実はヴィシュヌ神を祀っているというのもアンコール・ワットの1つの特徴であり、この寺院を知る重要なキーワードでもあります。というのも、それまでのアンコール王朝の王たちはほぼシヴァ神に帰依していたためです。
SuryavarmanⅡがその在位時にアンコール・ワットを自らの王宮、そして国の中央寺院として利用していたとすれば、そこに自らが進行するヴィシュヌ神を祀ることは当然のことです。
ですが、一方でアンコール・ワットはSuryavarmanⅡの墳墓としての意味も持っているのではないか、とする議論もあります。
その論拠の1つに、アンコールワットの最上部にある中央祠堂の地下から小さな石棺が見つかったことが挙げられます。大きさが140センチ×80センチ×72センチでちょうど人の屈葬に用いられるサイズであること、また四方に小さな穴が開いている形状などが、バリなどでの土葬に用いられるものと類似しているということで、SuryavarmanⅡが埋葬されていたのではないか、というわけです。
これには異論もあり、まずSuryavarmanⅡがいつ、どのようにして亡くなったのかがはっきり分かっていないこと。戦いの中で命を落とした可能性も十分あり、そのような場合はそもそも遺体を埋葬・保管することも困難になるはずではないか、という意見もあります。
代々、アンコール王朝の王たちはその死後、神との関係を示す名前が与えられてきました。SuryavarmanⅡに関しては、「Paramavishnuloka」という死後の名前がついています。その中に「Vishnu(ヴィシュヌ)」という言葉があることからも、SuryavarmanⅡがヴィシュヌ神を信仰していたことが分かります。
また、このように死後に神と結びつき、神々の世界に住み続ける、という信仰から考えると、アンコール・ワットが純粋なヒンドゥー教寺院ではなく、SuryavarmanⅡの墳墓という考えも自然に思えてきます。
ヒンドゥー教寺院としてのアンコール・ワット
SuryavarmanⅡがヴィシュヌ神に帰依するために創建したアンコール・ワットは、ヒンドゥー教の神話世界を地上に具現化したものである、とよく言われます。
それは、中央伽藍の真ん中にそびえ立つ5つの尖塔がヒンドゥー教において神々が住まうとされている須弥山(メール山)を模したものであり、また中央伽藍を取り囲む環濠は世界の大海を模したものと言われているためです。
後ほどご紹介しますが、アンコール・ワットの第1回廊に描かれた壁画もその多くがヒンドゥー教の経典にまつわるエピソードが題材となっていることからも、この寺院がヒンドゥー教寺院であることは明らかでしょう。
アンコール・ワットが西向きである理由
先ほど、アンコール・ワットがそれまでの王と違ってヴィシュヌ神を祀っていることをご紹介しましたが、実はアンコール・ワットが持つ、他のアンコール遺跡と違う特徴がもう1つあることをご存じでしょうか。
それは、アンコール・ワットが西向きに造られているということ。
実は多くのアンコール遺跡寺院は東向きに造られているのに対し、アンコール・ワットは西向きに建てられているのです。
アンコール・ワットが西向きに造られている理由にもいくつかの説があり、まだはっきりと決着がついているわけではありません。
「死者」を葬る方角
仏教でもそうですが、太陽が沈む「西」という方角には宗教的には「死者」や「あの世」という信仰が込められています。
先ほど、アンコール・ワットがSuryavarmanⅡの墳墓ではないか、という説をご紹介しましたが、アンコール・ワットが西向きである理由も、SuryvarmanⅡの墳墓としての意味合いからこのような設計にしたのではないか、という説があります。
「西」を司るヴィシュヌ神
もう1つの説はとてもシンプルで、アンコール・ワットが西向きに造られているのは、祀られている神であるヴィシュヌ神が「西」を司る神であるため、というもの。
シンプルながらこちらも説得力のある考え方ですよね。
寺院内に描かれた多くのアプサラス(天女・女神)
アンコール・ワットの寺院内を鑑賞していると、いたるところに「踊り子」の彫刻が描かれていることが分かります。
この踊り子は「アプサラス」という天女を描いたものですが、このアプサラスという天女は神々や聖者が来ると、歌や踊りを踊ってそれを讃え、時には霊を慰める役割を担うと言われています。
そんなアプサラスが寺院内に多く描かれている理由、それはおそらく、この寺院がヴィシュヌ神を祀っているだけでなく、ヴィシュヌ神がすむ天宮を描いたものとも考えられています。
つまり、神々が住む天宮をこの地上に具現化したものが、アンコール・ワットというわけです。
また、SuryavarmanⅡの墳墓という説で考えてみると、このアプサラスたちはSuryavarmanがその死後、神々の天界に赴くことを讃えて踊っているかのようにも考えられれますよね。
3.【世界遺産】アンコール・ワット最大の魅力、回廊壁画(彫刻)
回廊壁画の8つの題材
世界遺産アンコール・ワットの最大の魅力は何といっても、第1回廊にぐるりと張り巡らされた壁画(彫刻)の圧倒的なスケール感でしょう。全長約780メートルにわたって、8つの主題が壁画一面に描かれている様は圧巻の一言です。
この壁画をじっくり観て回るだけでも十分に価値があり、それぞれの詳細なご紹介は別の記事に委ねるとして、今回は第一回廊に描かれた8つの主題のあらすじを簡単にご紹介していきます。
乳海攪拌(にゅうかいかくはん)(東南面)
アンコール遺跡の彫刻で最も多く目にするのが、この「乳海攪拌(にゅうかいかくはん)」のエピソードです。
実は「乳海攪拌」のあらすじはヒンドゥ教の経典によっても微妙にストーリーが異なっています。ですが、大まかなストーリーは下記のようなものです。
その昔、世界に神々と魔族(アスラ)しか存在しておらず、両者が世界の支配を行うべく戦いを繰り広げていました。
長い戦いの中、やや戦況が不利になった神々は、困ってヴィシュヌ神に助けを乞います。
すると、ヴィシュヌ神は、
「この大海をかき回していると、いずれ海の中から不老不死の妙薬「アムリタ」が出てくるだろう。このアムリタをアスラに渡すことなく、飲み干すことができれば神は永遠の力を手に入れることができ、アスラに勝利できる。」
とアドバイスしました。
さっそく神々は妙薬「アムリタ」を見つけるべく、アスラに一時休戦を持ちかけて、一緒に大海を回してこの薬を探すことを提案します。
アスラは、アムリタが見つかればそれをアスラが飲むことを条件に協力に応じるわけですが、当然そんなことを神々が許すことはしません。
ですがアスラの協力なしにはアムリタも見つからないので、とりあえずアスラの要望を受け入れることにして、神々とアスラは協力して大海をかき混ぜる作業に取り掛かりました。
アンコール・ワットの壁画に描かれているのは、まさに神とアスラが綱引きのように、巨大な蛇をマンダラ山に巻き付け、両側から引っ張って大海をかき回しているシーンです。
神であるデーヴァ(Deva)は88名、アスラ(Asura)は92人が描かれ、中央にマンダラ山、上部にはこれを見守る144人のアプサラス(天女)、下層には海中の魚やワニが描かれています。
「天界と地獄」(南東)
これは仏教やローマ・ギリシャ神話でもある程度馴染みのある、死後の世界へ赴くシーンを表現したものです。
壁画に描かれているのは、死後、Yama(閻魔)の審判を受けるために死の世界を歩いている王の姿と、Yamaによる審判の後、無事に天国に向かうことができた王と王妃の姿が描かれています。
壁画は大きく上下の2つに分かれており、上部が天国、下には地獄の様子が描かれ、地獄に関しては三十二地獄が延々と描かれていることに圧倒されます。
一番の見どころは、中央部でYamaによる審判を受けている場面と、そこから地獄に突き落とされている人が描かれている部分です。
クルクセートラ戦(西南)
インドの二大叙事詩の1つ、「マハーバーラタ」のクライマックスに当たる大戦争場面が描かれています。
この「マハーバーラタ」、ものすごくざっくり言ってしまえば、王族の兄弟同士の壮大な兄弟げんかということになります。しかも、対立しているのが善人として描かれている5人の兄弟と、一方で悪人として描かれている100人の兄弟。
この数ももはやけた違いなのですが、その両兄弟が繰り広げる一大兄弟げんかの様子が描かれています。
ランカ島戦(西北)
こちらも「マハーバーラタ」と同じインドの二大叙事詩に挙げられている「ラーマーヤナ」の一番のクライマックスの場面が描かれています。
この「ラーマーヤナ」もとてもざっくり言ってしまえば、妻のシータ王妃をアスラにさらわれたラーマ王子が、王妃を取り返すため、アスラに戦いを挑んで勝利する、勧善懲悪のストーリーです。
ちなみに、この物語で主人公のラーマはビシュヌ神の化身なのですが、彼と一緒にアスラと戦うのは猿の軍団です。このため、壁画にはたくさんの猿が描かれているわけですが、この猿たちは「善い者」である点は覚えておくと良いでしょう。
神々とアスラの戦争(北西)
こちらは、先ほどの「乳海攪拌」の続編とも言える場面で、アムリタが見つかった後にそれを取り合う神々とアスラの戦いが描かれています。
アニルッダ救済(北東)
この彫刻と次にご紹介する「ヴィシュヌ神のアスラへの勝利」は、他の彫刻と違い、16世紀頃、アンコール・ワットの建立よりもかなり後になって造られたもので、やや作風が異なっています。
アルニッダとは、クリシュナ神(ヴィシュヌの化身)の孫にあたる王子で、このアルニッダが恋に落ちた王女と同棲していたことが王女の父であったアスラのヴァーナにばれてしまい、監禁されてしまいます。
それを知ったクリシュナ神が、アルニッダを助けるためにヴァーナに戦いを挑む物語ですが、興味深いのが、このアスラのヴァーナがシヴァ神に帰依していること。
最終的にクリシュナ神が勝利するのですが、ヴァーナをかわいそうに思ったシヴァ神が、クリシュナ神に対してヴァーナの命乞いをするというストーリーになっており、完全にヴィシュヌ神がシヴァ神より卓越した存在として描かれています。
アンコール・ワットの第一回廊に描かれている場面も、クリシュナ神とヴァーナの戦いと、それに仲裁に入るシヴァ神がメインで描かれています。
ヴィシュヌ神のアスラとの戦いへの勝利(東北)
こちらも先ほどの「アルニッダ救済」と同様、16世紀と後になって描かれた彫刻です。内容はアスラ軍と戦うヴィシュヌ神の勇姿が描かれています。
王族行進(南西)
8つの壁画のうち、この「王族行進」のみがヒンドゥー教神話図ではなく、完全な歴史図となっています。
描かれている場面は2つに分かれており、左側に聖山があり、山頂にSuryavarmanⅡが座っている姿が描かれています。
そしてその山麓に、象に乗った王の家臣たちの肖像が全19名描かれており、これに加えてSuryavarmanⅡの姿も再び描かれています。
回廊壁画が示すものとは?
以上、簡単に壁画に描かれている題材と場面をご紹介しました。
皆さんはこの8つの題材を描くことで、SuryavarmanⅡが何を伝えたかったのか、またどのような意図があったのか、どのように思われますか?
8つの題材の元になっているヒンドゥー教の経典と、その教えを理解しなければなかなか想像することは難しいかもしれません。この点については別記事で改めてご紹介するとして、この壁画を描かせたSuryavarmanⅡの思いをいろいろと想像しながら訪れるとより楽しみが広がると思います。
4.【世界遺産】アンコール・ワットの驚くべき仕掛けとは?
太陽の動きを計算して造られている!
アンコール・ワットを訪れると、多くの人がアンコール・ワットの日の出を鑑賞するツアーに申し込むほど、朝日鑑賞のツアーはとても人気があります。
これはアンコール・ワットが西向きに建てられているからこそのツアーとも言えますが、皆さんは1年の中でも最も人気のある日があることをご存じでしょうか。
それが春分の日と秋分の日。この2日は、1年で太陽が真東から上り真西に沈む日です。
そして、アンコール・ワットではこの日、中央祠堂のちょうど真裏から太陽が昇り、それはまるでアンコール・ワットの尖塔が太陽を支えているかのような、とても神秘的な光景。
もちろん、これは偶然の産物ではなく、アンコール・ワットを創建した時に計算し尽されていたのでしょう。その証拠に、1年の間で最も太陽が高く昇る夏至の日と、最も低い冬至の日、太陽はちょうどアンコール・ワットの両端から昇ってきます。
つまり、太陽は1年を通して、アンコール・ワットの両端を行き来しながら昇ってくるというわけなんです。
アンコール・ワットと太陽直下点
もう1つ、アンコール・ワットが太陽周期を意識して造られたのではないか、と考えられる仮説をご紹介します。
それが、「太陽直下点」との関係です。太陽直下点とは、太陽が地面に対して垂直に来ることを言い、この時、太陽は我々の真上に位置しているため、地面には影ができません。
この特殊な現象は実は地球上の限られた地域(赤道近辺)でしか見ることができないのですが、アンコール・ワットはこの太陽直下点が発生するエリアに含まれており、毎年4月26日と8月10日頃、太陽が垂直に昇ります。
実はアンコール遺跡の中で、アンコール・トムのベイヨン寺院をはじめ、多くの寺院でこの太陽直下点を意識した造りになっていたことが判明しています。
例えば、ベイヨン寺院でも中央祠堂の情報に小さな穴が設けられていて、太陽が直下点に到達した時、まっすぐに太陽光が下に降りてくることが分かっています。他の寺院でも、この小さな穴を通じて太陽が真上から降り注ぐその先に、リンガが祀られているなど、明らかに太陽の動きを計算して造られていることがよく分かります。
太陽周期を意図したさらなる仕掛け!?
Stencel, Gifford & Moron(SGM)という研究者の書いた論文によると、中央祠堂の最も高い標高点で外側の垂直面の大きさを測った時、南北面で176.37hat、東西面で189.00hatの長さがあることが分かりました。(hatというのはカンボジアの単位で、概ね0.43~0.48メートル)
SGMは、この数字を足し合わせると365.37となり、これがほぼ1年の日数にかなり近似していることを発見したのです。
ちなみに、東西と南北で均等の長さになっていない理由も、「Shatapatha Brahmana」というヒンドゥー教の経典に根拠を見出しています。
緯度をも把握した造り!?
さらに、Eleanor Mannikkaという研究者は、アンコール・ワットの緯度と中央祠堂にも隠された秘密があると述べています。
それは、アンコール・ワットの緯度は13.41度である一方、中央祠堂の石室の大きさも南北で約13.43 cubitsあり、両者で長さが一致しているというもの。(cubitというのは長さの単位で、概ね50センチ)
先ほどのhatはまだカンボジアの単位ということで説得力がありますが、こちらのcubitsという単位はやや微妙な気もします。。
それでも、彼はアンコール・ワットを創建したクメール人たちは、自分たちの住んでいる場所の緯度についてもはっきりとした理解をしており、このことは、地球が太陽の周りを公転していることをすでに理解していたことを示すものだ、とも述べています。
いかがでしたでしょうか。
知れば知るほど、その計算し尽された魅力にはまってしまう世界遺産アンコール・ワット。
アジアのみならず、世界でも最も人気のある世界遺産の1つであることも納得ですよね。皆さんもぜひ一度はアンコール・ワットを訪れ、その歴史の神秘をじっくり味わってみてください!
(参考:「アンコールワットへの道」石澤良昭 JTBパブリッシング、「Angkor Temples」Michel Petrotchenko、「Solar Alignments of the Planning of Angkor Wat Temple Complex」Amelia Carolina Sparavigna、「Time, Space, and Astronomy in Angkor Wat」Subhash Kak)