世界遺産の楽しみ方

【世界遺産】平城宮跡を100倍楽しむためのマメ知識3選

「古都奈良の文化財」として登録されている奈良の世界遺産の1つ、平城宮跡。

奈良市の中に突如広がる一面の原野には、朱雀門、大極殿がぽつんと建てられています。

今回は、

・平城宮跡が世界遺産に登録された理由
・朱雀門と大極殿のヒミツ
・平城宮を守った棚田嘉十郎の悲しい物語

の3つのマメ知識をご紹介します!

1.平城宮が世界遺産に登録された理由

何もない!?平城宮跡

東大寺や春日大社といった奈良の世界遺産に比べると、平城宮跡はどうしても素朴なイメージがあります。それは、広い原野にポツンと朱雀門と第1次大極殿が建てられているだけの、一見すると殺風景な景観にあるのではないかと思います。

実際、朱雀門は1998年、大極殿は2010年に復元されたもので、非常に新しい建築物と言えます。

古都奈良の文化財として奈良の世界遺産が登録されたのは、朱雀門が復元された1998年のことでした。つまり、その当時は大極殿すら無かったということになります。

それでは、平城宮跡はなぜ、またどういった点が世界遺産として認められたのでしょうか。

奈良の世界遺産のコンセプト

奈良の世界遺産は8つの構成遺産から成り立っており、これにはもちろん意味があります。

世界遺産の名称に「文化財」とありますが、奈良の世界遺産が世界に示したかったものは、単に日本の歴史に残る建築物や彫刻などの財産だけではありません。

簡単に言ってしまえば、

東大寺・興福寺・薬師寺・元興寺・唐招提寺は、日本に仏教が根付き、それが「国教」としての役割を担っていたことを示す、日本と仏教の関わりを示すもの。

春日大社・春日原生林は、古代奈良の地において人々、国に根付いていた信仰(春日信仰)の姿を今に示すもの。

そして、平城宮跡はその当時の日本の都の中枢であり、国や人々の生活全般を今に伝えるもの。

と言えます。

つまり、この8つの構成資産が集まって、初めて古都奈良の生活、文化、宗教など、日本の姿そのものが見えてくるのです。

このように考えると、奈良の世界遺産の中でも、平城宮跡は他の構成遺産の土台となる、重要な構成遺産であることがお分かり頂けるかと思います。

地下の正倉院

平城宮跡が奈良の世界遺産登録に際し、重要な存在であることは分かりました。ですが、実際に人類の歴史において価値があるものでなければ、当然世界遺産に登録されることはありません。

それでは、平城宮跡が世界遺産たる価値はどこにあるのでしょうか。

「地下の正倉院」

平城宮跡には、そのような呼び名があります。このような呼び名が付く所以は、地下には広大な遺構と、当時の品々が数多く眠っているからです。

現在復元が完了した朱雀門と第1次大極殿も、この地に残されていた遺構をもとに復元されました。

もともと、この辺りは長く田畑として使われており、土地の変化がそれほど大きくなかったことから、当時の遺構がかなり完全な形で地下に眠っていると言われています。

現在、当時の遺構をそのまま見ることが出来る「遺構展示館」が設立されています。

世界遺産としての価値が地下に眠っている以上、実際に目で確認することは難しい中、この遺構展示館はかなり貴重な場所です。ぜひ訪れてみてください!

国宝に指定された平城宮出土木簡

奈良時代と言えば、「木簡」という言葉を歴史の授業で習いませんでしたか。
木簡とは、木の札に文字が記された文書のようなもので、当時の社会、経済の状況を示す貴重な手がかりです。

奈良時代以降も広く普及した木簡は全国各地の遺跡から発掘されており、その数約37万点以上に及んでいます。平城京もしくは平城宮内で見つかった木簡は、約半数の17万点にも及んでおり、この点でも平城宮跡は貴重な遺跡であると言えますね。

そして、2017年9月、平城宮跡から発掘された木簡が、「平城宮跡出土木簡」として国宝に登録されました。

平城宮跡が世界遺産として登録された理由は、地下に眠る遺構が当時の都中枢の構造を今に伝えるものであり、また木簡が社会、経済、そして人々の生活の様子をいきいきと伝えていることにあるのです。

2.朱雀門と第1次大極殿のヒミツ

古くから木造建築と共に生きてきた日本において、木材は石と違い腐敗しやすい素材のため、遺跡はあっても、諸外国の遺跡のように保存状態が良く残っているものはほとんどありません。
(そう考えると、世界最古の木造建築である法隆寺の価値は、計り知れません。)

このため、平城宮跡に残された遺構も土台部分のみで、そこから上の部分がどのような姿だったのかは、資料などに残されていない限りは知ることが出来ません。

現在復元されている朱雀門や第1次大極殿も、実は土台部分から上の姿を示す資料がほとんど残されていないため、ある程度「推測」に基づいて造られたものです。

朱雀門

朱雀門は、写真の通り正面5間、側面2間の設計となっていますが、これらは残された遺構から明らかになったものです。

ですが、それ以外、例えば屋根の構造や、柱の大きさ、組物などについては当時どのような姿だったのか、上部の姿を示す直接的な史料は皆無であり、この姿が当時の姿と同じものかは誰にも分かりません。

例えば、屋根は重層(2階建てのように2つの屋根が設けられている)となっていますが、これについても、実は単層だったのではないか、と異論を唱える方もいます。

この重層の二重門については、当時の絵巻を参考に考えられました。復元に際しては、二重門として唯一その構造をとどめて現存している、法隆寺の中門が参考にされました。

柱などの大きさは、東大寺転害門を参考に復元されています。転害門は、朱雀門と同時期に造られた、同規模の建築物であることが理由です。

最後に、組物は薬師寺の東塔を参考にしています。こちらも、朱雀門とほぼ同時期に創建されたことに基づきます。

こうしてみると、朱雀門がいろいろな建築物のハイブリッドであることがお分かり頂けるかと思います。そう考えると、何とも不思議な感覚になってきませんか。

第1次大極殿

続いて、第1次大極殿を観てみましょう。

こちらの一番の特徴は、正面全てが開放されていること。これは、「年中行事絵巻」を参考にこのような姿に復元されました。

正面は柱間9間、全長は149尺(約44メートル)、側面は柱間4間、全長は66尺(約20メートル)とかなり大きな建物となっています。

朱雀門同様、上部がどのような姿であったかをはっきりと示した史料が無いため、こちらも可能な限りの推測に基づいて復元されました。

大極殿は二重構造になっていますが、これは平城京内にあった大寺の金堂が二重構造だったことに基づいています。

また、初重の柱は、身舎と庇の高さを同じにそろえる、中国の建築技法書「営造方式」に倣った「殿堂」形式を採用しています。

朱雀門同様、組物などの細部については薬師寺の東塔を参考に復元がなされており、内部構造と部材については、法隆寺の金堂を参考に復元されました。

姿、形はよく似ている朱雀門と第1次大極殿ですが、国政を執り行っていた大極殿の方が、スケールが大きくなっていることが分かります。

基壇に至っては、大極殿はなんと3.5メートルも設けられています。人々の上に立つ天皇がいらっしゃるから、このような高い基壇が設けられたのでしょうか。

 

このように、華々しく現代によみがえった朱雀門と第1次大極殿ではありますが、その姿にはいくつかの推測が含まれていること、そのため、当時の建物がそのまま復元されているわけではないことは知っておくべきでしょう。

3.平城宮跡を守り通した、棚田嘉十郎の悲しい物語

朱雀門前に建つ、棚田嘉十郎翁像

先ほど、もともと田畑として使われていたことから、平城宮跡の遺跡はほぼ完全な形で残されたとご説明しましたが、この遺跡を守り通し、保存することも容易いことではありませんでした。

平城宮跡の発掘研究と保存に尽力した、棚田嘉十郎という人物についてご紹介します。朱雀門の前には、「棚田嘉十郎翁像」と書かれたこの人物の像が置かれているので、訪れた際にはこちらもチェックしてみてください。

この棚田嘉十郎という人物こそ、平城宮跡の保存と啓発活動に、文字通り生涯を捧げた人でした。この人物について、最後に少しご紹介します。

棚田嘉十郎が平城宮跡を知ったきっかけ

棚田嘉十郎は1860年に生まれました。明治初期から大正時代にかけてのこの時代、当然今のように世界遺産などは存在すらしていませんでした。

ですが、古都奈良の存在は日本人には浸透しており、奈良へ訪れた人から、「古都奈良と言われるのはどのような場所でしょうか?」ということをたびたび聞かれ、それに答えられない自分にもどかしさを感じていた嘉十郎。

江戸時代より、平城宮跡の発掘調査などの研究が行われており、その存在はあったものの、場所を知らなかった嘉十郎は、知人に連れられて初めてその場所を訪れることになります。

そこで、うっそうと草が茂った放牧地になり果てた平城宮跡を見た嘉十郎は、その荒れ果てた姿に涙を流し、平城宮跡の保存と啓発活動に身を捧げる決意をしました。

ちなみに、平城宮跡が見つかった場所は、地元の人から「大黒の芝」と呼ばれていたそうです。この「大黒」が「大極殿」のことではないか、と言われています。

嘉十郎の覚悟

嘉十郎は、平城宮跡の図面を印刷して配ったり、出土された瓦を著名人に贈るなど、必死になって平城宮跡の存在と保存を訴え続けました。

その姿を見て、「狂人、気がふれた人だ」と、周りの人たちは白い目で見るようになります。それでもかまわず、私財を投げ売ってまで平城宮跡に身を捧げた嘉十郎。最後には、税金の支払いにも困窮するほどだったと言われています。

自分のためでもなく、お金のためでもない。ただ、日本が遺してきたものを受け継ぎ、後世に伝える。これほどの覚悟をもって行動している人が、今の世界にどのくらいいるでしょうか。

一度決意したことを、とことん追求する。嘉十郎の愚直なまでのまっすぐな想いと、まじめな人柄が見えてきます。

悲劇の最期

そんな棚田嘉十郎、最期は自決によりその生涯を終えてしまうことになります。自決という悲しい最期を迎えてしまった経緯をお話ししましょう。

嘉十郎の懸命な活動もあり、平城宮跡の保存会が結成されるなど、徐々に努力が実を結び始めます。

嘉十郎は資金を集め、平城宮跡を買収する計画を立てますが、奈良県との意見が合わず、計画がとん挫しました。そこに、ある新興教団が、土地の買収と保存会への寄付に名乗りを挙げます。

これに乗った嘉十郎でしたが、最終的に、この教団の指導者が平城宮跡の土地を個人的に所有し、新興教団が直接管理をする思惑であったことが発覚し、これに承諾した嘉十郎は厳しい批判にさらされることになりました。

責任を感じた嘉十郎は、ある日妻子を墓参りに送り出した後、家で自決しました。喉を掻っ切ってとも、割腹とも言われています。

つくしても つくしきれない君のため 心きめるは きょうかぎりかな

棚田嘉十郎の辞世の句です。最後の最後まで、平城宮に想いを向けていたことが、痛々しいほど伝わってきます。

 

いかがでしたでしょうか。決して目に見える形だけではその価値が分からない平城宮跡。ですが、その分そこを訪れた時に感じるものは、他の構成遺産よりも大きいのかもしれません。

ぜひ皆さんも平城宮跡を訪れ、その歴史に想いを馳せてみてください!

 

(参考:「平城京ロマン」 井上 和人、粟野 隆 著 京阪奈情報教育出版株式会社)

 

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