これまで3回に渡ってご紹介してきた、インドの世界遺産「タージ・マハル」。
準備編の最終回となる今回は、「なぜタージ・マハルは、愛する妻のために造られたのか?」という謎に迫ります!
これを読めば、実際にタージ・マハルに訪れた時の感動が何倍にも膨らむこと間違いなし!!
これまでのおさらい
さて、これまでタージ・マハルについてご紹介した、大事なポイントをおさらいしてみましょう。
1.タージ・マハルは、インドのムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、愛する妻、ムムターズ・マハルのために建てた「お墓」
2.タージ・マハルの特徴である完全なシンメトリーは、イスラム教で理想とされた形式美の表れ
3.タージ・マハルの庭園も、イスラム教では大事な意味を持っている
よく分からない、、という方はこれまでの3つの記事を下記のリンクから読んでみてください!
【世界遺産】タージ・マハルを100倍楽しむためのマメ知識(準備編:その1)
【世界遺産】タージ・マハルを100倍楽しむためのマメ知識(準備編:その2)
【世界遺産】タージ・マハルを100倍楽しむためのマメ知識(準備編:その3)
タージ・マハルにまつわる謎
そして、前回の記事で取りあげた3つの疑問についても、もう一度確認しておきます。
第1の謎:愛する妻の願いとはいえ、改めて、シャー・ジャハーンが22年もの年月をかけ、2万人もの人員を動員してタージ・マハルを造ったその強い意志は、どこから来たのか。
第2の謎:インドの人々に根付いていたヒンドゥー教がある中、世界遺産となるほど見事なイスラム教の建築物が建てられたのは何故なのか。
第3の謎:タージ・マハルの廟堂が、庭園の中央ではなく北側に置かれた理由、それはどこにあるのか。
前回の記事で、第2の謎を解くカギについてお話ししました。今回は残る2つの謎について、ひも解いていきましょう。
「イスラム教の布教」という難問
前回の記事でもお話ししたように、ムガル帝国はもともとトルコ系イスラム教徒によって建国されました。
そこから代々のムガル帝国皇帝は、インドに広く根付いているヒンドゥー教と、時には融和的に、時には厳格に接しながらイスラム教の布教に努めてきました。
敬虔なイスラム教徒である第5代皇帝のシャー・ジャハーンにとっても、「いかにイスラム教をインドに広げるか」という問題には頭を悩ませていたのです。
「その土地の支配者がイスラム教だったら、簡単に広がるんじゃないの?」と思われるかもしれません。
ですが、テレビやネットも無い時代、いかに強大な帝国が権力で支配しようとも、日本の9倍もあるといわれる広大なインドの隅々までイスラム教を知らしめることはとても難しいことでした。
それでは、イスラム教はどのようにしてインドで根を張っていったのでしょうか。
スーフィ-聖者とイスラム神秘派
仏教やキリスト教でも、もともとの教えに対して独自の解釈や信仰がいくつも生まれて、様々な宗派ができたのと同様、イスラム教においても同様の動きがみられます。
その1つが、イスラム神秘派と呼ばれるイスラム教徒でした。
彼らは、コーランを形式的に信仰するのではなく、イスラム教の開祖であるモハメッドが経験した原始的な宗教体験を重視し、神と精神的に一体になる境地を目指して修行をするイスラム教徒でした。
言ってみれば、ストイックに、かつ精神世界や内的世界に目を向けたイスラム教徒であり、スーフィ-聖者と呼ばれました。
そして、このスーフィ-聖者がイスラム教の布教の大きな原動力となったのです。
何故でしょうか。
スーフィ-聖者とヒンドゥー教
スーフィ-聖者は、「神と精神世界で繋がる体験をする」ということを目的としています。
ちょっと胡散臭いにおいがしてきますが、そういった目的のため、ある意味浮世離れした生活を送るイスラム教徒でした。
このようなスーフィ-聖者は、禁欲、苦行、歌、踊りといった手法でそのような境地(エクスタシー)に到達すべく、日々厚い信仰に身を捧げました。
実はこのような行いは、ヒンドゥー教のヴィシュヌ派の「親愛」(バクテイ)と呼ばれる行為と似ているものでもありました。
(イスラム教やヒンドゥー教については、深入りしないせず別の記事でまたお話ししますね。)
ここに、ヒンドゥー教からイスラム教への改宗のきっかけが生まれることになったのです。
つまり、スーフィ-聖者の信仰や教えに共感、信じたヒンドゥー教徒がイスラム教へと改宗する動きが現れます。
聖廟という存在
スーフィ-聖者の中にも、あまりにストイックな信仰生活の末、本当に神秘的な体験をする者が現れ始めました。
信仰の境地に辿りついた者は、当然イスラム教徒からは尊敬の的となり、聖者として丁重に扱われるようになります。今でいう「カリスマ的存在」とでも言いましょうか。
このような「聖者」が亡くなると、当然その霊を丁重に扱うため、墓所が造られました。これを聖廟と呼んでいます。
カリスマの霊を祀っているわけですから、この聖廟にはそのパワーにあやかろうと、多くの人たちが巡礼に訪れました。
今ではパワースポットという言葉が一般的ですが、いつの時代も人間は、何か超人的なものの力を信じる傾向にあるようです。
日本でも、例えば菅原の道真を祀っている大宰府天満宮、中国の孔子廟など、聖廟はイスラム教に限らず、世界各地に見られます。(ただし、太宰府天満宮や孔子廟は「霊」を祀っている。)
さて、このようにイスラム教の聖廟がインド各地に建てられるようになると、そこに訪れる人々の中にはヒンドゥー教徒も見られるようになります。
このように、聖廟はヒンドゥー教徒がイスラム教に触れる、貴重なきっかけの場所としての役割を持つようになりました。
タージ・マハルという「聖廟」
ムガル帝国5代目皇帝シャー・ジャハーンは、この「聖廟」にイスラム教布教の可能性を見出しました。
つまり、妻であるムムターズ・マハルを「聖者」として埋葬し、ほかのどの聖廟よりも立派で偉大な聖廟を造ることで、イスラム教徒だけでなく、多くのヒンドゥー教徒にとっても巡礼の場所となる存在を作ったのです。
イスラム教でのムムターズ・マハルの存在
さて、ここで1つの疑問が出てきました。
「いくら皇帝の妃と言っても、さすがに聖者として扱うのは強引じゃないの??」
たしかに、これには一理あります。
ここでムムターズ・マハルについて、少しお話をしましょう。
ムムターズ・マハルの生涯は36年ととても短いものでしたが、その生涯でムムターズはなんと、14人もの子どもを出産しているのです。
イスラム教において、女性の最も重要な勤めは、立派な男の子を産むことでした。
さらに、ムムターズは最後の子どもを産んだ直後に亡くなっています。
出産には危険が常に伴うもの。そのため、出産直後に亡くなった場合、イスラム教においては殉教とみなされるほどです。
そう考えると、ムムターズはまさに、イスラム教の教えを十二分に立派にやってのけた、理想の女性像をそのまま体現した存在と言えます。
シャー・ジャハーンは自分の愛する妻というだけではなく、その妻が生涯、命を懸けて行ってきたことに対して、聖者と同等に祀るだけの価値があると考えたのでしょう。
タージ・マハルの役割
さて、これで第1の謎を解くカギについてのお話も終わりです。
最後に、タージ・マハルとそれまでの墓廟との大きな違いをもう1つ。
実はタージ・マハルは廟堂だけではなく、モスクや巡礼者の宿泊場所といった施設も備えています。
これはそれまでの墓廟には無いことでした。
ここまで読めば、タージ・マハルにモスクなどの施設がある理由もお分かりではないでしょうか。
そうです。
タージ・マハルは世界中から多くの巡礼者を集めるべく、当時のありとあらゆる技術を総動員して造られた聖廟です。
多くの巡礼者をもてなす施設が必要なのは当然です。
最後に、タージ・マハルがモスクではなく、廟堂をメインに造られた理由-。
それも、モスクであれば巡礼者はイスラム教徒に限定されてしまいますが、聖廟にすることでヒンドゥー教をはじめ、多くの人々にとっての巡礼の地となることを願ったのでしょう。
最後の謎:廟堂と庭園の位置
最後に、第3の謎についてお話してタージ・マハルの準備編を締めくくりたいと思います。
タージ・マハルにはシャー・ジャハーンの棺も埋葬されていますが、やはり当初はムムターズ・マハルの棺だけを埋葬する計画でした。
というのも、シャー・ジャハーンは自分の墓廟をタージ・マハルの北側、ヤムナー河を挟んだ場所に造ろうとしていたためです。
この墓廟は「黒タージ」と呼ぶ、黒い大理石で造られる予定だったそうですが、結局それが実現することはありませんでした。
ですが、もしこの黒タージが完成してたらどうなるでしょう。
タージ・マハルの南の楼門から、北に、庭園→廟堂→ヤムナー河→廟堂(黒タージ)→庭園、となっていたはず。
この順番、よーく見ると全体でシンメトリーとなっていることにお気づきでしょうか。
シャー・ジャハーンは、自分の黒タージと合わせて1つのシンメトリーを完成させようとしていたのかもしれません。
まさに壮大な計画ですよね。これはあくまでも仮設の1つとしてお考え下さい。
いかがでしたでしょうか。4回に渡ってお話ししてきた世界遺産タージ・マハルの魅力。
ぜひ、このお話を胸に本物のタージ・マハルをその目で確かめてみてください。その時、世界遺産の感動が何倍、何百倍にも膨れ上がることと思います!