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ミャンマーの歴史を分かりやすく解説!(1)植民地からの独立

連日のニュースでその痛ましい現場が放送されているミャンマー。国軍による突然のクーデターは世界を巻き込み、状況は混沌としています。
このクーデターは私たちには青天の霹靂のようなニュースでしたが、それはミャンマーの歴史から続く流れが生み出したものとも言えるでしょう。
今回はミャンマーの歴史をひも解き、まずは独立までの歩みを振り返ってみます。

1.ミャンマーの歴史を知るうえで知っておきたい背景

ミャンマーの現在とその歴史を理解するためには、この国が持ついくつかの特殊な事情を知っておくことがとても重要です。今回はその中でも、民族、宗教、「ミャンマー」と「ビルマ」の呼び名の3つに絞ってご紹介します。

多民族国家のミャンマーと行政区分

ミャンマーは実は多民族国家であることはご存じでしょうか。
近年、難民問題が国際的にも問題になっているロヒンギャの人々の存在を見聞きし、ミャンマーには多くの民族が共存していることを知った方も多いかと思います。
(ちなみに、ロヒンギャという名前が特定の民族を表しているかというとはっきりせず、それもこの問題の解決を困難にしている一因ではありますが、この記事では深入りしません。)

私たちがミャンマーで暮らす人々をイメージする時、それはミャンマーで多数派を占めるビルマ族という民族の人々を指すのですが、この国にはそれ以外にもシャン族、カレン族、ラカイン族といった民族が暮らしており、もちろんそれぞれが固有の言語を持っています。
一応ミャンマーではビルマ語が公用語とされており、人口の90%以上が公用語を話せるので、民族間であってもコミュニケーションを取ることは可能ですが、それぞれの民族では固有の言語が使われており、その数は優に100を超えるとも言われています。

ミャンマーにおける管区と州

日本は都道府県、アメリカは州政で行政単位が整理されているように、ミャンマーでも「管区」と「州」と呼ばれる行政区分があります。ざっくりとした理解として、管区はヤンゴンやネピドーなど主要都市を含む地域であり、ビルマ族が多く住む区域、一方の州はカレン州、モン州といったように、それぞれの州ごとに特定の民族が多く住む区域で区分されています。

これは、ビルマ族以外のいわゆる少数民族がそれぞれの自治州の設置を求めてきた歴史とも関連してくるのですが、詳細は後ほどご説明します。

ミャンマーにおける宗教

ミャンマーでは仏教徒が9割近くを占める国ですが、キリスト教やイスラム教が数%、それにヒンドゥー教徒も暮らしています。

ちなみにミャンマーにおける仏教は日本の大乗仏教ではなく、上座部仏教が主流なので、私たちがイメージする仏教と少し違っています。簡単にご説明しておくと、上座部仏教はより厳格・ストイックな仏教であり、大乗仏教は広く大衆の救いを目的とした仏教です。日本では住職がテレビなどに出ているのを目にしますが、上座部仏教では仏僧は経済的、生産的な活動はせずにひたすら厳しい戒律の下で修業に打ち込むことが求められます。

割合では圧倒的に仏教徒が多いものの、宗教上の対立も現在まで少なからずこの国に禍根を残しています。

「ミャンマー」と「ビルマ」

実は「ミャンマー」という国の名前は比較的新しいことをご存じでしょうか。この名前で正式に呼ばれるようになったのは今から30年ほど前の1989年。それまでは国名は「ビルマ」という言葉が冠していたのです。

「ミャンマー」と「ビルマ」。呼び名が変わっただけとお思いかもしれませんが、実はこの呼び名にもビルマの深い事情があります。
どちらの言葉もミャンマーという国を示す言葉ではありますが、「ミャンマー」は書き言葉に使われた表記名で、「ビルマ」は口語体として日常での呼び名として利用された言葉です。

どちらもこの国を示すということで同じじゃないか、と思われるかもしれませんが、この言葉にミャンマーに住む民族の関係が加わると、事情は一筋縄ではいかない複雑な問題を抱えることになるのです。

ミャンマーの歴史というのは、大きく以下の2つの元に動いてきたと言えます。
・植民地支配からの独立
・民族を超えた国の一致団結と、それに基づく民主主義の実現

1989年、国名をミャンマーに変更した際も、ビルマ族だけではなく他の民族も合わせて1つの国にまとまろう、という意図があったようですが、先ほどご紹介した通り、「ミャンマー」も「ビルマ」もそれまで使われてきた言葉であり、どちらが適切か、というのはさほど問題ではないようです。
実際、「ビルマ」という国名の元でもアウンサン将軍(アウンサンスー・チーの父親)はこの言葉をビルマ族だけでなく民族を超えた繋がりの象徴として使っていたとも言われています。

(以降、この記事では「ミャンマー」という言葉に統一して記載します。)

2.ミャンマーの歴史:~19世紀後半(英国による支配)まで

パガン王朝(11~13世紀)

ミャンマーの地におけるビルマ族の歴史で、ビルマ族最初の統一王朝と言われているのは11世紀から13世紀にかけてこの地に興ったパガン王朝です。

2019年に世界遺産にも登録されていたバガン。森林に浮かび上がる多くのパゴダは圧巻の景観ですが、このパゴダはパガン朝時代に造られたものになります。
パゴダというのは「仏塔」と呼ばれるもので、日本のお寺では法隆寺の五重塔など、多重塔に形を変えたものです。

ミャンマーの上座部仏教はパガン朝から始まりました。
パガン朝の初代アノーラター王は、ミャンマー南部のモン人の都、タトンを攻撃してマヌーハー王を捕らた際、上座仏教のパーリ語三蔵法典という書物をパガンに持ち帰り、同時にモン人僧侶も連れ帰り、上座仏教を普及させたと言われています。
パガン王朝が上座部仏教を積極的に国中に浸透させるとともに、仏教への帰依による徳行としてパゴダが数多く建てられたのです。
またこの頃に、ビルマ文字も誕生しました。

三国時代以降(14世紀~18世紀)

パガン王朝が衰退した後は、しばらくシャン族、ビルマ族、モン族間での勢力争いが続きます。そして16世紀初め、1510年ごろにビルマ族の王朝タウングー朝がこの勢力争いに勝利し、その勢力を拡大していきました。

16世紀と言えば日本では種子島に鉄砲が伝来し、その後の戦のあり方が大きく変わった時期ですが、ここミャンマーにもポルトガルから鉄砲が伝わっています。
ただ、日本と違うのは、日本ではその後日本人が鉄砲製造の技術を身につけて積極的に戦に活用していった一方、ミャンマーでは鉄砲製造が根付かずに、ポルトガル人を傭兵として雇い入れることで戦に活用していったようです。
この辺り、鉄砲の取込み1つにしても国によって適応が異なるのは面白いですね。

その後、一時期モン族の王国ハンターワディの逆襲を許し、陥落の危機を迎えましたが、新たなリーダーの登場でこれを追い返し、18世紀にビルマ族最後の王朝、コンバウン朝が誕生しました。

このコンバウン朝はそれまでのビルマ族の国と比較しても最も勢力を拡大した王朝で、隣国タイのアユタヤ王朝も滅ぼしています。この勢いに乗ってコンバウン朝は現在のインドへの侵攻への画策にも至るわけですが、これが当時インドを支配していた英国との衝突の始まりになるのです。

ミャンマーの封建制度

皆さんは日本史で「封建制度」という言葉を習ったことを覚えていますでしょうか。封建制度は、中央政府(日本では江戸幕府など)が各地の領地を藩主に与えて、その地域を治める権利を与える代わりに、藩主は中央政府に年貢や軍事力を提供する関係を言います。

日本では明治維新により欧米から資本主義が入ってくるまで封建制度だったわけですが、ミャンマーでも英国による支配が始まるまでは似たような仕組みになっていました。

ただ、日本とミャンマーで違うのは、ミャンマーが日本に比べて国土が広いこと。
このため、ミャンマーの方が中央政権の支配を国の隅々まで行きわたらせるのが難しく、また日本ほど土地の領有権というのは重要視されておらず、農民は自由に開墾ができたと言います。
それでも日本同様、ミャンマーでも中央政府が各地に藩主を置き、その下に群や村長のような立ち位置が存在していたことは同じです。

一方ミャンマーのユニークなところは、地方農民でも藩主などの支配が及ばず、直接中央政府の支配下になる「公務農民」がいたこと、また、日本では土地と藩主が紐づいていましたが、ミャンマーでは農民と藩主が紐づいており、必ずしも土地による紐づきではなかったことが挙げられます。

どういうことか。
農民は場所に限らず、従いたい藩主を選ぶことができたのですが、その理由として藩主が中央政府からの貢納義務をコントロールする手腕を握っており、どの藩主につくかで農民の負担も変わったからです。

このミャンマーの封建制度も、英国支配により強制的に解体の道を歩むことになるのですが、これがミャンマーでの反帝国主義、反資本主義思想を深く刻み込むことになりました。

3.ミャンマーの歴史:~1930年代後半(英国による植民地支配)まで

英国との衝突と敗北

コンバウン朝の勢力拡大は、隣国インドを支配下に置いていた英国との衝突へと発展します。
コンバウン朝のボウドーパヤー王はその勢いのまま東北インドのアッサムやマニプールにも出兵し、現地の藩王に忠誠を誓わせていましたが、これがインドを統治していた英国を刺激することになり、やがて第1次英緬戦争へと発展しました。

ここまで英国と衝突が発展したのは、英国の帝国主義とミャンマーの封建制度による土着思想の考え方が全くかみ合っていなかったことにも原因があります。今では国境を少しでも超えた行為はすぐさま問題になりますが、当時のミャンマーに国境という概念はありません。コンバウン朝はアラカンからベンガルに逃げ出した住民を追いかけて、たびたびインド領に入ることを繰り返し、これが英国にとっては侵略と認識されたのです。

さらに、第1次英緬戦争でミャンマー(コンバウン朝)は罰金や領地の譲渡を約する契約を結びますが、王が変わるとこの契約もリセットされるものと勝手に理解し、この態度が英国の怒りを買い、第2次英緬戦争を引き起こすことになり、これでミャンマー南部が英国支配下に。

その後第3次英緬戦争で全土を英国の支配下に置かれたことで、コンバウン朝は消滅してしまったのです。1885年のことでした。これにより、ミャンマー全土は英国の支配下に置かれることになりましたが、その位置づけは「英国インド帝国ビルマ州」という名前で、あくまでもインド帝国の属州という扱いでした。

英国の支配体制

英国はミャンマーを完全に植民地化した後、封建制を解体して管区と州(先ほどお話しした通り)、群、市といった行政区分を整理して一元的にミャンマーを支配します。
ただし、管区は直接的に支配したものの、少数民族が多く暮らす州は引き続き藩主を置き、間接的な支配体制を取りました。これによって管区と州で異なる支配体制になり、その間でのコミュニケーションも遮断されることになります。

これが後々の民族間の問題に尾を引くことは言うまでもありません。

当初英国はミャンマーにもビルマ族のリーダーを置くことを考えましたが、適任者が見つけられず結果的にインド帝国の州の1つという扱いにしたのです。英国による統治で、封建制で生きていた管区の藩主たちは強制的にその地位を解体させられたこともあり、ゲリラ戦でしぶとく対抗しますが、英国は軍力で強制的にこれを排除しました。

この強制的な軍力での排除はミャンマーの人々に深い傷を負わせ、その後の強い反帝国主義を醸成することになります。

4.ミャンマーの歴史:~1945年(日本による支配と第二次世界大戦)まで

英国ビルマの誕生

英国の植民地下にあったミャンマーですが、第1次世界大戦から第2次世界大戦に至るまで、徐々にナショナリズムが芽生え出します。ナショナリズムは、「我々は英国の支配ではなく、ミャンマーという国に生きる民族だ」という自国意識なわけですが、それまで植民地支配に甘んじていたミャンマーの中に、独立の意思が強くなってきたことを意味します。

第1次世界大戦で英国も戦力の増強や対応に追われたこともあり、ミャンマーは1935年、それまでのインド帝国の属州からの独立を果たします。これによってビルマ族のエリート階層に行政の多くの部分が移譲されたのですが、当然絶対支配権は変わらず英国が持ち続けました。
この英国の絶対的な支配による制約が、ミャンマーの人々をナショナリズムに基づく独立へとさらに駆り立てることになります。

ミャンマーと日本の共闘

この頃、日本と言えば1937年の盧溝橋事件を発端に日中戦争に突入していった時代です。そして、これが日本とミャンマーのその後の繋がりのプロローグにもなりました。

どういうことか。
日中戦争で、英米は中国の蒋介石を支援するために中国へ物資を送る「援蒋ルート」なるものを作るわけですが、このルートはミャンマーを経由していました。
日本は、このルートを遮断することで中国を不利にしようと画策するのですが、その策の1つに、ミャンマーによる反英からの独立を促したのです。

当時日本の陸軍にいた鈴木敬司は密かにミャンマーに入り、ナショナリズムの芽生えとともに生まれていた活動集団のめぼしいリーダーに目をつけ、彼らを日本に連行、独立に向けた蜂起を説得し、軍事訓練を行いました。
この選りすぐりのミャンマーリーダーたちは「30人の志士」と呼ばれ、アウンサンスー・チーの父、アウンサン将軍もその1人でした。

ミャンマーに戻った鈴木敬司率いるメンバーはビルマ独立軍(BIA)を組成し、日本軍とともに英国と戦い、これに勝利。英国はビルマから撤退します。

ですが、アウンサン将軍はじめ、これは新たな悪夢の始まりでしかありませんでした。

日本の支配と再び組んだ英国とのタッグ

BIAの共闘と合わせて、真珠湾攻撃から第二次世界大戦が勃発していたこの頃、日本軍はより大胆な行動に打って出ます。それは、1942年に英国をミャンマーから追い出すとともに、ミャンマー全土を日本の支配下にしたこと。

もともとミャンマーの独立支援と思っていたBIAは日本軍のこの行動に強い不信感を覚えることになりました。

名目上、日本軍はミャンマーの独立を宣言させ、国際社会にもそれを認めさせたのですが、実質的には日本軍のミャンマー国内での自由行動やビルマ国軍・警察に対する指揮権が認められており、日本の支配下にあるのと変わりない状況だったからです。

日本の支配下で国防相に就任したアウンサン将軍は水面下で対日抗争の準備を進め、パセパラという対日組織を立ち上げ、再び英国に歩み寄ります。
第二次世界大戦で日本の戦況が悪化し、英国軍が再び盛り返すと、BIAは英国軍と共闘して日本軍をミャンマーから排除することに成功。この後終戦を迎えたミャンマーでは、アウンサン将軍を中心にこれまでにないほど独立への機運が高まっていました。

ミャンマーのしたたかな外交

19世紀終わりごろから、ミャンマーは英国の植民地となり、第二次世界大戦まで英国もしくは日本による統治下に置かれる状況が続きました。

これまでご紹介してきた通り、当初日本とタッグを組んで英国をミャンマーから追い出した一方、戦況が変わり日本軍にもはや勢いが無いと見るや英国との共闘を選んだミャンマーのリーダーたち。
こうした外交は、当初ミャンマーが置かれていた厳しい状況下でミャンマーの人たちが最善の策を取った結果としての表れであると筆者は思っています。

もともと無理やり帝国主義に組み込まれたミャンマーの人たちにとって、英国はどう考えても歓迎される相手では無かったでしょうし、同様に日本に対する姿勢としても当初「30人の志士」を生み出した鈴木敬司氏に対する個人的な思い入れや感謝の意はあるにしても、日本という国に対して特別に親日感情を抱くどころか、日本からの支配に苦しんだ一面もあるからです。

したがって、その状況下で最善と思われる方の味方に付く、ということは当然の選択だったと思うわけです。

 

いかがでしたでしょうか。
終戦後、アウンサン将軍のパサパラは軍事力を放棄し、政党としてミャンマーの独立に向けた活動を進めていきます。そこには、非暴力による対話という、今のアウンサンスー・チーにも脈々と受け継がれているアウンサン将軍の民主化への思想があるわけですが、英国からの独立を果たしたミャンマーには、その後さらに暗雲たる時代が待ち受けていたのです。

その詳細は次回、ご紹介します!

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